Voice -君の声だけが聴こえる-

 それに、いずれは容疑者扱いされているという松村知子にも話を聞きに行こうと思っていたわけだが、見知らぬ先輩が後輩の、しかも耳が不自由であるという条件付きの後輩の話に真面目に取り合ってくれるだろうか。自分が松村知子の立場なら、馬鹿馬鹿しいと一蹴してしまうかもしれない。

 確かに、紗友と巧の手を借りれば少しは楽に捜査を進められるだろう。けれど、詠斗にはそれがどうしても許せなかった。

 手柄を独占したいとか、そんな陳腐な思いではない。

 ――自分の人生には、できれば誰も巻き込みたくない。

 それが、聴くことの自由を奪われた詠斗が一つ心に決めていることだった。

「……いい加減にしろ」

 つい、詠斗は語気を強めてしまっていた。

「お前らの助けなんていらない! 遊びじゃないんだ、興味半分で首を突っ込まれても困る!」

 そう言って、詠斗は食べかけの弁当箱を乱暴に片付け、二人と目を合わすことなく屋上の出入り口に向かって歩き出した。しかし、扉にたどり着く前に巧の大きな手に肩を掴まれ、強引に体の向きを変えさせられた。

「さすがに今のはねぇだろ、詠斗」
 怒りを滲ませた瞳で巧は詠斗をキッと睨む。

「オレはいい。お前が言う通り、ちょっとおもしろそうだなって思ったことは認める。けど萩谷はそうじゃねぇ。お前にもわかってんだろ?」

 巧の肩越しに、ちらりと紗友の顔を見る。今にも雨が降り出しそうな、そんな暗い空と同じ色の瞳をして、紗友も詠斗のことをじっと見つめ返してきた。

「萩谷はただ純粋にお前の力になりたいと思ってるだけだ。オレよりもずっとお前のことをわかってるし、もしかしたらお前以上にお前のことを考えてるかもしれない。それのどこに突っぱねる理由がある? 先輩の願いを叶えるのに、萩谷の手を借りちゃいけない理由なんかねぇはずだろ?」

「誰の手を借りようが俺の勝手だろ? 俺はただ、お前らをこの件に巻き込むつもりがないってことを……」

「だーもうっ! どうしてお前はそうやっていつもひとりで抱え込もうとすんだよ?!」

 あまりにもまっすぐ心に投げ込まれた巧の言葉に、詠斗はぐっと眉を寄せた。

「お前のことだから、どうせオレらに迷惑がかかるからとか、そんなくだらねぇこと考えてんだろ? あのなぁ、お前ひとりの世話を焼くくらい鼻クソほじりながらでもできんだよ。何も慈善事業に取り組んでるわけじゃねぇ、単純に友達としてお前の力になりたいだけだ。オレも、萩谷も」

 詠斗とまっすぐに目を合わせ、巧は真剣だった表情を崩してふわりと笑った。

「耳のこと、気にしてんのはお前だけだと思うぞ? オレは別に、耳が不自由だからお前の友達やってるわけじゃねぇし」

 な? と言って、巧は紗友を振り返った。紗友も笑って頷いている。
 はぁ、と詠斗は大きく息を吐き出した。

 簡単に言ってくれるなぁ、なんて、口にしたら殴られるだろうか。

 この二人ほど、こうも簡単に心を揺さぶってくる人はいない。
 父も母も、兄でさえ、ここまで踏み込んでくることはない。

 固く結んだはずの決意を、この二人はいとも簡単に揺るがしてくれる。

 頼んでなど、いないのに――。

「……鼻クソはほじるな」

 何と答えようか迷った挙句、出てきた言葉はそれだった。

「汚い」

 そう真面目な顔で付け足すと、巧は大きな口をあけて笑った。

「例えばの話だろ?! やんねぇから! そんなはしたなくねぇから、オレ!」

 巧の隣で、紗友もケラケラと笑っていた。

 つられて口元を緩めるかたわらで、ずっと押し込めていた想いの灯《ひ》が詠斗の心に小さく宿る。

 二人の楽しげな笑い声が、この耳にも届けばいいのに、と。
 三人で笑い合っているうちに昼休みが残り五分になってしまい、詠斗は弁当半分、紗友に至ってはすっかり食いっぱぐれてしまった。巧は「三分あれば食べきれる」と言ってダッシュで教室へと戻っていったが、果たしてどうなったのやら。

 その場の雰囲気に押されて結局二人の手助けを受けることになってしまった詠斗だったが、やはりどこか後悔の念は拭い去れないところがあり、授業中、もやもやと心に渦巻く何かの存在に思考を持っていかれそうになるのを必死になって堪えなければならなくなった。

 詠斗だって、何も手助けを申し出てくれること自体が嫌なわけではない。もしも自分が健常者なら、迷わずその手を取っていただろう。

 けれど、不自由を背負う身ではどうしても頼るばかりになってしまって、頼られることは圧倒的に少ない。美由紀の願いに応えようと思ったのも、こんな自分を頼ってくれたことが素直に嬉しかったからだ。
 では、あの二人が詠斗を頼ることがあるか。

 振り返れば、そんなことは今まで一度たりともなかったように思う。こと紗友に関しては、頼んでもいないうちから詠斗のためにせっせと身を削るような人間だ。それこそ、兄の傑と同じように。

