「沙希、今日も塾休んじゃダメよ。お母さん、信じてるからね」
「……はい」

そう言われて家を出て、バスに揺られて学校へ行く。サボりが発覚してから、毎日のことだ。今日は、前回の模試で平均点が取れなかった教科の追試があるから、言われなくてもちゃんと行く。

私は憂鬱な気分を息と一緒に吐き出して、バスの窓にコツンと頭を預けた。朝のバスで桐谷先輩と一緒になることはない。一便遅いバスに乗っているのだろう。

『あぁ、もういいから、あれ』
『べつに他の人でもいいわけだし』

この前の言葉が頭によみがえり、私は努めて意識をそらす。

今日は、金曜日だった。



「沙希、また眉間にしわが寄ってる」
「…………」

休み時間、私の顔を覗きこんで人さし指で私の眉間を押す涼子。

「くせになるからやめたほうがい……」
「やめてよ!」

冗談でグリグリしてきた涼子の手を、私はパッと振り払った。今までにないことに、涼子はきょとんとしている。

「どうした? 沙希。悩みがあるなら……」
「あっても言わないわよ。涼子みたいに悩んだことなさそうな人には」
「…………」

……………………あ。

「ごめ……」

とっさに謝るも、涼子の眉はさがったままだった。

私、なに言ってるんだろ……。

「違う。ホントにごめん。そんなこと思ってなくて」
「ハハ、わかってるよ。私のほうこそ、しつこくしてごめんよ」

涼子はわざとおどけた表情を作って空気を戻そうとする。悪いのはこっちなのに。

「…………」

最低……。
 
うつむくと、今日の塾での追試となる、前回の英語の模試の答案用紙。赤ペンの大きなピンが目に入って、私は泣きたくなった。

 

放課後。

肩にかけたバッグの持ち手を握りながら、靴箱へ向かう廊下と美術室へ曲がる廊下の分岐点で、私はぼんやりと立ち止まる。

あそこに行けば、あそこの準備室へ行けば”無題 2年 桐谷遥”がある……。
 
そう思うと、自然と足がそちらへと向かおうとする。でも……。

『べつに他の人でもいいわけだし』
 
その言葉が二の足を踏ませた。桐谷先輩が舞川さんを描いていたらと思うと、心臓が押しつぶされそうだ。

「あれ? えー……っと」

ちょうどそのとき、美術室のほうから先生が歩いてきた。

「水島です」
「おお、水島水島」

町野(まちの)先生だった。たまにしか顔を出さない美術部顧問。

「水島は行かなかったんだな。今日は、みんなで画材の買いだし行ってるぞ。ていうか、遊んでそうだけどな、あいつら。買いだし行きすぎ」

「え?」

みんな……いないの?

拍子抜けした私は、何度か瞬きをした。

「まぁ、貸切で使ってもいいぞ、美術室。開いてるし」

「いえ……」と言いかけた私は、すぐに、
「はい。わかりました」
と言い直す。
誰もいないんだったら好都合だった。ひとりで桐谷先輩のあの作品を見て、バスに間に合うように出ればいいのだから。

挨拶をして、足早に歩を進める。美術室に着くと、たしかに誰もいなかった。
向かうは、美術準備室。私はバッグをいつも自分が使っていた机の上に置いて、隣の部屋へと入った。
歩くペースを次第に落ち着かせ、ゆっくり立ち止まる。

「”無題……2年 桐谷遥”」

タイトルと作者名をひっそりと声に出して読んで、息をゆっくり吐きながらその絵と向かいあう。

「……桐谷 遥」

繰り返した私は、立て掛けられたままの大きなそれの前に片膝をつき、そっと絵の表面のデコボコに指で触れた。力強くて、でも繊細で、眩しいくらい光を放つその絵は、やはり変わらず私に自由を魅せてくれる。そして、私の奥底の衝動を呼び起こした。

「…………」

私も……。

「…………」

私も、描きたい!

