「んっ!?」

 瞼も体も動かなくなり、私は目を見開いたまま硬直。

(え……え!?)

 自分の目に映っているものは何か、なんて考えなくても、今唇に触れているものがすべてを物語る。

 ふわり、とあたたかな温度。感触。

 ゆるゆる中途半端な抵抗なんて当然意味を成す訳も無く、私は、いともあっさり結城さんに唇を許す事になっていた。

「……っ」

 何度も角度を変え重ねられて。重なるごとに唇に熱が生まれ、でもすぐに彼のそれに奪われる。

 決して深く侵攻しては来ない重ねるだけのキスなのに、まるで奥底まで入り込まれる様な不思議な感覚には、思わず気が遠くなった。

 キスは初めてじゃない。だけど、こんな身体の芯を脅かされる様なキスは、初めての経験だ。

 何なのだろう、これは。何故かどうしようもなく胸が切なくて、でもそれに溺れそうになる――。

「……花音さん?」

 やっと唇が解放された時には、私は本当に溺れかけた後みたいになっていた。

 一気に抜ける力。呼吸が上手く出来ない。クラクラする頭とフラフラする足では自分の身体を支え切れず、情けなくもその場にへたり込んでしまう。

「大丈夫ですか?」

 頭上で結城さんの声がした。まだボーっとする中顔を上げれば、そこには崩れ落ちた相手をとても冷静に見下ろす結城さんの姿が。

「あ……」
「立てます?」

 さっきまであんなに甘ったるいキスをしていた人とは思えない、何ともあっさりした物言いに、私のぼんやりしていた意識はそこで驚異的な回復をみせた。

(な……なに? いまの……っ!)

 いたって冷静顔の相手と寸前までしていた行為が、生々しく脳に甦ってきた。

 芯をも溶かす、甘くて熱いキス――。

 結城さんの表情に悪びれも照れも無いのが、こちらの羞恥を倍増させる。これでは、あのキスはイレギュラーケースじゃないと言ってるみたいじゃないか。

 あくまで普通のこと、と。

(……普通……あれが?)

 顔が、全身が、有り得ないくらい熱を持った瞬間。スッと差しのべられた、結城さんの綺麗な手。嫌ではなかったけど、ほぼ条件反射で私の身体は逃げる様に後ろに傾いていた。

(え。 嫌じゃ、ない……?)

 矛盾する自分のキモチは戸惑いを招く。

 ほぼ強引に唇を奪われてしまったにも関わらず、私はまだこの人から本気で逃げる気が無い……とでもいうの?

「……ゆ、結城さん……」
「ほら。だから言ったでしょう? 送りますよ」

 クスリと笑う瞳が、一瞬とても意地悪そうに見えたのは、気のせいだろうか?

 それを確かめる間もなく、私は結城さんに床から引っ張り上げられた。スリッパの足元が、散乱する砂糖のせいでじゃりつく。不注意で(と言っても、半分は結城さんのせい!)汚してしまった事が気になり、「どうしよう。やはりここは片付けなければ」と思っていると、結城さんは優しい声音で、

「大丈夫ですよ」

 と言った。汚れた床は気にせずにと気遣ってくれる。

「ああ、それから……“こちら”は後日ちゃんとお返しします。それまではお借りして……」

 そこまで言って、何が可笑しいのかクスクス笑い出す結城さん。

 私は、自分が貸しておくのは砂糖なのかポットなのか、それともまた怪しい裏に導かれる様な“何か”を知らず貸しておくのか――。確認しようとも、怖くて聞けなかった。

 結城さんがひとり楽しげなのが、やたら気になる所なのに。

「……えっと……あの」
「花音さん、明日も朝からバイトでしょう? 土曜日なのに大変ですねぇ。長く引き留めてしまいましたから、ちょっと申し訳ない気がします」

 肩を竦めて見せる長身のその姿。結城さんの妖艶さは、いつの間にかどこかへ消えてしまっていた。

 今、目の前で控えめな微笑みを浮かべている彼は、どこからどう見ても気品溢れる紳士にしか見えず、数分前の“あの情熱さ”など全くもって見つからない。

 ほんの一瞬見せた気がした意地悪な瞳なんて、尚更だ。

 どこにも、ない。