だけど私は、その人の手から逃げなかった。黙ってその人に引っ張られていた。


 もう、すべてがどうでもよかった。


「狭いところだけど」


 着いたのは、その人の家だった。
 私は玄関先から動かない。


「君が逃げたいなら、逃げればいい。ここにいたいのなら、好きなだけいればいい」
「……どうして私に優しくするの」
「君が……」


 その人は視線を落とし、背を向ける。
 その途中に見えた表情は、儚げに見えた。


「かわいそうだから」


 同情の言葉だった。
 周りからもそう見えるのかと思うと、なんだか悔しくて、涙が溢れて止まらなかった。


 あの日から、私はここにいる。一日も家から出ていない。


 甘えだ。自覚はしている。
 だけど、あの人に甘えていなければ、自分が壊れてしまうような気がしてならないのだ。


 私は部屋を出る。


「おはよう、寝坊助さん」


 あの人はあの日から変わらず、私に同情する。
 そのための笑顔を向けてくる。


 私は黙って食卓につく。そしてあの人の作った朝食に手を伸ばした。


「ああ、そうだ。一つお知らせ」


 私は手を止めて差し出されたスマホの画面を眺める。


『今日行くね』


 とても短いメールだった。差出人のところには『アキ』と記されている。