「理由はいずれ話すよ。俺はただ、君と話したいだけなんだ」


仄かに未来を思わせた言葉のあとで、今までで一番優しい声で紡がれた言葉が耳に届いた。


男性の薄茶色の柔らかそうな髪が、私たちの間を通り過ぎた夜風にふわりと揺れる。


黒目がちの瞳も、薄茶色の髪も、優しい声音も、初めて見聞きしたはずなのに……。


「千帆」


不思議なことにどこか懐かしいような気持ちになって、名前を呼ばれた直後に小さく頷いてしまった。


「約束だからね?」


「……え?」


そこでハッとした私は、ずっと人質のようになっていた左腕が解放されたことに安堵するよりも、頷いてしまったことを取り消すことが最優先だと理解したけど……。


「君が来るまでずっと待ってるから」


無垢な笑みを浮かべる男性に、発するはずだった言葉を奪われてしまった。


どこからか運ばれてくる雨上がり特有の匂いが鼻先を掠め、暑い夏の始まりを予感する。


それはまるで、なにかの合図にも思えた。


「俺のお願いを聞いてくれたら、君と君の未来を少しだけ変えてあげる。きっと、今よりもずっと楽しい人生になるよ」


そんなことを言った彼が意味深に笑った時、雨雲が切れた夜空には綺麗な満月が輝いていた──。