夜が明けたら、いちばんに君に会いにいく

シャッ、と音がして、薄暗かった部屋の中に光が溢れる。

青磁がカーテンを開けたのだ。


突然の眩しさに目を細めていると、青磁はこちらを向いて少し笑い、それからがらりと窓を開けた。


真っ青な空が広がっていた。

当たり前のことのはずなのに、なぜかその事実にひどく驚いた。

窓の外には空がある、という事実を、きっと私は忘れていたのだ。


私は引き寄せられるように窓のところへと歩いて、窓枠に両手をついて外を見る。

雲ひとつない、突き抜けるように鮮やかな青空だった。


「よく晴れてるなあ。ゆうべは雨だったのに」


隣の青磁が言う。

見ると、やけに嬉しそうに笑っていた。


それから私に視線を落とし、

「さ、行くか」

と言った。


もう終わり? もう少し空を見たいのに。

そう思っていると、青磁は予想外な行動に出た。


「よっ」と声をあげて窓枠に飛び乗ったのだ。


ここは三階。

もしも落ちたら、いくらなんでも無傷では済まないだろう。


私は慌てて「ちょっと、何してるの!」と青磁のシャツの裾をつかんだ。

その手を逆につかみ返される。


窓枠に乗った青磁がにやりと笑い、真上を指差した。


「登るぞ」


何を言っているんだろう、と首を傾げた私の手をぐいっと引っ張り、青磁が私を窓の上に引き上げる。


「きゃ、ちょっ、危な……っ」


反射的に声をあげて、横の壁に手をつく。


その拍子に、窓の下が視界に入ってしまった。

はるか下に見える地面。

本能的な恐怖で鳥肌が立った。


でも、青磁は私の混乱などどこ吹く風で、にやにやしながら私を見ている。


「ほら、これつかめ」


笑いながら青磁が差し出してきたのは、ロープだった。

上のほうから垂れ下がっている。


どこからきたロープかも分からなかったけれど、目の前にあるそれにすがるようにつかまった。


「よし、登るぞ」


は? と聞き返す暇もなく、青磁がロープに飛びついてするすると上に登り始める。


呆然と見上げていると、彼は視線をこちらに落として、くっと口角を上げた。


「なんだ、怖いのか。いつも生意気言ってるくせに、口ばっかりかよ」


かちんときて睨み返す。


「登れるわよ、これくらい」


負けじと言い返してしまってから、少し後悔した。

高所恐怖症というわけではないけれど、三階の高さで命綱もなしにロープを登るというのは、思った以上に勇気がいった。


「ほー、じゃあ登ってみろよ」


青磁がからからと笑いながら、からかうように言った。


むかつく。

いっつもひとのこと馬鹿にして。


その苛立ちを力に変えて、私はロープを頼りに校舎の壁を登り始めた。


「さっさと来いよ」


上から声が降ってくる。

見上げると、いつの間にか登りきった青磁が私を見下ろしていた。


太陽を背負った彼の姿は、眩しくて直視できない。


「早くここまで来い。俺に追いつけ」


仁王立ちになって腕組みをしながら、青磁は偉そうに言った。


追いつけ、と豪語できる彼が、眩しかった。


「追いつくわよ、すぐに」


憎まれ口を叩きながらなんとか登りきったけれど、そこからどうすればいいか分からなくなってしまった。

すると青磁が「仕方ねえな」と呟いて、ロープにぶらさがる私の腕を両手でつかんだ。


「引っ張りあげるぞ、落ちるなよ」


私が返事をする前に、青磁は全身に力を込めて私の身体を引っ張り上げた。


一瞬、宙に浮いたような気がした。


ほっそりとして見える青磁だけれど、意外と力があるんだな、と場違いなことを頭の片隅で思う。


そして、気がついたら私は、屋上に座り込んでいた。


「あー、重かった」


青磁が肩を回しながらそんなことを言ったので、私は「うるさい馬鹿」と彼の肩を叩く。


「痛えな、阿呆」

「うるさい、馬鹿」

「本当のこと言っただけだろ、デブ」

「言っていいことと悪いことの区別もつかないわけ、ガキ」


まるで小学生みたいな口喧嘩をしているなと思ったら、急におかしくなってきて、笑いが込み上げてきた。


