ここまで来てしまえば、怖いものなんてない。
それどころか、さっき聞かされた話が嘘となると、真実を知りたいと思った。
私は首を縦に振る。
「……わかった」
そう呟いたリクは、どこか悲しそうに見えた。
「ヒナには双子の妹がいたんだ。でも、五歳のときに死んだ。体が弱くて、病気で。そのお見舞いに行く途中に、両親が事故で死んだ。ハルの入院費、手術費のために借金をしていたせいで、二人は親族からのけ者にされていた。だから、ヒナの引き取り手がなかったんだ」
当然のことだが、私はそれを知らなかった。
「死んだ妹の名前はハル。前川晴香だ」
全員息をのんだ。
黙ってリクの話を聞く。
「ハルは明るく元気な子で、ヒナは内気だったんだ。それで、家族三人が死んだとき……ヒナはハルを呼んだ」
言っている意味がわからなかった。
死んだ人間、ましてよく覚えていない人間を、どう呼ぶというのだろう。
「ハルが教えてくれたよ。ヒナに呼ばれた。ヒナは、無意識のうちに明るく強かったハルに憧れ、強いハルになりたいと思ってた。だから、自分はここにいるってね」
「じゃ、じゃあ……ハルさんは、人格の入れ替わりを知っていたってこと……?」
アキの動揺した声の質問に、リクは頷く。
「待って待って……だとすると……ハルさんは、意図的にヒナにつらい思いをさせてたっていうことに……」
「そういうこと。ハルは腹黒なんだよ」
今まで聞いてきたハルの人物像が、一気に崩れた。
それと同時に、ハルを憎いと思った。
「ハルはヒナに感謝してた。生きられなかった自分を、呼び覚ましてくれたって。その礼なんだって。つらい経験をすることが。でも、ヒナがいい思いをすることは許せないって」
私以上に、リクがつらそうな顔をした。
「生きたかった自分が死んで、つまらなそうにするヒナが生きていることが許せなかった。だから、ヒナの人生を奪った。……自分勝手が過ぎるよな」
「ハルさんを消せば、いいんじゃ……」
アキは苦しそうに提案した。
ハルを慕っていたアキからしてみると、今の話は信じたくないだろうし、ハルが消えることは何よりもつらいことなのだろう。
「何度も考えた。でも、消えなかった。ハルの執念の強さに、負けてしまった。だから、直接言った。消えてくれって。そしたら……死ぬって言われた」
言葉が出なかった。
吐きそうになって、口に手を当てる。
「俺は……どんな形でも、ヒナを残しておきたかった。だから、ヒナ自ら消えることを願うように仕向けた」
「ヒナが消えてどうなるの」
アキの言う通りだった。
私を残したいなら、消えてはいけないのではないのか。
「そしたら……ヒナは苦しまなくてよくなるだろ」
リクは優しく、だけど切なく笑った。
「ヒナがいなくなると、ハルが、ヒナが経験してきた倍以上の苦しみを味わうようになる。ハルには、幸せが似合わない」
憎しみのこもった声を最後に、リクは口を閉じてしまった。
「お兄ちゃんは……今のこと、知ってたの?」
あの人は頷く。
「理久君に協力してほしいって言われて……」
「だとしたら、協力者を間違えたね、津村」
「ああ。ここまで気弱な人間だとは思わなかった。まさか、嘘をつくことすらできないなんてな」
リクに言われて、その人は肩をすくめた。
リクがそう言うってことは、本当に私を消そうと……
でも、それは私を守るためで……
「ヒナ、大丈夫か?」
リクの優しい声で、ますますわからなくなる。
「リクは、どうして私のために、そこまで……」
「好きだからだよ。小さいころからずっと、ヒナが好きだった。だからヒナと離れたくないって親にわがまま言った」
言葉にできないような嬉しさに、涙がこぼれた。
私という存在が、認められたような気がした。
「俺は、両親と妹を失ったヒナに、何もできなかった。ハルになったとき、めちゃくちゃ後悔した。ハルに話を聞いたとき、守りたいと思った」
リクの言葉で涙腺は崩壊する。
「……何が正解なのか、俺にはわからなかった。守りたいと思うのに、ヒナが消えなきゃならないっていうのが最善っていうのが、納得できなかった。でも……ヒナを幸せにしたいと思うけど、そうするとハルになってしまうから……」
私が苦しんでいたのと同じように、リクも苦しんでいたんだと思うと、愛しいと思った。
「……リク」
涙を拭い、彼の名を口にする。それだけで、幸せな気分になる。
「今まで、私のために苦しんでくれてありがとう。私、リクのために消えるよ」
私を見るリクは、うっすらと涙を浮かべ、俯いてしまった。
「もう、これ以上ない幸福を感じちゃったから、きっと起きたらハルに戻ってる。だから、これが最後だよ。どうやったら消えるのかとか全然わかんないけど、もう出てこないように頑張ってみる。だから……」
私は立ち上がり、リクの横に座る。驚き顔を上げたリクの頬に口づけた。
「今日が最後、だから」
すると、リクは私を抱きしめた。リクは泣いて言葉が出てこないようだった。
涙が落ち着いてきたのか、リクは私から離れた。
「……あの、紙とペン、借りても?」
私は恐る恐るあの人に尋ねる。
あの人もアキもいつの間にか泣いていたみたいで、二人とも涙を拭っていた。
あの人は紙とペンを出してくれた。
「何するの?」
「手紙書こうと思って。晴香に」
アキの質問に答えながら、ペンを執る。
ハルに言いたいこと、たくさんある。だけど、小さなメモ用紙にそんなにたくさん書けなかった。
本当に言いたいことだけを書いた手紙は四つ折りし、リクに渡す。
