なに、これ。
どうして、今更、こんな手紙を、どうして。
読み終わった拍子にシュンを見ると、シュンも私の手紙を覗き込んでいた。その目頭が熱く、赤くなっているのを見て、それまで我慢していた何かがぼろぼろと水滴のように溢れ出して頬を滑り落ちていった。
席、いちばん後ろの端っこにしてよかったね、シュン。
封の切られていなかった封筒。そっか、シュンもこの5年間、この手紙を開くこともわたしに渡すこともできず、ずっと大事に抱えていてくれたんだね。
そっと手紙を封筒に閉まって、震える右手で、シュンの左手を握った。
お母さんとお父さんが泣いている時、ハルカのお葬式にでた時、クラスでハルカの死を告げられた時、そのどれもで、私は涙さえ流すことができなかった。
どうしてみんな泣いているんだろう。どうしてそんなことを言うんだろう。どうしてそんなに悲しい顔をするんだろう。どうしてまた会えると願わないのだろう。だって、ハルカがいなくなるなんて、そんなこと、あるわけない。毎日一緒に登校して、休み時間に他愛もない話をして、難しいテストの勉強に頭を悩ませて、部活では水の中を駆け抜けて、放課後には夕暮れの中を並んで歩いた。小学3年生からずっと、シュンと3人でいた。
桜が降る春の日も、泳ぐ金魚を飼いたいと駄々を捏ねた夏祭りも、銀杏のにおいに顔を顰めた秋の朝も、教室のストーブで悴んだ手を温めた冬休みの登校日も、私の記憶には全て、ハルカとシュンがいる。いつだって一緒にいて、時にはうまくいかないことに泣いて、時にはお腹が痛いくらい笑って、時には意見がぶつかって気まずくなったこともあった。けれどそのどの記憶でも、ハルカは優しかった。笑っていた。とても、綺麗だった。そんなハルカを、私はずっと、見ていた。
ハルカ、わたし、あなたにずっと恋をしていました。ずっと、嫌われるのも、一緒にいられなくなるのも怖くて、隠していました。直接言うことがついに出来なかったけれど、私も、あなたのことがすきでした。5年越しのラブレターに、こんな形で返事をすることになってしまって、本当にごめんなさい。
ハルカ、わたし、あなたのことが好きでした。
なんだ、私たち、両思いだったんだね。信じられないよ、こんなこと、ハルカ、────ハルカ。
「始業式の日、ハルカに呼び出されて、先に聞いてたんだ。ハルカが夏に海外に行くこと」
「……うん、」
「その時ハルカ、大泣きして。1人で歩ける状態じゃなかったから、手を引いて帰った。多分、それが手を繋いで帰ったように見えたんだと思う」
「そ、っか、わたしの、勘違いだったんだ、」
「ずっと、ハルカがいなくなったこと、どこかで受け入れられなかった、たぶん、ナツノもそうだと思うけど」
「うん、本当に、そうだね」
「過去にするのが悪いことだって、思い込もうとしてた。けど、忘れることと、過去にすることは違う」
「うん、」
「おれはハルカのこと、忘れないと思う。どれだけ記憶が薄れても、ハルカと過ごした子供の頃が、すごく楽しかったこと、ハルカの存在、それだけはずっと憶えてる」
「うん、わたしも、そうだよ、ハルカの存在を忘れるわけないよ」
「そう、だから、それだけでいいんだよきっと。おれたち、大人になっていい。ナツノは、誰かをすきになったっていい」
記憶は薄れていくのかもしれない。けれど、ハルカの存在を、わたしたちが忘れることは決してない。ハルカを過去にすることが、悪いことだと必死に引き留めていたのは、きっとシュンじゃなくて私の方だ。
シュン、わたしたち、大人になれるかな。
わたし、他の誰かをすきなっても、いいのかな。
ぼろぼろと流れて溢れるそれを止めることができない。苦しい。息を吐くのが苦しい。声にならない声が喉元に詰まって、目も鼻も痛い。嗚咽のようなものを必死で抑える。感情を出すことがこんなに苦しいだなんて知らなかった。今までずっと隠していたから、バケツに溜まった水のように溢れ出てしまった。
