君という優しさに甘えた罰

 アキの疑問に対する答えを、誰も持っていなかった。
 再び静寂が訪れる。


「ヒナは、ただ彼氏に浮気されたって言ったのか?」


 彼の質問の意味がよくわからなかった。


「もしかしたら、ヒナってわかってなかった可能性が」
「そんなわけないでしょ。ハルさんとヒナ、全然違うし」
「見た目は同じだ」


 彼の反論に、アキは口を閉じる。


 言われてみると、そんな気がしてきた。
 はっきりとは思い出せないけど、あの人が驚いていたようには見えなかった。むしろ、私の話を聞いた後に驚いていたような……


「それで、なんて言ったか覚えてるか?」
「えっと……あの人に話を聞かれて……頭に浮かんだ単語をそのまま言った……浮気、してた……なんで……みたいな感じだったと思う」


 一か月も前のことな上に、混乱していたから、正確に自分で言った言葉は覚えていなかった。
 ただ、自分の中にある黒い何かを吐き出したかったことだけは覚えている。


「つまり、お兄ちゃんは混乱していたハルさんって思ったってこと?そうなると、元カノだっていうのは、私のことじゃなくて、本当にただの元カノだった……」
「ハルと話してたと勘違いしてたとなると、話は変わってくる。浮気がばれたときように準備していた言い訳……」
 彼の言葉を遮るように、アキが机を叩いた。机上に置かれたコップの中の水面が揺れる。


「お兄ちゃんが浮気してたって言うの?」


 さっき自分でたどり着いたことなはずなのに、アキは怒りをあらわにした。


「じゃあどう考えるんだよ」
「それは……」


 彼は小さく息を吐く。


「やることが決まったな。本人に話を聞きに行こう」


 彼はそう言うけれど、私とアキは立ち上がることができなかった。
 私とアキ、きっと違うことだろうけど、ショックでそれどころではなかった。


「ちょっとだけ……ちょっとだけ、整理する時間もらえないかな」
「私からも、お願いします……」


 立ち上がろうとしていた彼は、上げかけていた腰を下ろしてくれた。


「……ごめん、津村」
「気にすんな」


 乱暴な言い方だったけど、そこには確かに彼の優しさがあった。


 そういえば、私、彼の名前を知らない……


「あの……名前、聞いても?」
「津村理久」
「……リク……」


 意味もなく彼の名前を呼ぶ。
 ただそれだけなのに、どこか幸せな気分になった。


「ちょっ……成海、整理する時間、なしで」


 リクは慌てた様子で三つのコップを持って立ち上がる。
「はあ?さっきと言ってたことと違うんですけど」


 アキは不服そうにする。
 私も、どうしてリクが急に慌てだしたのか、わからない。


「明日になったらハルに戻るかもしれない」
「なんでわかるの」
「……ヒナ、自分でわかるな?」


 リクに言われて、少し考える。


 ……ああ、そうか。リクを呼んだことがちょっとした幸せとなり、今からゆっくり過ごしてしまうと、さらに幸せになってしまうってことか。


 私は首を縦に振る。


「ごめんな、ヒナ」


 リクは私の頭の中でも覗いたかのようなことを言った。そのままリクはコップを洗い始めた。
 そしてアキはじっと私を見てきた。


「何?」
「ヒナって本当にかわいそうだなと思って」


 その言葉に思わずむっとしてしまう。


「同情は」
「違う違う。言葉のチョイス間違えたな。なんていうか……誰にでも平等に与えられたはずの幸せになる権利を奪われるなんて、どれだけつらいことなんだろうって思ったの。それなのに、ずっと耐えてきたヒナはすごい子だよ」


 アキは私の頭をそっとなでる。
 目頭が熱くなったけど、目を閉じて涙が落ちるのを堪える。


「二人とも、準備できたから行こう」


 いいタイミングで声をかけてくれたリクに感謝しながら、私たちはリクの家を出た。
 あの人の家に着いたのは、それから二十分後だった。
 けれど、あの人は家にいなかった。