「これを、ハルに渡してくれないかなあ?」
自分でもわかるくらい、眠そうな声だった。
当然リクも気付いて、リクの涙はさらに溢れてきた。
「……ちゃんと渡す」
リクが受け取ってくれたことに安心し気が抜けたのか、私はリクの膝を枕にして倒れてしまった。
「ヒナ……」
リクの不安そうな、穏やかな声が上から聞こえてくる。だけど瞼が重くて、リクの顔が見れない。
最後くらい、愛しい人の顔を見たかったのに。
あの人の名前だって、聞いてないのに。
初めてできた友達と、もっと過ごしたかったのに。
そんな簡単なこともできないなんて。
ハルに残した言葉は間違ってなかったな。
「みんな……迷惑かけて……ごめん、なさい……ありが、とう……」
そしてそのまま意識を手放してしまった。
目が覚めた。
感覚でわかる。
この体が、私だけのものになった。
その瞬間、笑わずにはいられなかった。
「相変わらず気味の悪い笑い方だな」
この世で一番嫌いな声、聴きたくない声が聞こえてきた。
「……理久。もう私……この体に用はないんじゃないの?」
部屋の出入口付近の壁に体を預けて立つ理久は、私を睨むような、だけどどこか切なそうな表情をしていた。
ああ、だから嫌いなんだ。
理久だけは。こいつだけは。私を見ない。私を通して、あいつを見ている。
あんな子供みたいな大人を。
「……まあな」
理久は納得していないように見えた。
「理久が消したの、わかってる?」
「……わかってるよ」
理久は私に背を向けた。そして離れていく。
「理久……!」
私はそんな理久を追った。
私に気付いた理久は、ため息をついた。
「お前は俺が嫌いなんだろ。だったら、出てけよ。俺もお前の性格、嫌いだから」
冷たい。
あいつと入れ替わっているときに感じる理久の優しさは、私には向けられない。
それが、悔しかった。
その優しさを独り占めするあいつが、憎かった。
「……私を……嫌わないで……」
自分の言葉だと思わなかった。思いたくなかった。
私は、こんなこと……
「ヒナの真似か?ヒナがそういうことを言うのは、お前がヒナを苦しめていたからだ。ヒナの性格じゃない。……なめんなよ、性悪女」
理久は私を嘲笑した。
一気に恥ずかしくなった。
「ヒナを消したのも、ヒナにこれ以上苦しんでほしくなかったから。ただそれだけだ」
「そ、そんなこと言って……本当はうざかったんじゃないの……」
動揺のせいでいまいちうまく言えなかった。
理久は私を睨んだ。体がすくんでしまった。
今までの睨みがいかに優しかったか。
そう思うくらい、今まで以上に憎しみがこもっていた。
「好きな女の不幸を願う男がどこにいる。幸せにしたいと思っても、そうすればお前に戻ってしまうのであれば、俺はヒナを消す。それが、ヒナにとって一番幸せな選択だと思ったから」
息ができなかった。
ここまで存在否定をされたことがなかった。
「それがヒナが味わってきた苦しみだ。これから……頑張れよ」
理久はそう言いながら私に近づいてきて、紙切れを渡してきた。
そして今度こそ離れていった。
震える手でその折られた紙を開く。
『ハルへ
せいぜい苦しめ、バーカ!
陽菜』
それはあいつからの手紙だった。
読んだ瞬間に裂いてしまった。何度も何度も裂き、それは跡形もなくなった。
絶対に幸せになってやる。
それが……私が苦しまないことが、あいつらへの一番の復讐になると思うから。
私はそう、心に誓った。
理久に出て行けと言われた私は、恋人の優翔の家に向かった。
「あの……ハル、さん……どうしてここに……」
「恋人のところに来たらいけないの?」
ドアを開けて顔を覗かせた優翔は、声を震わせていた。
怯えさせてしまったらしい。
そんなつもりないのに。
「だって、その……俺は浮気、をしてたわけで……」
そういえばそうだった。
あの日、私は理久の家に用があって、その途中にこの人が見知らぬ女と楽しそうに歩いているところを見かけたんだ。
それで……理久の家に、向かった。
助けてもらえるわけなかったのに、私は理久のところに走った。
それが、一番最後の記憶だ。
そこからどうなったのかなんて、私は知らない。
つまり、あいつに変わったわけだ。
「優翔はそんなこと……私を裏切るようなことはしないでしょ?」
「その……ごめん」
優翔は視線を落とす。
「まさか……本当にしてたの?」
優翔は何も言わない。それは、肯定の沈黙だろう。
足に力が入らなかった。
私はそれ以上優翔の顔を見ることができなくて、走って逃げた。
その途中、見覚えのある後ろ姿を見かけた。
「……明希ちゃん!」
私は彼女、明希の肩を掴んだ。
明希は振り向いたけど、とても冷たい目で私を見てきた。
そして、その冷たい表情をなかったことにするように、明希は微笑んだ。
「こんにちは、ハルさん」
明希の笑顔に、安堵のため息が出る。
「こんなところでどうしたんですか?」
「えっと……優翔さんが、浮気してたみたいで……逃げ出してきちゃった」
私はショックを受けているような演技をしてみせる。
これ以上、自分の否定されるようなことがあれば、私は……
「……ごめんね、明希ちゃん……こんなこと、聞きたくなかったよね……」
「お兄ちゃんの浮気なら、知ってましたよ」
まさかの言葉に、私は顔を上げる。
明希はまた冷たい視線で私を見下ろす。
「ハルさんが他人を思いやれない人間なら、浮気されても仕方ないですよ。……そんな人だとは思わなかった。まだ、ヒナのほうがよかった」