『じゃあ早く帰りな。悪い事は言わない。黒い影はすぐそこまで来ているよ』

 怖いと思えば、経験がそれを助長する。

 前に会ったハンチング帽の男の言った言葉を思い出した。

「うぅ……。早くいこ」

 独り言で不安を紛らわせてみる。オカルトは苦手っ……!

 びくびく道を歩く私は、まるで罰ゲームでお化け屋敷を行く人みたいだった。他の人から見たらなんだか不審者っぽい。

 人っ子一人いない細い道に、遠くから聞こえる賑やかな笑い声。アンバランスな空気が余計に怖くて。早く早くと急いた気持ちでお店へ向かいかけた……その時だ。

(く、靴音……!?)

 コツコツと音が響いてきた。奥の道から一人分。

 結城さんがさせる上品な音ではなく、ゴツゴツと言った方がいいような、ちょっと乱暴な音だ。石畳を歩くせいか、時々地面を擦る「ガツッ」という音も混ざる。

 闇から聞こえてくる音は確実に私の背後から、段々と近づいてきていた。

『悪い事は言わない。黒い影はすぐそこまで来ているよ』

 また思い出してしまった。ついでに、あの男の不気味な姿まで思い出してしまう。

 そうなると私の足は可笑しいほど動かなくなった。

 ザワッ、と。

 ひんやりした空気の流れが足元から這い上がってくる。……でもそれは多分気のせいなのだ。風なんてさっきから一度も吹いていないもの。

(え……どうしよう? とりあえず会っちゃったら「こんばんは」とか? いやいやいや……違う?)

 恐怖が勝ると、なんてことない事までパニックの原因になるらしい。

 もう、ただの通行人すら怪しい人物にしか思えない。

 不審者? 痴漢?

 ぐるぐると巡る最悪事態のイメージ。

 相変わらず足は棒で、全く動かなかった。