君という優しさに甘えた罰

「帰るよ」


 まさかの言葉に、開いた口が塞がらない。


「協力しないお兄ちゃんのところになんかいられないでしょ。私も一人暮らしだし。荷物、さっさとまとめて来て」


 アキの言葉には迷いがなかった。
 それになぜか圧倒されて、私はしり込みしてしまう。


「私のはもともとない……」
「じゃあもう行こう」


 そして私はあの人の家を出た。
 玄関を出るまで、あの人と目が合うことはなかった。


 やっぱり私は邪魔者でしかなかったんだと思い知らされた。


「あんなに薄情な人間だとは思わなかったなあ。ね、ヒナ」


 あの人のマンションを出て、先を歩くアキが振り向きざまに言った。


「私は一か月しかあの人のこと知らないし……というか、どうして呼び捨て?」


 また呼び捨てされて、私はそう質問していた。


「ハルさんはお姉さんって感じがするけど、ヒナはなんか……子供っぽい」


 急に貶された。
 だけど距離のない感じが、友達ができたような感じがして嬉しかった。


「よし、着いた。ここが私の家」


 そして私はアキの服を借り、ご飯を作ってもらった。
 何も話を進めていないが、昨日布団で眠っていなかったせいで、布団にもぐった私はすぐに眠りについてしまった。
 翌日、私が目を覚ましたのは昼間だった。


「昼間に目を覚ますとかありえないんだけど」


 テレビを見ながらくつろぐアキに、返す言葉もない。
 自分でもこんな時間まで寝るとは思わなかった。ここにいることが、心のどこかで安心したんだと思う。


「おなかは?」
「……空いた」


 そう答えたら、アキはご飯を準備してくれた。


「ありがとう」


 軽くお礼を言い、椅子に座る。
 アキは私の目の前に座った。


「食べながらでいいから話を進めよう」


 せっかちだな。そこまで急ぐ必要があるのだろうか。


 そう思ったけど、その疑問を口にすることはできなかった。ハルに会いたいから以外に理由があるとは思えなかった。


 しかし私は黙ってアキの料理を食べ進めるだけで、話を切り出すことができなかった。


「黙っててもわからないんですけど」


 私だって、わからない。
 原因を調べるためにここに来たから、少しくらい考える。考えたけど、記憶が曖昧な私にはやっぱり、限界があった。


「ヒナが知ってることは何?」


 見かねたアキが、質問してくれた。
 知っていること、というよりも私が記憶していることを言おう。


「アキと、彼……あのとき家にいた人が、浮気……あと、アキはあの人の元カノ……」
 嘘をついているつもりはない。
 でも、それが嘘、勘違いであることはわかっている。


 ハルの恋人はあの人。だから、浮気も何もない。
 そして、アキはあの人の妹。元カノのわけがない。


 アキは信じられないと言わんばかりに顔を顰める。


「何言ってんの?」
「これが、私が記憶していること……私の記憶は、曖昧で……」


 私はなんだか怖くて、アキの顔を見れなかった。


「……ヒナが悲劇のヒロインぶってるのもそれに関係してたりして」


 俯いていたら、そんな声が聞こえてきた。
 アキが怒っていないことにも驚いたが、その考察にも驚いた。


 そう言われて、私は今までの記憶を思い出す。
 確かにアキが言うように、なんで私ばっかりと思っていたのも、ずっと嫌なことしかなかったからだ。


「私の記憶は、嫌なことしかないけど……でも、なんで……それと、私の性格、どう関係が……」
「私の中のハルさんは、不幸なんか知らないみたいな人だった」


 私の言葉を遮るように、アキが話し始めた。


「そして、ハルさんはものすごく優しい人だった。他人の傷を、まるで自分の傷のように悲しむことができる人」


 アキの表情はどこか優しいような、だけど厳しいような雰囲気だった。
 しかし、ハルという人は私とは真逆の人間だとでも言いたいのだろうか。
「これは私の憶測に過ぎないけど……ハルさんにとってのつらいできごとを、全部ヒナが経験してるんじゃないかな。そしたら、ハルさんの幸せそうな性格、ヒナの悲劇のヒロイン面も納得がいく」


