雨の音がする。
ただ一定の音が耳を独占していく。その音があまりに耳障りで、私は目を開けた。
すると、私が起きたのがわかったかのように、ノックの音がした。
返事をするより先にドアが開く。
その人は私が起きているのを確認すると、部屋の中に入って来た。
「ご飯できたよ。起きれる?」
その人は優しい声で私を起こしに来た。私はゆっくりと体を起こす。
そっと私に触れようと手を伸ばしてきたから、私はその手から逃げる。
「……触らないで」
「ごめんね。さ、朝ご飯の時間だよ」
その人は妖艶に微笑み、部屋を出ていく。
一人になった空間に、ひどく安心する。
ベッドから降りて部屋着に着替える。
自分でもおかしなことをしていると思う。
この世で一番嫌いな、憎い相手とこうして同居をしているのだから。
それでも、私はこの家を出ることはできなかった。
私にはここ以外に帰る場所がない。
同居が始まったのは、一か月前だ。
当時私には恋人がいた。結婚も考え、同居もしていた。
だけど、彼は浮気をしていた。私以外の女を愛していたのだ。
私はその浮気現場を見た瞬間、家を飛び出した。
無計画に、何も持たずに。
そのとき、私はあの人に出会った。
おぼつかない足取りで歩道を歩いていた私は、何度もいろんな人とぶつかっていた。
その途中、バランスを崩してしまった。
「大丈夫?」
そんな私に声をかけてきたのが、あの人だった。
神かと思った。この地獄から救ってくれそうな、優しい笑顔だった。
私はその笑顔に騙されて、その日あったことをすべて話した。
すると、あの人は同情のような表情を見せた。
話を聞けば、女はその人の元恋人だという。
信じられなかった。
結局私には地獄しか待っていなかった。
逃げたかった。
だけど逃げたくても、行く当てがない。
心に大きな闇が生まれ、その闇に飲み込まれてしまうような気がした。
その瞬間、私の感情を抑えていたはずの何かが消えた。
私は目の前にいるその人に八つ当たりをした。
「なんで私ばっかり!せっかく、せっかく手に入れた幸せだったのに!なのになんで!なんで……」
私は人目も気にせず、泣き喚いた。
なんとも子供じみたことをしたと、今でも思う。
どう考えても、その人は悪くない。悪くなかった。
すると、その人は着ていたパーカーを私に着せ、フードを被せた。
「ちょっと我慢してね」
その人は私を連れて人混みをすり抜けていく。
手首を掴まれているが、そこまで強い力ではなかった。
逃げようと思えばできた。
だけど私は、その人の手から逃げなかった。黙ってその人に引っ張られていた。
もう、すべてがどうでもよかった。
「狭いところだけど」
着いたのは、その人の家だった。
私は玄関先から動かない。
「君が逃げたいなら、逃げればいい。ここにいたいのなら、好きなだけいればいい」
「……どうして私に優しくするの」
「君が……」
その人は視線を落とし、背を向ける。
その途中に見えた表情は、儚げに見えた。
「かわいそうだから」
同情の言葉だった。
周りからもそう見えるのかと思うと、なんだか悔しくて、涙が溢れて止まらなかった。
あの日から、私はここにいる。一日も家から出ていない。
甘えだ。自覚はしている。
だけど、あの人に甘えていなければ、自分が壊れてしまうような気がしてならないのだ。
私は部屋を出る。
「おはよう、寝坊助さん」
あの人はあの日から変わらず、私に同情する。
そのための笑顔を向けてくる。
私は黙って食卓につく。そしてあの人の作った朝食に手を伸ばした。
「ああ、そうだ。一つお知らせ」
私は手を止めて差し出されたスマホの画面を眺める。
『今日行くね』
とても短いメールだった。差出人のところには『アキ』と記されている。
「……これがなに」
「ああ、そっか。君はアイツの名前を知らないのか。これは……君から恋人を奪ったっていう子からのメッセージ」
すべての動きが止まった。体が固まった。
黒い塊に潰されるような感覚に、また襲われる。
ぬるま湯に浸っていたか。
嫌いなこの人との生活のおかげで、あの絶望が薄れていたらしい。
小さく息を吐く。
「……縁、切ってなかったの」
違う。そんなことが言いたいわけじゃない。
「切りたくても切れないんだ」
その人は笑顔を取り繕う。
「私に出てけって?」
かわいくない言い方をしているのは重々承知。
だがあいにく、この人に見せるそれは持ち合わせていない。
「いや、隠れててってこと。会いたくないでしょ?」
たしかにその通りだ。
いつもは家から出ないが、今日は部屋から出ないことにしよう。
朝食を終えると、さっそく部屋にこもる。
特にすることもなく、ベッドの中に潜った。
カーテンも開けていない薄暗い部屋で、小さくなった雨音を聞く。
その雨音に眠気を誘われ、いつの間にか眠ってしまった。
そのせいでどれだけ時間が経ったのかわからず、時計を見ようと体を起こしたとき、部屋の外から楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
話の内容が気になった私は、音を立てないように部屋を出る。
二人の目に入らない影に潜み、会話を盗み聞く。
「ねえ、まだあの人、ここにいるの?」
「まあ……」
私の話題だった。耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、我慢して服の裾を握る。
言葉を濁したくなるくらい、迷惑かけていたのか。
ここにいてもいいと言ってくれたのはあの人なのに。
私はその言葉に、大人げなく甘えているだけ。
赤の他人の言葉に甘え、ずるずると居候を続けている。
「嫌なら嫌って言ったら?ああいう人にははっきり言ったほうがいいよ」
「そうは言うけどな……」
「ま、いいならいいけど。私は苦手なんだよなあ」
聞き捨てならなかった。
女の言葉を聞いた瞬間、私は二人の前に飛び出てしまった。
そして私は女の頬を叩いた。
「な……」
女もあの人も言葉を失う。
「あんたに好かれたいと思ってない!あんたこそ、人としてどうなの!?人の恋人奪っておいて!そのうえ、元カレにもこうして会いに来るなんて!」
あの人は頭を抱えてしまっている。
ああ、やっぱり迷惑なんだ。
私は、ここにもいないほうがいいんだ。
最後の居場所だと思ったのに。
私はそのまま家を飛び出した。
あの人が呼び止めるようなことを言ったけど、気にしなかった。
どこに行くわけでもない。
ただ人目を避けて足を進める。
だけど、そこまで遠くに行かせてもらえなかった。
私のことを迷惑に思っているくせに、その人は私を引き留めに来た。
「……離して」
「どこにいくつもり?」
「関係ないでしょ。私のことなんか、迷惑で仕方ないんでしょ?ほっといてよ」
逃げたくても、その人の掴む力が強くて逃げられない。
「君を一人にするわけにはいかないんだ」
嘘だ。
そう思うのに、私はやっぱりこの人の言葉を信じてしまう。
信じたいと思ってしまう。
私は一人になることが怖かった。
みんな私の敵で、この人だけが私の味方だと心のどこかで思いたいと願っているらしい。
「さ、戻ろう」
初めて出会ったときみたいに手を引かれるけれど、私は足を踏ん張った。
ここにとどまりたいと言わんばかりに、まるで小さな子供が駄々をこねるように、動かなかった。
「どうした?」
「……あの女がいる家になんて、帰りたくない」
すると、その人は笑みをこぼした。
今のどこに、笑う要素があったのだろう。
「君は僕の家を、自分の家だと思ってくれているんだね」
しまったと思った。
私はその人に掴まれていない右手で口を塞ぐ。
「うれしいよ。君は行く場所がなくて仕方なく僕の家にいるんだと思っていたから」