青磁が子供みたいだから、私までつられて子供に戻ってしまう。


くすくす笑いながら立ち上がると、青磁がすっと腕をあげて、私の背後を指差した。

つられて振り向く。


そこには、一面の青。

見渡す限りの青空が、三六〇度、ぐるりと私を取り囲んでいた。


息を呑む。

こんなふうに空を見たのは初めてだった。


このあたりには高い建物がなくて、四階建ての屋上であるここが、一番高い場所だった。


視界を遮るものがない。


どこを見ても、空だけがある。

青磁の描いていたのと同じくらい、美しい空が。


そうか、と心の中で呟いた。


あの絵を見たとき、青磁の目には綺麗な空が見えているのだと思っていた。

私の目には綺麗なものは映らないのに、と思っていた。


でも、違った。

綺麗な景色はこんなにも近くに、いつもここにあったのだ。


私がそれを見ていなかっただけで。

見ようとしていなかっただけで。


いつだって、綺麗な世界はそこにあった。


「どうだ、世界は広いだろ」


ふふん、と青磁は笑って言う。


「別に青磁の世界じゃないのに、なんでそんなに自慢気なのよ」


空を見つめながら憎まれ口を返すと、青磁は「ばーか」と笑った。


「この世界は俺のものだ。俺の目に映る世界は、全部俺のものだ」


またえらく自分勝手なことを言い出したものだ、と呆れていると、「茜」と呼ばれた。

振り向くと、青磁が、見たこともないくらい穏やかな瞳で私を見つめている。


それから、果てしなく広がる景色を指差した。

にやりと笑って言う。


「この世界は、お前のものだ」


思いも寄らない言葉に、私は目を見開いた。


「……何、言ってんの。この世界は青磁のものなんでしょ」


ついさっき青磁自身がそう言ったばかりだ。

でも彼は私の言葉に頷き、さらに続けた。


「世界は俺のものでもあるし、お前のものでもある」

「はあ?」

「さらに言うと、どっかの誰かさんのものでもある」


青磁は緩く微笑みながら、屋上のふちに立って世界を見下ろす。


「そいつの目に映る世界は、全部そいつのものだ。だって、他の誰が見る世界とも違うんだから、そいつだけのものだ。そうだろ?」


両手を大きく広げて白い髪を風に靡かせる後ろ姿は、まるで、今から飛び立とうとする真っ白な鳥のようだった。


「だから、お前の目に映るこの世界は、ぜーんぶお前のものなんだよ」


何それ、と笑ってしまおうとして、でもうまくいかなかった。


破天荒すぎるように思える青磁の言葉だけれど、胸に深く刺さって、じわじわと私の中に広がっていく。


私も青磁と同じように屋上のふちに立って、眼下に広がる景色を眺めた。


一面の青空は、端にいくと少し色が薄くなり、西のほうは僅かに淡い黄色みを帯びていた。


学校のグラウンド。

校門の前の並木道。

車通りの多い国道。

網の目のように広がる細い生活道路。

その間を埋め尽くすたくさんの家々。

そこに暮らしている無数の人たち。

少し離れた街にある、林のように建ち並ぶ高層ビル群。


この世界は、私のもの。


そんなふうに考えたことなど一度もなかった。


でも、自分のものだと思って眺めていると、ひどく愛おしく思えてくるから不思議だ。


そうか、と妙に納得した。


だから青磁の絵はあんなに綺麗なんだ。

自分の世界だと思って見つめているから、綺麗なものがたくさん見つけられるんだ。


隣に立つ青磁は、やっぱり微笑みながら空を仰いでいる。

硝子玉の瞳に、今は真っ青な空が映っていた。


世界に対する愛に満ちた眼差し。

だから、青磁の目を通して見た世界は、あんなにも美しい。


青磁の隣で世界を見つめていると、曇っていた私の目にも、美しい世界が見えるような気がした。


文化祭の喧騒は、遥か遠くに去ってしまったように、ぼんやりとしか聞こえない。


この広い世界に、青磁とたった二人きりでいるような錯覚を覚えて、思わず笑ってしまった。