 唐突な考察に、私は耳を疑った。


「そんなこと……」
「ま、普通に考えるとありえないよね」


 アキのため息交じりの言葉に、小さく頷く。


「ありえないけど、そうとしか思えない。その線が濃厚だと思う」
「じゃあ……私は、ハルの代わりにつらい経験をしてきたってこと……?」


 実際に言葉にしてみると、自分が何を言っているのだろうと思ってしまう。


「で、ここで考えなきゃいけないのは、なんでハルさんとヒナが入れ替わったり、元に戻ったりしているのかってこと」


 私という存在が生まれたことは、今考えることではないらしい。
 それよりも先に、その入れ替わりの原因を究明するべきなのか。


 私には、何を優先的に考えればいいのか、わからなかった。


「これについてはハルさんの身内に聞くべきだなあ……」


 アキはそう言いながら、私の顔を見てくる。


「私、知らない……」
「言うと思った。大丈夫、私は知ってるから。今から行ってもいいけど……まずはご飯食べてくれる?」


 そう言われて、私は急いでご飯を食べ終えた。
 そしてアキの服を借りて、ハルの身内に会いに行くことになった。
「緊張してんの?」


 その人の家に行く途中、アキが意地悪い顔をして聞いてきた。


「……私にとっては、初めて会う、から……」
「まあ……そうだよねえ……」


 まだ何か言いたいことがありそうだった。
 でも、自分からそれを促すことはできなくて、私は黙ってアキの横顔を見る。


 私の視線に気付いたアキが私のほうを向く。


「今から会うのは、ハルさんの義理の弟」
「義理?」
「その辺はそいつに直接聞いてね」


 アキはそう言って足を止めた。
 そこを、私は知っていた。


「ここって、アキの……」


 彼氏の家?と続けようとしたら、両頬をつままれた。


「彼氏じゃなくて友達。高校の同級生」
「でもあの日、家にいたよね……?」
「高校の同窓会の後で、何人かでお泊り会しようってなって。あいつの家に泊まってたの」


 つまり、二人は付き合っているわけではない……


「だいたい、お兄ちゃんの恋人の弟と恋人関係になるって、なんか嫌なんですけど」


 言いたいことはなんとなくわかる。


「さ、とりあえず話を聞いてみよう」


 アキはそう言ってドアをノックした。
 鍵を開ける音がして、ドアが開く。出てきたのは当然、彼だ。
「成海、ハル……じゃなかった。今はヒナか」


 彼は私のことを知っているみたいだった。


「どうぞ」


 私たちは彼の家の中に入る。彼は一人暮らしみたいで、お世辞にも綺麗な部屋だとは言えなかった。


「成海、適当に座っといて」
「はいはーい」


 アキは慣れたように散らかった荷物を端に置き、二人分の座る場所を作った。そしてそのまま座る。
 私はもう一つ、開いた場所に腰を下ろす。


「成海っていうんだ」
「うん。成海明希。明るい希望って書くけど……私のどこに明るさやら希望があるのかっていうね。完全な名前負け」


 アキは自虐的に笑う。
 その笑顔が、なんだか気に入らなかった。


「……少なくとも、今の私にとってアキは希望そのものだよ。明るさは感じられないけど」
「なにい?」


 冗談が通じたのか、アキは私の頬を両手で挟んだ。


「いつの間に仲良くなったんだよ」


 お茶を準備していた彼が、ローテーブルにコップを並べた。そして荷物の上に座る。


「ちょっとね。で、今日は話を聞きに来たんだけど」
「ハルヒナのことか」


 お茶を飲みながら、さらっと言った。


「やっぱり知ってたんだね、津村は」
「そりゃまあ、十年以上の付き合いだし」
 二人が話しているのに、私はまだ緊張していて、黙って聞くしかなかった。


「ヒナ」


 彼に名前を呼ばれて、私はゆっくりと顔を上げる。彼の優しい表情に、どこか安心した。


「こうやって話を聞きに来たってことは、自分の存在意義でも知りたくなった?」


 首を縦に振る。


「そのことなんだけど、もしかしてヒナはハルさんのつらいことを代わりに経験してたりする?」
「すごいな。そこまでたどり着いたのか。まあ……ありえないと思うかもしれないけど、実際に起こってるんだ。信じるしかない」


