もう一度、詠斗は紗友の目をまっすぐに見る。
「俺にしか聴こえない声なんだ。俺が聞き届けなきゃ、先輩の想いはいつまで経っても報われないだろ?」
真剣な眼差しを向けると、同じように真剣な視線が返ってくる。互いに逸らすことなく、しばしの沈黙が二人の空間を支配する。
「……わかった」
静寂を破ったのは紗友だった。
「だったら、私も手伝う」
「は?」
この回答はとうに想定済みだったはずが、いざ面と向かって言われると即座に対応できないもので。
「なに言ってんだよ、お前は関係ないだろ?!」
「ダメだよ! 詠斗ひとりで事件の捜査なんて、そんな危ないことさせられないもん!」
「はぁ?! なんでお前にそんな保護者みたいなこと言われなきゃなんねぇんだよっ」
「当たり前じゃん!――私が、詠斗の耳になるんだから」
その一言に、詠斗はごくりと唾を飲み込んだ。
あの日。
この耳が音を完全に失った日。紗友は泣きながら、今と同じ言葉を口にした。
そして今でも事あるごとに、詠斗の前でそう口にする。
何度突き放しても、紗友が諦めることはなくて。
そのたびに、詠斗の心はじわりじわりと締め付けられてしまう。
「ダメだ」
はっきりとした口調で、詠斗はそう言い放った。
「これは俺の問題だ。お前には関係ない」
「関係なくない!」
「関係ないって!!」
声を張り上げると、さすがに紗友も黙らざるを得ないようだった。うっすらと、その瞳を潤ませているようにも見える。
「……願うだけでいい」
そう言って、詠斗は柔らかく微笑んだ。
「願っててくれ、俺が無事に犯人を見つけられるように。それで十分だ」
いつも紗友がやってくれるように、ぽんぽん、と詠斗も紗友の肩を優しく叩く。
「早く行けよ。もう練習始まってるんじゃないか?」
じゃあな、と片手を挙げて、詠斗は紗友に背を向けて再び校門に向けて歩き始めた。
紗友がしばらく背中を見つめていたことに気付いていたけれど、振り返ることはしなかった。
帰りの電車に揺られながら、携帯のメッセージアプリを使って会って話がしたい旨の連絡を入れた。すると、
【五秒で仕事を終わらせて帰る。うちで飯メシを食っていけ。母さんと穂乃果にはこちらから連絡しておく】
という返事が三十秒と経たずに返って来た。詠斗はぐっと眉根を寄せる。
暇なのか?……いや、刑事部所属の現役刑事が暇であるはずがない。しかし、仮に暇でなかったとしても弟のためなら無理にでも暇を作るような男だ。おそらく、今回も。
だいたい、五秒で終わる仕事って何だ? 単純に仕事を放り出して帰ってくるだけなのでは――?
一気に重たくなった頭に、指の腹でこめかみをぐりぐりと押さえつける。これだからあの男には極力会いたくないのだ。
詠斗は実家で両親と三人暮らし。今から向かうのは実家からほど近い六階建てマンションの四階。新婚夫婦の愛の巣だ。
一応自分からも母親に連絡を入れ、直接目的地のマンションへと向かうことにした。できることなら、あの男より先にそこへ到着しておきたい。
最寄り駅に到着し、歩くこと約十分。マンションのエントランスホールをくぐり、オートロック式の自動ドアの前で『405』とその部屋の番号のボタンをプッシュする。『呼出』ボタンを押すとインターホンの音が鳴るのだが、本当に鳴っているのかどうか詠斗にはわからない。
すぐに応答してもらえ、自動ドアがひとりでに開く。さっと通り抜け、エレベーターを使って四階へ。降りて少し右手のほうへ歩いていくと、目的の部屋の前で女性がひとり立っていて、にこやかに出迎えてくれた。
「いらっしゃい、久しぶりね」
吉澤穂乃果。詠斗にとって、義理の姉にあたる人物である。
入って、と促されるまま、詠斗は穂乃果に続いて部屋の中へと上がり込んだ。このマンションに越して来てもう一年になるはずだが、廊下もリビングルームも相変わらず少しの汚れも目立たないなと詠斗は感心してしまった。
