声と同時に腕を掴まれ、私の身体はバランスを崩す。

 電車での件を指摘されたように、私のバランス感覚は決して良いとは言えない。そこに男の人の力が加われば、尚更。簡単に傾く。

「っな!」

 ただ、普段鈍くてどうしようもないのに、この時は一瞬の判断が出来て動けた事は、自分の身体ながら褒めてあげたいと思った。

 最悪の事態は免れたのだ。フッと目の前に現れた影を何かなんて、考えなくても分かった事。きっと、本能が危険を察知したのかもしれない。

 逃げなきゃいけないぞ、って。

 自分の唇の端に冷えた温度が触れた瞬間、ぞわっと粟立つ背中。喉の奥が詰まる。

「何するんですかっ!」

 声を出した直後は、怒りと興奮で身体が瞬時に熱を持った。

 突然の攻撃を仕掛けてきた相手の腕を振り払って逃げようとしたものの、強い力は腕から離れず、結局、勝負にならない綱引きが始まるだけで。

 それでも私は必死だった。

 逃げなきゃいけない。

 逃げなきゃいけない。

 これから、よからぬ事が始まるに違いない。そんな警告の様なものが頭の奥で響く。

「離してっ!」
「なんだ。あと少しだったのに」

 こちらの渾身の力と叫びに返って来たのは、サラリと抑揚無く呟かれた言葉。

 それに凍りついた。思考は数秒止まる。

「隙だらけだな、アンタは。そんなんだから捕まるんだよ」
「……なに、いって……」
「俺みたいな奴とかアイツみたいなのにな」

 今までの零さんはどこに行ったのだろう? 唇の端を歪めて薄く笑う人は何者?

 頭の中は、ただただ混乱していた。そして、目の前の零さんを単純に怖いと思う。私の腕を掴む零さんの手の温度が低い事が、それを助長してくる。

 小刻みに揺れる腕は、力を籠めているせいなのか、それとも恐怖に震えているせいなのか、自分でも説明なんか出来ない。

 とにかく、この冷たさが少しでも早く離れて欲しいと思った。

「諦めないから。簡単には諦めてやんない。だって花音ちゃんが欲しいし」
「は!?」
「取られたら取り返せばいいワケじゃん?」

(何言ってるの?この人……!)

 あまりにも無邪気な口調で言われて、何も返せなくなる。おもちゃを取り合う子供の言い分じゃあるまいし、言葉に重みなんて全然感じなかった。

「だよな?」

 一変して、いつもみたいな明るい笑顔が私を見下ろしていたけど。

 瞳が全く笑っていない。

 その事に気が付いて、また震えた。今度は間違いなく言える。これは恐怖からだ、と。

「零さん……怖いです。お願いだからもう」
「俺が怖い?」
「だってなんかいつもと違う……」
「狙ってるモノ手にしてる時の男なんてそんなもんだろ、普通」

 私がビクビクしてるのを面白がる様に、ハッと短く笑う人。

 そういえば、店での初対面時からの零さんは、どちらかといえばこんな感じに近かった。自分に向けられた空気じゃなかったから、ただの悪ぶってる口の悪い人にしか見えなかっただけだ。藤本さんも、セツナちゃんも、彼のこの姿を知ってるからこそあんな態度だったんじゃないだろうか?

 二人で話していると親しみしかわかないから、私は気付けなかった。皆が彼を誤解してると思っていた。

 でも、それは逆で。誤解してたのは私の方だったのかもしれない。あの迷子の男の子の件も、すっかり忘れていた。

「アンタが呑気に構えてんのが悪いんだよ。自分の周りはイイ人ばかりだとでも思ってんの? めでたいね」
「ひどい……」
「なーんてね! 花音ちゃーん。怖いだの酷いだの、俺だって一応傷付く位の感情持ってんですけどー? まぁイイや。これだけ言えば、さすがに少し位は俺の事も意識してくれるっしょ。頑張った甲斐もあるってもんだな」
「!?」

 さっきまで笑っていなかった目が、途端に愉快気に色を持った気がした。彼の明るい眼鏡の縁の色と同じ様に。

「好きとは正反対な気持ちでもいいよ、今は。キッカケさえあれば、そんなもんコロッと変わるしね」

 そう言ってニッコリと笑う。知ってる笑顔だ。

(さっきまでの態度には、少なからず演技も含まれていたとでも言いたいの……?)

 私にはちっとも分からなかった。何故そんな事が必要だったのか、なんて。