娘さんが進路の相談に来たとき、谷口さんは大反対したのだという。

「俺たちは似たもの親子だった。一度言い出したら聞かない頑固者同士。娘は家を飛び出し、何年も帰ってこなかった。俺も気にはなっていたが、こちらから連絡もできなかった。すぐに弱音を吐いて帰ってくる、そう高をくくってたんだよ」

 そして娘さんが戻ってきたのは実に十年後だったらしい。ひとりではなく男の子を連れてだった。当時五歳になる健二くんだ。

「相手の男とは別れたと言ってそれ以上は話さなかった。俺も聞きはしねぇ。ただ娘と孫が帰ってきてくれて俺は純粋に嬉しかった。でもな、あいつは娘としてではなく、母親として戻ってきたんだよ」

 意味がわからずにいると、今度は樫野さんが谷口さんの話を継ぐように口を開いた。

「……聡子ちゃん、病気だったのよね」

 肉が網の上で焦げそうになっている。でもそれを指摘する人は誰もいなくて、炭っぽい独特の香りが辺りを包んでいった。

 樫野さんは目を閉じて、静かに息を吐いた。

「もう手の施しようもなかった。聡子ちゃんもわかっていたんだと思う。だから谷口さんに健二くんを託すつもりだったんでしょうね」

 聡子さんは、往診を受けながらお父さんと息子の健二くんと一緒に最期までここで静かに暮らしたんだという 

 そして、ミケは聡子さんが亡くなる前に、健二くんに与えたものらしい。だから名前がミケランジェロのミケななんだ。

 勝手な想像だけれど、聡子さんが好きだったのかな? 健二くんがどんな思いで名付けたのかを想像し、また切なくなる。

 直接知っている人でもないのに、まるで自分の知り合いを亡くしたかのようだった。私も母を亡くしたから健二くんに同調しているのかもしれない。けれど、きっとそれだけじゃない。

「でも母ちゃん言ってた。じいちゃんとミケが俺の家族になるから大丈夫だって。いつも俺とじいちゃんとミケを見守ってるから心配しなくていいって」

 不意に健二くんが言葉を発し、全員の注目が集まった。彼はそれを受けるように全員をぐるっと見渡し立ち上がる。その表情はいつになく真剣だ。

「だいたい、みんなが言ってる七パーセントってそんなに難しいのかよ?」

 必死で訴えかけているのに、机がないので手に皿と箸を持ったままなのがどこか締まらず、健二くんには申し訳ないけれど、つい気が緩んでしまう。

「七パーセントっていえば……医学部の平均合格率がそれくらいかしら?」

 彼の質問を真面目に考え、曖昧に答えたのは樫野さんだ。それを聞いた健二くんは、閃いた!という顔になる。

「じゃ、俺医学部に入って医者になるよ! そしたら地球が助かるって証明できんだろ?」

 突拍子もない宣言に皆、目が点になった。ややあって一番に吹き出したのは宮脇さんだ。

「どういう理屈だよ、それ」

「なんだよ。そういうことじゃねーの?」

「なら、まずはミケランジェロが誰なのかちゃんと知るところからだな」

 穂高も笑っている。私も自然と顔を綻ばせた。

「なら健二くんには、是非うちの後継者になってもらおうかしら?」

 なんの後継者だろうと口を挟もうとしたら、谷口さんがやれやれといった調子で説明する。

「この人、医者だよ。国立病院でずっと産婦人科を担当していたらしく。今は自宅で助産院をしている」

 まさかの職業に私は樫野さんを二度見した。それは理恵さんも同じようで、まじまじと樫野さんを見つめている。

 ただ、初対面での樫野さんとのやりとりを思い出せば納得だ。たしかにまさに診察というか医師という感じだった。先生というところまでは直感的にあっていたらしい。

「安心して。まずはやっぱり大きいところで診てもらって、異常がないようならうちで面倒見てあげるから」

 どんっと厚くない自分の胸板を樫野さんは叩く。続けて神妙な面持ちになった。

「ずっと田舎の産科医不足が気になっていたの。出産するのにここから中心地まで来る人も珍しくなかったし、でもいざというときにそれだと困るでしょ? だから思い切って二年前に自宅を改装して助産院を開いたもの。ところが隕石やら、月が降ってくるわで閑古鳥状態で……」