 兄はまだいい。血の繋がった兄弟だから。歳が離れている上に社会人だ、いくらか責任があると言ってもあながち間違っちゃいない。

 けれど、紗友は違う。
 こんな言い方をしたくない相手ではあるが、紗友とは血の繋がらない他人同士だ。

 紗友には紗友の人生がある。もっと広い世界を見て、自由に羽ばたいていってほしい。

 大切に思うからこそ、自分という足枷を付けて縛りたくない。

 たとえそばにいなくても、紗友を想う気持ちが変わることはないのだから。

 隣の列、右斜め前方。
 前から二列目の席に座って真面目に授業を受けている紗友の背中をそっと見やる。肩にかかる栗色の髪が、開け放たれた窓から流れ込む春風に揺れていた。


 今回限りにするよ、お前の手を借りるのは――。


 詠斗は小さく息をつき、気持ちを切り替えて授業に集中した。
   *


 放課後。

 バスケ部の練習に向かう紗友と巧を体育館の前で見送ると、詠斗は校門のほうへと一歩踏み出した。しかし、その足をすぐさま止めることになる。

「……兄貴」

 目の前に現れたのは傑だった。傑も詠斗の存在に気づいたようで、小さく片手を上げた。

「なんでここに……?」
「安心しろ、お前に用があってきたわけじゃない。仕事だ。ここの生徒が殺された事件で、ここへ来ない理由はないからな」

 なるほど、学校関係者への聞き込みに来たわけか。

「兄貴、仲田翼先輩が刺し殺されたってのは本当?」
「……誰に聞いた?」
「紗友」

 あの子か、と傑は後頭部を掻いた。

「本当だ。遺体が出たのは昨日の夕方だが、死亡推定時刻は一昨日の午後七時から九時の間。仲田翼の自宅近くに竹林があって、少し奥に入ったところで見つかった。普段からひとけのない場所で、犬の散歩で通り掛かった女性が犬がやたら吠えるのを不審に思い、林の中に踏み込んで発見に至ったという具合だ」

 犬の嗅覚は人間よりはるかに優れているから、腐敗の始まった死体の臭いに反応したというところか。――しかし。

「仲田先輩が殺されたのは一昨日の夜なんだよな? 犬の散歩なら朝も行きそうなものだけど……」

「毎日少しずつルートを変えているのだそうだ。昨日の朝は発見現場の前を通らなかった。犬にとっては毎回同じ場所にマーキングしたいのだろうが、人間には飽きがくるからな」

 そういうことか、と詠斗は納得したように呟いた。

 殺害方法は異なるものの、殺害時刻はおよそ同じ時間帯だ。二つの殺人が同一犯の仕業だとすると、この時間帯にこだわらなければならない理由でもあるのか――。

 顎に手をやりながら考えていると、傑に肩を叩かれた。詠斗はそっと顔を上げる。
「ところで、例の件はどうなった?」
「例の件って?」
「頼んでおいただろう? 羽場美由紀の霊からいろいろ聞き出すようにと」
「あぁ、そのことか」

 たいした情報は聞き出せなかった気がするが、詠斗は美由紀から聞いた話を傑に伝えた。

 不登校気味だった仲田翼とはあまり接点がなかったこと。

 美由紀を殴った凶器は両手で掲げて持つような何か岩のようなもので、犯人は右の手首に腕時計をしていたこと。

 殴ってきた相手はやはり松村知子ではなく、男だったように思うと言っていたこと。

 ついでに、仲田翼が恐喝を繰り返していたらしいことも付け加えておいた。この辺りは警察が調べればすぐにわかることだろう。

「なるほど、羽場美由紀殺しについてはわずかだが手がかりが増えたわけだな?」

「中途半端でごめん。いろいろあって、先輩とまともに話をする時間がなくなっちゃってさ……」

「いろいろ?」

 傑の瞳がきらりと輝く。しまった、と詠斗は咄嗟に後悔した。
「いろいろとは何だ? トラブルか? 嫌な思いをしたんじゃないだろうな?!」
「違うって! そういうんじゃないから!」

 がしっと両肩を掴まれ、十五センチほど高い位置から鋭い眼差しで見下ろされる。詠斗はすかさず両手を使ってその腕を振り払った。どこからか視線を感じて周りに首を向けると、通りがかりの創花生たちから冷ややかな視線を浴びせられていた。はぁ、と大きく息をつき、詠斗はやや乱暴に頭を掻いた。

「……兄貴が余計なこと言うから」

 ぽつりと呟くと、傑の眉がわずかに動いた。

「紗友と巧が先輩の件に首を突っ込んできて……それで、ちょっともめただけだよ」

 へたに誤魔化さず、本当にあったことを正直に告げる。隠したって、どうせ紗友から伝わることだ。

 ややあってから、傑はどこか悟ったように笑った。

「やはりお前は僕の弟だな、詠斗」
「……は?」

 意味がわからないとばかりに、詠斗は眉間にしわを寄せる。すると、ぽん、と傑の大きな手が詠斗の頭に触れた。

「いつかお前にもわかるときが必ず来る――僕が穂乃果と一緒になれたのと同じように」

 たくさんのぬくもりを秘めた優しい手。

 その手を通じて兄が何を伝えたいのか、今の詠斗には少しも理解できなかった。

 ぽんぽん、と詠斗の頭を軽くなで、傑はゆっくりと腕を下ろした。

「なぁ、兄貴……」
「――覚えておけ、詠斗」

 やはり満足げに笑ったまま、傑は詠斗をまっすぐに見た。

「世の中、見返りを求める人間ばかりとは限らない」

 あまりにも真剣なその眼差しに、詠斗は呆然としたままその場に立ち尽くすことしかできなかった。

 兄の言葉に、どう返すのが正解だったのか。

 どれだけ考えてみても、適切な答えは出てこなかった。