神様の隣で、君が笑った。

 

「あ、あの、」

「……りっくん」

「え?」

「っていうか、りっくんじゃね!?」


その時、風船のように弾んだ声が、一瞬で重い空気を薙ぎ払った。

振り向くと、目をキラキラと輝かせたリュージくんが陸斗くんへと目を向けていて、思わず目を丸くする。

……りっくん? それって一体、誰のこと?

なんて、私も朝陽も尋ねる余裕すらなかった。

陸斗くんも訝しげに眉根を寄せて、リュージくんをどこか疑心暗鬼の目で見ている。


「俺だよ、俺! 小学生の頃、家が向かいだった榎里 隆司!」

「榎里隆司……? って、まさか……。え、リュウ? 嘘だろ?」

「そう! それ! うわー、りっくんにリュウって呼ばれるの、何年ぶりだよ! 確か、りっくんが引っ越して以来会ってないから、八年ぶりか!? まさか、同じ高校にいるなんて思わなかったわ!」


興奮した様子のリュージくんは、太陽みたいな笑顔を浮かべて嬉しそうに手を叩いた。

りっくん、リュウ、八年ぶり。

あまりに突然のことで、ついていくのがやっとだ。

 
 


「なんか、りっくん雰囲気変わったなぁ。あの頃はチビだったのに、背ぇ高くなってたから、最初全然わかんなかったわ!」

「そう言うリュウこそ、デカくなりすぎだろ。でも、うるさいところは昔から変わんないな」

「うっせー!」


先ほどまでとは打って変わった、軽快なやり取りに唖然とする。


「っていうか、りっくん、今どこに住んでんだよ? オバサン、元気か? 今度ウチに遊びに来いよ! 俺んちの母さんも、久しぶりにりっくんに会えたらきっと喜ぶから──」

「コラァ!! お前ら、授業中なのに何、騒いでんだ!!」


その時、突如扉の向こうから怒号が飛んだ。

一斉に動きを止めてから振り向くと、そこには商業科でも怖いと有名な先生が立っていて、思わず身を硬くする。

 
 


「お前らなぁ、課外活動の授業は遊びじゃないんだから真面目に──って、山田! お前、こんなところにいたのか!」

「……っ!」


"山田"と先生が呼んだ名前に驚いて、咄嗟に隣の朝陽を見上げたけれど、すぐに山田違いだと思い至る。

先生が今呼んだのは、朝陽じゃなくて陸斗くんだ。


「マジかよ……めんどくせー」

「何が面倒くさいだ! 山田、お前、浜辺清掃を選択したくせに、毎回出席だけ取って、すぐに姿をくらませてたらしいな! さっき浜辺清掃の担当の先生が、やっぱりお前の姿が見当たらないと俺に言ってきたばかりだぞ! お前は今すぐ、俺と職員室に来い!」


捲し立てるように告げられた先生からの言葉に、陸斗くんが脱力したように息を吐いた。

今更だけど、やっぱり彼はサボっていたのだ。

もしかして体調が悪くてここで休んでいたのかな……なんて、ほんの少しだけ思ったけれど、やっぱり違った。

 
 


「ほら、さっさと来い!」


耳を塞ぎたくなるような声で怒鳴られて、仕方なく、といった様子で気怠げに歩き始めた彼は、扉の近くに立っていた私と朝陽の横を通り過ぎた。

けれど、その一瞬、不意に足を止めると綺麗な切れ長の目を、私へ目を向けて──。


「……アンタと隣の男。ガキと保護者みたいで、気持ち悪い」

「……っ!」


そんな、鋭く尖った針のような言葉を耳元で囁くと、冷たい視線だけを残して音楽室を出ていった。

 
 


「……菜乃花? 何、言われた?」

「う……ううん、別に、何も……」


──ゆらゆらと風に揺れる、アイボリーのカーテン。

耳の奥で木霊する、冷たい言葉。

大好きなはずのこの場所で、大好きな朝陽の隣で、私は今、幸せなはずなのに……。


『──気持ち悪い』

「菜乃花……?」


胸が、痛い。

私はぼんやりと宙を見つめたまま、ただ、その場に立っているのがやっとだった。

 
 


 *
 ・
 ゜
 +
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 You gods, will give us. Some faults to make us men.
 神は我々を人間にするために、何らかの欠点を与える。

 /Shakespeare (シェイクスピア)

 

 




「《うん、わかった。じゃあ、今日は先に帰るね》──送信、っと」


期末テストも目前に控えた、ある日の放課後。

私は商業科の教室で一人、携帯電話とにらめっこをしていた。

放課後の学校は、昼間と違って賑やかだ。

堅苦しい授業から解放されて、心が少し軽くなる。

……今日は忘れ物、ひとつで済んだなぁ。

ぼんやりとそんなことを考えながら、私は一人、宙を見上げた。

すると、しばらくもしないうちに手の中の携帯電話が震えて、朝陽の返事が返ってきたことを知らせてくれる。


「《気を付けて帰れよ。家に着いたら必ず連絡して》……って。私、一応、もう高校生なんだけど」


過保護な言葉にクスクス笑うと、《わかった》とだけ返事をした。

そうして、鞄を手に持ち自分の席から立ち上がる。

携帯電話をスカートのポケットの中へと入れて、通い慣れた教室から出れば、初夏の風が頬を撫でた。

 
 

……よくよく考えたら、一人で帰るのも久しぶりだ。

朝陽がいるであろう第一棟のある方向を眺めて考えると、なんだか少し可笑しくなった。

今日から朝陽は特進科の特別授業が始まって、課題で出たグループワークというものをやるために帰る時間がいつもより遅くなるらしい。

先程メールが来て、《何時になるかわからないから、今日は先に帰ってて》と、言われたのだ。

放課後、いつもなら特進科の授業を終えて商業科まで来てくれる朝陽を待って、私たちは二人一緒に学校を出る。

だけど今日は課題があるなら仕方がない……というか、そもそも私と朝陽は必ず一緒に帰るという約束をしているわけでもないし。

どちらか一方が一緒に帰りたいと言い出したわけでもないから、仕方がないと思うことすら間違っていた。

……ただ、なんとなく。

なんとなく、ほぼ毎日一緒に登下校することが暗黙の了解となっている。

小学校、中学校、高校……と続けば、もはや習慣と言っていいかもしれないけれど、改めて考えるとやっぱり少し変だと思った。

 
 

ただ、家が隣同士ってだけなのにね。

私と朝陽は、ただの幼馴染で……それ以上でも、それ以下でもないんだから。


「……音楽室、行こうかな」


昇降口に向かって歩き始めていた足を止めて、私はふと、振り返った。

いつも、放課後になると足を運ぶ【第三音楽室】。

今日は特に、第三音楽室に行く用事もないのだけれど……。

なんとなく。なんとなく、今、あの場所に行きたくなった。

そう思ったときには、足が自然と音楽室に向かって、歩きだしていた。


 * * *


「……あ」


だけど、まさかここに来て後悔することになるだなんて、思ってもみなかった。

ぼんやりと長い廊下を歩いて、ぼんやりと音楽室の前で足を止めて……ぼんやりと扉を開けて中に入った私は、思わずその場で固まった。