「メール、送ってみる」


 そういってアキが連絡を取ってくれた。
 すぐ帰るという返信があり、私たちはあの人が帰ってくるのを家の前で待つことにした。


「アキ。話って……」


 戻って来たその人は私の顔を見るなり、固まった。何かに怯えているように見える。


「……ハル?それとも……」
「まだ、ヒナ。それで、お兄ちゃんに聞きたいことがあって。外で話すようなことじゃないんだよね」


 私よりも先に、アキが話してくれる。
 自分で話したほうがいいと頭では思っているけど、こうしてアキが話してくれて安心している自分がいた。


「……わかった」


 そして私たちはあの人の家に入った。
 四人で食卓テーブルを囲む。


「お兄ちゃんは、ハルさんとヒナのこと、知ってた?」
「どういうこと?ヒナはハルの体を乗っ取てるんじゃ……」
「それは」


 アキが説明しようとすると、私の隣に座るリクが首を横に振った。


「俺から説明する」


 そしてリクはさっき私たちに話してくれたことをほとんどそのまま、その人に話した。
 浮気のことは伏せて。


「じゃ、じゃあ……ヒナが幸せだと思ってくれたら、ハルは戻ってくるんだね?」
 リクの話を整理し終えたのか、その人は言った。


「簡単に言えば。でも、ハルに戻っても大丈夫なんすか?」
「えっと……どういう意味、だろう」


 その人はとぼけるように言うが、動揺が隠しきれていなかった。
 私もアキも、リクの言おうとしていることがわかり、リクの顔を盗み見る。


 私がリクを知ってまだ全然時間が経っていないけど、リクが真剣にそのことを言っていることはわかった。誰がどう見ても、冗談を言っているような顔ではなかった。


「成海に言われたんすよ。ヒナからハルに戻してほしいって。……そのとき、一緒にいたんですよね?」


 その人は何も言わない。気まずそうに俯くだけだ。


「性格の悪いヒナよりも、優しく癒されるハルのほうがいいに決まってるし、そもそも、恋人に戻ってほしいと思うはずっすよね」


 唐突に貶されたが、事実なうえに今私が口を挟んでしまうと、リクの邪魔をしてしまうと思い、文句を飲み込む。


「ハルに知られたくないことでもあるんすか」


 あの人はやっぱり何も言わない。
 私たちも黙り、その人の言葉を待つ。


 その人が自分から説明してくれることを。


 こればかりは問いただしてはいけないと思った。
 こちらが感情的になってしまうと、真実を聞き出せないような気がした。
 どれだけの時間沈黙が流れたのかわからない。
 妙な緊張感から、私は固まって動けなかった。


 すると、誰かがため息をついた。


「ずっと黙ってたら話が進まないんですけど」


 リクだった。その声色から怒っているように思えて、私はますます顔が上げられなくなる。
 自分のこと、ハルのことを話しているのだから、私が逃げていてはダメだとは思うけど、昔からの逃げ癖がひどかった。


 逃げないって、決めたのに。


 そう思った瞬間、不思議と勇気が出てきた。


 あの人がどう思っているかなんて関係ない。
 せっかくリクが曖昧にしてくれたけど、それもどうでもいい。


 本当は、もっと早く、私が直接聞くべきだった。
 周りの優しさに甘えるのは、もうやめるんだ。


「浮気、してるんだよね?」


 前置きも何もなしに、包み隠さず言った。
 これにはあの人だけでなく、リクもアキも驚いていた。


 だけど、今そんなこと気にしていられない。


 問題は私とこの人で解決しなくちゃならない。
 二人には、見守ってもらう。


「急に何を言い出すかと思えば……俺は君の恋人じゃない。だから、浮気なんて」
「知ってる。ハルと付き合ってるって。……じゃあなんで、私に嘘ついたの?」
 あの人は言葉を詰まらせる。