ちなみに詠斗がここへ来るのはかれこれ半年ぶりになる。半年前、本当ならば両親だけが呼ばれればよかったところを、何故か詠斗も半ば強制的にその場に立ち会わされたのだ。
「だいぶ立派になったね、おなか」
そう。
半年前、穂乃果の妊娠を祝う会に呼ばれたのが、詠斗がこの家に足を踏み入れた最後の日。
あの時は見た目にはまったくわからなかったが、今の穂乃果はすっかり妊婦らしい姿になっていて、それだけで微笑ましい気持ちになれた。
「でしょー? もう八ヶ月だもん。今でも重たいのに、ここからさらに大きくなると思ったらちょっと恐ろしいくらい」
ははっ、と笑いながら優しくおなかをさする穂乃果。詠斗もつられて笑顔になる。
「なでてやってよ、詠斗も」
ほら、と手招きされるまま、詠斗は穂乃果のすぐ前に立つ。
どこから聞いてきたのか、穂乃果が言うには、たくさんの人の手でおなかに触れられることによって胎児はどんどん元気になるらしい。何かのおまじないなのだろうが、気持ちが不安定になりがちな妊婦にとっては、前向きな迷信なら信じるほうがいいのかもしれない。
ちなみにもう性別はわかっていて、どうやら男の子で間違いないようだ。ふたを開けてみたら実は女の子でした、なんて話も稀まれにあるようで、念のため男の子用と女の子用とで名前を二つ考えているらしいと母から聞かされていた。
「……元気に生まれてくるんだぞ」
そう言って、詠斗はそっと穂乃果のおなかをなでてやる。すると、何を思ってそう言ったのか穂乃果に悟られたようで、「こら」とすかさずデコピンが飛んできた。
「いって……!」
「うちの子の前で暗い顔しない!」
両手を腰に当てて説教じみたセリフを浴びせるも、すぐに穂乃果はその表情を崩して笑った。
「座って。あの人ももうすぐ帰ってくると思うから」
おなかの大きさを感じさせない軽やかな足取りで、穂乃果はカウンターキッチンへと向かう。言われるがまま、詠斗は四人掛けのダイニングテーブルに腰かけた。夕飯にしてはまだ少し時間が早い気がするので、先に美由紀の話をするほうがいいのだろうか、などとぼんやり考えていると、唐突にリビングの扉が開かれる様子が目に飛び込んできた。
「おぉ、もう来てたのか」
現れたその人の目がいつになく輝いていて、詠斗は条件反射で眉間にしわを刻んだ。
「久しぶりじゃないか、詠斗」
爽やかな笑顔で微笑みかけてくるのは、吉澤傑(すぐる)。ちょうど一周り歳の離れた詠斗の兄である。
何やら穂乃果と言葉を交わしながら、傑はスーツの上着を脱いだ。所定の場所へきちんとしわを伸ばすように掛けると、まっすぐダイニングテーブルへとやってきて詠斗の真正面に座った。
「どうだ? 調子は」
始まった――詠斗は軽く息を吐き出した。
「いいよ、問題ない」
「飯はちゃんと食ってるのか?」
「うん」
「学校の授業はどうだ? ついていけてるか?」
「うん」
「新しいクラスは? 嫌なヤツはいないか?」
「うん」
「担任の先生は、きちんとお前のことを理解してくれそうか?」
「うん」
「紗友とはうまくいってるのか?」
「うん。……ん? え?」
つい流れで頷いてしまったが、最後の質問はどういうことか。
「紗友? 紗友が何だって?」
「うまくいってるのかと聞いたんだ」
「……意味がわからない」
正直な気持ちを答えると、傑は何故か満足気な表情で笑った。
「変わらないようで何よりだ」
どこらへんが「何より」なのかイマイチ理解に苦しむが、下手へたに刺激するといつまで経っても本題に入らせてもらえないだろうと判断し、仕方なく口を噤つぐむことにした。何か変な勘違いをされているような気がしてならないのだが、こういうことは気にしたら負けだ。無視を決め込む。