時刻は午後九時少し前。お風呂から上がってミネラルウォーターを飲んでいる時だった。

全く予期せぬタイミングで玄関のチャイムが鳴り響き、私は思わずペットボトルを放り出しそうになる。

当然……時間指定した宅配も無いし、友達が遊びに来る予定も無い。そもそも、そんなのあったら、のんびりお風呂になんか入っていない。

空耳? と首を傾げながら、ドアを開けた。隣のおばさんかな――と、何も考えずに。


「はぁい……」

「夜分遅くに、申し訳ございません」

「っ!?」


いきなり深々とお辞儀をする目の前の人物に、体が硬直した。

礼儀が良過ぎ。雰囲気があり過ぎ。――語彙力はどこかへ飛んでいった。

このマンション、オートロック以外の他に何があった……?

コンシェルジュがいる高級マンションなんて聞いてないけど……?

誰っ???

疑問符だらけの私に深々と頭を下げていた人物は、ゆっくりと体を戻す。

ふわっと甘い香りが玄関に舞った。


「私、本日隣に越してきました、結城と申します」

「……は、はあ……」

「どうぞ宜しくお願い致します。それからコチラ、ご挨拶代わりに」


そう言って差し出されたのは、美味しいと噂には聞いてるけど自分では買えないだろ、という某高級菓子店の箱。

私は、箱と贈り主の顔を交互に見ながら、おずおずと手を出した。

 
隣人……隣人!?

長身にピシッと決まったスーツ姿、さらさらの黒髪に少し茶色がかった瞳、端整な顔。

次元が違い過ぎる……どこのスターですか、貴方。こんな家賃そこそこのマンションに住む様な庶民には到底見えませんけど。


「こ、こちらこそ……宜しくお願いします。私も長く住んでるとはいえ、このマンションの事はあまり詳しくないんですけど……」


動揺しつつ、とりあえず隣人として愛想よい所を見せる。笑顔で箱を受け取った。

相手はともかく、これはラッキー……? 明日は親友呼んで、このお菓子でお茶か……?


「では、私はこれで……。ああ、それから」


長身が近づく。

手首をやんわりと捕まれて、彼の綺麗な顔が私の顔に近づいた。


「……っ!?」

「余計なお世話かもしれませんが……入浴後はもう少し露出を控えた方がよろしいかと。それに、女性の一人暮らしならば、夜は安易にドアを開けないのが身の為ですよ?」


耳元に低い声。

吐息が頬に触れ、まるで恋人にするように色っぽい仕草で、彼の長い指が唇をゆっくりなぞっていく……。

私は、突然の事態に金縛りにあったみたいに動けなくなった。


「いつ誰が来て、貴女の事を攫って行くかわかりませんからね。例えば、私……とか?」


潜められた声が有り得ない位の艶を見せ、背中が思わずゾクッと震えてしまう。

声にならない声。あまりにも顔と顔が近いので、視線もどうしたらいいのかわからない。

迂闊に動けば、彼の唇が私に触れるだろう。


「あ……あ、の……?」

「……お休みなさい。戸締まり忘れないで下さいね」


クスリと笑うと、彼はスッと体を離す。そして、意味深な微笑みを残しながらドアの向こうに消えた。