「あれは……」


 視線を落とした。
 逃げる気なのか。話さないつもりなのか。


 もう、そんなことさせない。
 偽りの優しさに甘えるつもりはない。


 いや違う。この人が見せる戸惑いは、私に対する優しさではない。
 ただの、弱さだ。


 その弱さを、私が勝手に優しさだと思っていただけだ。


 この人に、そんな優しさはない。


「本当のことが知りたいの。そして、それをハルにも言って」


 ずっと、同じままでいたって仕方ない。
 どうせ消えてしまうのであれば、すべてをいい方向に変えて消えたい。


 未練は絶対に残さない。
 私の意志で消えることができるかなんてわからないけど、それでも、ハルが私を求めてきても、私は現れない。


 だから。


「……変わったね」
「え……」
「最初は全然心を開いてくれなかったし、そんなに強くなかったのに。この世のすべてに絶望し、壊してしまいそうな子だったのに」


 その人の言う通りすぎて、返す言葉もない。


「……逃げても無駄ってやつなんでしょ?」


 その人は諦めてくれたのか、真剣な表情をして言った。


「俺はハルに戻ってほしくない」
「ちょ、お兄ちゃん、なんで!?本当に浮気してるから!?ハルさんに会いたく」
「違う!」


 動揺するアキの言葉を、その人は大声で遮った。


「俺は浮気をしていない。……ごめんね、理久君」


 その人に謝られたリクは、一瞬目を見開いたけど、俯いて何も言わない。
 まだ、何かを隠しているのか。


「ねえ、ヒナ。君は俺をどう思う?」


 次は私だった。
 私に尋ねてくるその人は、どこか寂しそうに見えた。


「優しいって、思ってた……でも、本当は……弱い」


 正直な思いだった。もっといい表現があったのかもしれないけど、それを考える余裕はなかった。


「うん、俺もそう思う。俺は弱い人間だよ。そして……ハルは、強い人間だ」


 今度は、何かに怯えている。
 その人の言う、強い人間に対する恐怖か。


「お兄ちゃん、何を言ってるの……?津村の話、聞いてなかったの?ハルさんはつらいできごとを受け止めきれなくて、ヒナっていう人格を作ってしまうような人なんだよ……?そんな人が、強いわけ……」


 アキの中のハルという人物像からはまったく想像できない情報に、アキは混乱しているようだった。


「成海。これにハルのフルネーム、漢字で書いて」


 話の流れを無視したかのように、リクが紙切れとペンをアキに渡した。
 アキは戸惑いながらもペンを走らせる。


「ヒナ。読めるよな?」


 アキが書いた紙が私に向けられる。


『前川陽菜』


 これがハルの名前らしい。


 嘘だと思った。
 私は素直にそれを読む。


「まえかわ……ひな」


 すると、アキが呆然とした。
 そんなアキをよそに、リクは冷静に話を続ける。


「そう。これは、ヒナの名前だ」
「ちょっと待って。どういうこと。これはハルさんの名前のはず」


 理解が追い付かなくなったからか、アキは若干怒っているようだった。


「逆だったんだよ。人格を乗っ取ったのは。ヒナって呼ばれたくなかったハルが、それをハルナと読んでいただけ」


 もう、リクが何を言っているのかわからなかった。
 さっきまでは信じられなかったけれど、事実を言っているに過ぎないということで、なんとか理解できた。


 だけど、今回は違う。


「じゃあ何?津村は私たちに嘘をついたってこと?何のために」
「ヒナを守るために」


 その言葉に嘘はなかった。
 リクは真剣な顔をしている。


「ヒナを守る?消えることが、ヒナを守ることになるっていうの?」


 アキの言葉を聞き流したのか、リクはゆっくりと深呼吸をする。
 その態度が気に食わないアキはまたさらに怒りの言葉を重ねようとするが、あの人が止める。


「ヒナ。真実を知る覚悟はあるか?」
「え……」
「今から話すことは間違いなくヒナにとってつらいことだ。それでも、聞くか?」