 ハルの身内である彼の言葉を聞いても、私もアキもその事実を受け止めきれなかった。
 そんな非現実的なこと……


「ハルが精神的ダメージを負うと、少し意識が朦朧として、はっきりしたときにはヒナになる」


 それが人格の入れ替わりということらしい。


「元に戻るのは?」
「ヒナが少しでも幸せを感じたとき。もしくはその嫌なことを忘れたとき。寝て起きたら戻る」


 アキの質問に、彼は落ち着いて答える。


 そうか……だから私には、幸せな記憶がなかった……


「ヒナ、大丈夫?」


 現実を受け止めきれていなかったら、アキが俯く私の顔を覗き込んできた。
 はじめはあんなに敵意をむき出しにしてきたのに、今はこんなに優しいなんて……少し信じられない。嬉しいけれど。
「……大丈夫」


 この流れで大丈夫ではないと言って、話を止めるわけにはいかないと思った。これ以上聞いて嫌な思いはしたくないと思ったが、それでも私が聞かなければならない話だと思った。


 だけど、うまく言えていなかったのか、アキの心配そうな表情は消えなかった。


「話、続けてもいいか?」
「ちょっと、ヒナがショックを受けてるんだから、少しくらい」


 私はアキの服を引っ張った。それと同時に、アキは言葉を止める。


「本当に、大丈夫だよ。今逃げても、仕方ないと思うし……いつか聞かなきゃいけないなら、今聞く。それに……私っていう逃げ道を潰さなきゃ、ハルはずっと嫌なことから目を背け、逃げる人生を送ることになる」


 アキに話しているうちに、少しずつ話を聞く覚悟ができてくる。これはアキに言っているようで、本当は自分に言っているようなものだった。


「私もハルも、強い人間にならなきゃいけない。だから……続けて」


 彼をまっすぐと見つめて言うと、彼は頷いてくれた。


「まず、ハルが俺の家族になったのは十二年前。そのときすでにハルの精神状態は最悪だった」
「なんで?」


 アキの質問に、彼は言いにくそうに視線を逸らす。


「……両親を……同時に失ったからだ」
 息をのんだ。そして、そのことを少し思い出した。
 誰かを失い、一人になったという孤独感。


 だから私は、一人になることに対して恐怖心を抱いているのかもしれない。


「ハルの親族はハルを引き取ることを嫌がって、施設に入れようとした。だけど、ハルの両親と仲が良かった俺の両親がハルを引き取った」


 私が話を続けてほしいと言ったのに、ずっとアキと彼で話が進む。信じられない事実を受け止めることでいっぱいいっぱいだった。


「じゃあ、津村の家に引き取られた時点で、ハルさんは……」
「もう、すべてを諦めたような感じだった。それから数日後、急に人が変わった。名前もヒナって言うし」


 二人は私のほうを見る。


「私はヒナだと思ったんだもん……」
「まあそんなことは置いといて」


 ……置いておくなら、私のほうを見なくてもよかったのに。


「俺たちは正直、めちゃくちゃ気を使った。ドストレートに負の感情をぶつけてくるヒナに、笑顔になってもらおうとした。でも、何日かしたらまた違う人になって……今度はハルって。俺はまったくもって何が起こったのかわかんなかった」


 彼でなくても、理解はできないだろう。
 こうして話を聞いている本人でも、混乱しているし。


「ハルは、ヒナのことを覚えてないみたいだった。俺の親は子供なりの現実逃避だろうって、特に気にしなかった」