「ちょっと……ちょっと待ってよ……!」
「しっ!」

 詠斗は人差し指を立てた右手を自分の口もとに持ってくる。紗友は瞬時に口をつぐんだ。
 しかし、しばらくじっとしていたが、それ以上何も聴こえることはなかった。

「……だよな」

 ふっ、と詠斗は自嘲的な笑みを浮かべた。

「ごめん、俺の勘違いだ」

 そう言って紗友に背を向け、校舎内へと続く扉に向かって歩き出した。
 すると、すぐにその肩を掴まれる。

「ねぇ、本当に聴こえたの?」

 扉に背を向ける形で詠斗の真正面に移動した紗友は、真剣な面持ちでそう問いかけた。

 聴こえた、と信じたかった。
 この耳が音を聴く力を取り戻したのだと、そう思いたかった。
 けれど、紗友の声は聴こえないし、聴こえたと思ったさっきの声だって、もう――。

 詠斗は、首を横に振った。

「聴こえるわけないだろ?――俺は生まれつき、耳が不自由なんだから」

 今度こそ紗友を振り切って、詠斗は校舎内へと向かって扉をくぐった。
 紗友がどんな顔をしているのかは振り返らずともわかったけれど、深く考えることはしないでおいた。