きっとわたしたち、この瞬間をずっと待っていたのかもしれない。
ハルカ、あなたのことを、忘れるわけじゃない。置いていくわけじゃない。
わたしたちは、あなたの分まで、大人になる。それは、もう、どうしたって変えられない。
「……誰かを、すきになっていいって……それ、は、スミくんの、こと?」
ボロボロと溢れる涙を必死に拭いながら、辿々しく、途切れ途切れに言葉を紡ぐと、シュンはゆっくりと頷いた。私のように声を上げることはないけれど、シュンの頬にも静かに涙が伝っている。
「うん。……すきなんだろ? あいつのこと」
「すき、なの、かな」
「うん」
「すきに、なっていいのかな」
「いいよ、俺が保証する。もしハルカが怒ったら、俺が宥める」
「なに、それ、シュンのばか」
「性別関係なく、スミに惹かれてるなら、素直にそれでいいと思う」
性別関係なく、か。それもそうだ。
わたしの恋愛対象は女の子で、ハルカのことが好きだったのは勿論、性対象も女の子だった。何度異性に好意を向けられても、何度異性と身体を重ねても、男の子、を好きになることなんてないんだと思っていた。
不思議な感覚、だ。
人生で初めて、異性に対して、ハルカに対して抱いていた感情と似たようなものを感じた。シュンに対して持っている友愛のような何かとはまた違う、言葉にするのを躊躇うような、憧れと、尊敬と、途方もない、興味と。彼の手にもう一度触れてみたい、彼の恋愛対象が自分であればいいと思う、そんな欲求。いつの間にこんな思いが芽生えてしまったのか、それすら定かではないけれど。
「全部、お見通しなんだね、シュンには」
「何年一緒にいると思ってんの」
「……ずるいや、シュンばっかり」
「ていうか、スミにナツノのこと教えたの、おれだしね」
「え? どういう、こと?」
「覚えてる? スミのこと、いい奴だと思うって言った理由」
「え? なんだっけ、」
「言ってなかったよな、そういえば」
「直感とか、なんとか、言ってなかった?」
「まあ、それもあるけど。ナツノ知らないだろうから教えとくけど、スミ、サッカー部と兼任で、写真部部員だよ」
気づかなかった? と。シュンが当たり前みたいな顔をする。うそ、そんなこと、今初めて知った。
今度聞いてみなよ、滅多に部室に来ることなんてないけど、とシュンが続ける。それと同時に、あ、とシュンが呟くので、拍子にガラス越しのプールサイドを見た。
いつの間にか、キサちゃんが泳ぐ時間になっていたみたいだ。
私たちが目線を上げたと同時に飛び込みの笛が鳴って、いちばん右端レーンの一際小さいキサちゃんが、とても綺麗なフォームでプールの中へと飛び込んだ。大きな水飛沫をあげて沈んでいくその背中を、窓から差し込む光の煌めきが、きらきらと照らして波に揺れていく。
滲む視界の中で、いつか見た、ハルカの背中がそれに重なった。
きらきらとひかる水面に、その残像がゆっくりと沈んでいくのを見た。ひどく綺麗で、いとおしくて、狂おしくて、かぎりなく麗しい。どうか、どうか、まだ消えてほしくないと願いながら、思わず延ばしかけたわたしの右手をシュンが抑えた。シュン、きみも、もしかして同じ景色を見ているのかな。
ひらひらと水の中に消えていくサカナのようなそれを、じっと目に焼き付ける。片時も見逃したくない。目頭が熱くて痛い、溢れるもののせいで視界が滲む。消えていく。キサちゃんに重なる残像が、ゆっくりと沈んでいく。けれど忘れない、忘れるわけがない。胸の奥で、瞳の奥で、脳の奥で、わたしはずっと、この景色を抱えていく。約束する。
この煌めきを、わたしはずっと、連れて生きていく。だから、ハルカ、どうか、もうひとりで泣かないでね。傷つかないでね。
大好きだよ、だから、わたしはあなたをここで手放すよ。