 肩をすくめて樫野さんは笑う。私たちに泊まっていくようにと『部屋がたくさんある』と言ったのは、出産した人の入院用にと設けられたものだったというわけだ。

「たぶん国立病院なら機能していると思うわ。なんなら知り合いの先生宛に紹介状を書いてあげるから」

「はい。ありがとうございます」

「お礼はいいわよ、医者だもの。私もやっと自分の役割を果たせて嬉しいわ」

 気づけば、理恵さんの頬には涙が伝っていた。

「おい」

 ところが不機嫌な声に理恵さんの肩がぴくっと震える。宮脇さんは怖い顔のままぶっきらぼうに言い放った。

「道路事情も不明だし、病院の混み具合もわかんねぇだろ。だから明日の朝にこっち出るぞ。早めに医者に診せた方がいいんだろ」

「よ、よろしくお願いします」

「兄ちゃん、軽トラだけど飛ばすなよ」

「ったく、わかってるよ」

 すっかり打ち解けた様子の宮脇さんと健二くんがやりとりし、二人の間に挟まれた谷口さんが『思い出した』と口にした。

 そのまま谷口さんの視線は理恵さんに向けられる。

「そういや石津さん夫婦があんたが生まれる前におおつき食堂に来たんだよ。奥さんが妊娠して、やっと体調が安定したから焼肉食いに来たって、嬉しそうだった。だから周りも、俺もおめでとうって声をかけたんだ」

 谷口さんは優しい顔をした。慈しむような、懐かしそうな表情だ。

「両親が亡くなったのは自分のせいだとか、ばちとか思うなよ。親は子どもが幸せだったらいいんだ。あんたも腹の子のことを考えてるんだからもう立派な母親だよ。……おめでとう、ご両親も喜んでるだろうな」

 理恵さんは両手で顔を覆い、何度も頷いた。『ありがとうございます』というのは嗚咽混じりで、でもしっかりと届いた。やがて理恵さんは涙目ながらも、柔らかく微笑む。

「私、妊娠がわかって、彼がいなくなって、どうしようってずっと不安でした。つらいこともたくさんあったから。でもこの子がいるから、ここまで生きてこられたんです」

 そう語る理恵さんの笑顔は、もうすっかりお母さんの顔だった。

 一年以内に地球が滅びると聞いて、誰もが未来を奪われたと思った。思い描いていた夢は、叶わずに消えるだけなんだって。

 世界が終わりを迎える間際になり、多くのものを失っていく。それは物であったり、大切な誰かだったり、信念やプライドという曖昧なものかもしれない。

 そして月の落下が伝えられ、露になっていく人間の醜い部分ばかりを見ていた。他者を押しのけてでも自分が一番という人が多くて、争いも絶えない。

 私を含めて人は弱いのだと思い知らされた。
 
 だから人間関係を上手く築けない自分は、誰も信じずに関わらないのが最善だと思った。部屋に閉じこもって勉強で現実逃避をした。

 ところが今、私の目の前にいる人たちは、みんなほぼ初対面で他人なのにも関わらず、それぞれなくしたものを補い、支え合っている。

 人ってこんなに優しかったんだ。
 
 それから他愛もない会話を再開させる。終始和やかな雰囲気とは言えないけれど、こうして誰かと食卓を囲むなんて久しぶりだった。

 キャンプみたいで楽しい、という感想は不謹慎かな?

 世界の終わりとか、月が落ちてくるとか、そんな話題はもう出てこない。笑い声も聞こえてくる。ただ私はその一方でずっと自分のお母さんやお父さんのことを考えていた。