よりにもよってこんなやつと、いちばん大嫌いなやつと、世界で二人きりになるなんて。


「なに笑ってんだよ」


マスクを押さえて笑いを噛み殺していたけれど、気づかれてしまったようだった。


「べっつにー」


ふふふと笑いながら答えると、青磁が目を細めた。

それからすっと顔を背ける。


「笑ってるの、……初めて、見た」


ぽつりと青磁が言った。

私は目を見張って「え?」と首をかしげる。


「お前が笑ってるの、見たこともなかったからな」


白い髪が風にさらさらと揺れた。


「そんなことないでしょ……」


私は首をかしげながら答える。


青磁は何を言っているんだろう。

どちらかといえば、私はいつも笑っているほうだ。


友達にも『いつもにこにこしてるよね』と何度も言われてきた。

にこにこ、というよりは、へらへら、かもしれないけれど。


どちらにしろ、私は教室では笑顔を絶やさないでいたつもりだ。

それなのに、私が笑っているのを見たことがないというのは、どういうことだろう。

青磁に向けて笑ったことがない、ということを言っているのだろうか。


「そんなことある。お前は笑ってない。少なくとも高校では、一回も笑ったことがないだろ」


私は唖然として青磁を見る。


「どういう意味……?」


彼は冗談を言っているふうでもなく、いつになく真面目な顔で私を見つめ返していた。


「だって、お前のは、作り笑いだろ」


心臓がびくりと跳ねる。

かっと頭に血が昇った。


「……は? 何言ってんの。作り笑いとか……ないし。普通に笑ってるし」


マスクの中で顔がひきつる。

青磁から視線を逸らすと、見えていた綺麗な景色が消えた。


「ごまかすな。分かるんだよ、俺には」


私の混乱を気にする様子もなく、彼は飄々と言った。


「お前はいっつも、楽しくなくても嬉しくなくても笑ってる。むしろ悲しくても怒ってても、笑ってる」


何も言い返せなくて、視線を落とす。

ぼろぼろの指が目に入った。

そういえば今日は指を傷つけていないな、と気がついた。


「どんなに嫌な気分でもへらへら笑って、周りの機嫌とって。お前のそういうところが俺は大嫌いだ」


青磁の言葉は鋭い氷の刃になって、次々に私を襲ってくる。


「お前の作り笑いが大嫌いだ。見てると苛々する」


見抜かれている、と思った。

この曇りひとつない硝子玉みたいな瞳は、あまりにも透き通りすぎて、きっとどんなものでも見通してしまうのだ。


私が今まで自分を演じながら生きてきたことを、青磁は見抜いている。

押し黙っていると、とんっと足音がして、青磁が私の目の前に立っていた。


「お前は、本当は、そんな笑い方……」


途中で言葉が止まったので、「え?」と訊き返したけれど、彼は口をつぐんだ。

そのまましばらく黙っていた青磁が、ふいに口を開いた。


「……お前の生き方には、嘘が多すぎるんだよ」


嘘、という言葉が胸に刺さる。

でも、反感が湧き起こってきた。


嘘をついているわけじゃない。

ただ、空気を読んでいるだけ。

みんなの気持ちを乱したり、怒らせたり、傷つけたりしないように、細心の注意を払っているだけ。

ひとと違うことを言ったり、やったりしてしまわないように気をつけているだけ。


だって、それが、集団の中で生きるということだ。

それがうまく出来ない人は、排除されて、終わり。


青磁のような人間には分からないのだろう。

でも、私にとっては、それが最優先事項なのだ。


「言いたいことだけ言ってればいいんだよ。したいことだけしてればいいんだよ。周りの顔色うかがって、自分を押し殺したりするな」


青磁は偉そうに腕組みをして私の前に立ちはだかり、容赦なく痛い言葉を投げつけてくる。


「自分に嘘をつき続けるのは、疲れるだろ。浮かべたくもない笑顔、ずっと貼りつけてるのは、しんどいだろ。お前、このままじゃ、いつか壊れるぞ」


手をつかまれる。

傷だらけの指を彼は睨みつけた。


「こんなになるまで、無駄な我慢しやがって……お前は馬鹿だ」