そう思い立ったら、誰もいないのをいいことにバタバタと美術室へ戻り、イーゼルと絵の具を出していた。
あと25分でバスの時間。ギリギリ20分は使える。スケッチブックでいいや。これに描こう。
白、赤、黄色、オレンジ、緑、青、紫。いろんな色をパレットに出して、思うままに絵筆を走らせる。久しぶりの感覚。これは…………そうだ。前に、桐谷先輩とハチャメチャなりんごを描いたときの感覚だ。

私は気持ちが前のめりになるように、イーゼルに立て掛けたスケッチブックにいくつもの色を置き始めた。
 
……でも。

「…………」

あれ……?

手が止まる。

描きたいと思った衝動は確かなのに、色を乗せながら、”楽しさ”とは異なるような違和感に気付いた。

違う、私が描きたいのはこんな色じゃなくて、もっと……もっと……。

心のほうが溢れて手に追いつかないあせり。時間は少ない。今日ズル休みしたら、お母さんからまた怒られて幻滅の目を向けられるのに。

「……っ」

なにか……胸のなかの淀んだものを色に出すように、私は喉の奥に苦さを感じながらも絵を描いた。絵と言えるんだろうか、ただ色を手当たり次第に出しては塗る作業。抽象画と言うのもおこがましい、さっき見た桐谷先輩の絵とは雲泥の差の落書き。
「……っ」

いろんなことがうまくいかなくて滞っているこの状況と気持ちが、私の手を動かしている。なぜだか、涙が頬を伝っていた。目の前のスケッチブックには今の私の胸の内、それこそめちゃくちゃな説明のつかない色たちでいっぱいだ。

「違う、この色じゃない。違う……、ちが……」

でも、そのどの色も私の思いどおりの色じゃない。それなのに、描くことをやめられない。

「うっ……」

思わず声が出た。途端にボロボロボロッと、涙が溢れて視界が割れる。


…………黒だ。


気付いてしまった。今の私の胸のなかにある色。

自覚した途端、そのことがとても怖くて、とても悲しくなった。

黒。真っ黒。それをスケッチブックに吐き出したいんだ……私は。

「うぅー…………」

でも、なぜだろうか、私の絵の具ケースには黒だけがなかった。どんなに探しても出てこない。

ぬるい空気が窓から入ってきて、暗幕がパタパタと音を立てる。油のにおいやキャンバスのにおいが、風とともに鼻をかすめる。ズズ……と鼻をすすると、私は筆を持ってないほうの手で涙をぬぐった。でも、また新しい涙がにじんできて、すぐに玉になってスカートに落ちる。

「…………黒、出したいの?」
「……っ!!」

驚きすぎて、心臓が止まるかと思った。

開けたままだった美術室のドア。桐谷先輩がいつの間にか入ってきていて、一番うしろの棚に寄りかかりながら、私が今描いている絵を背後からながめていた。

「いっ、いつから……いたんですか?」
「水島さんが泣きだすちょっと前から」

そう言って背中を棚から剥がし、ゆっくりとこちらへ歩いてくる桐谷先輩。

「黒、でしょ? 欲しいの」
「…………なんで?」

わかったんですか? という言葉を心のなかで続けて、私はじっと桐谷先輩を見た。

「俺もそういう絵、描いたことあるから」
「…………」

先輩は手に持っていた一枚の葉っぱを指でクリンと回し、ふっと風が吹いたかのように笑った。

「とりあえずさ、白以外のいろんな色混ぜてみて。赤とか青とか黄色とか」
「…………」
「クリアで完璧な黒にはならないけど、オリジナルの黒ができるでしょ?」

ほうけながらも、ゆっくりと言われるように手を動かし、パレットの上で色を作る私。たくさんの色が混ざりあう、お世辞にもきれいとは言えない濁った黒が出現した。

「ていうか、クリアな黒って言葉、なんか変だね。矛盾してる」

妙なところでツボって、クスクスと笑っている桐谷先輩。私はそのお手製の黒を、そっとスケッチブックにのせる。キャンバスじゃないから、色の重みで紙の端が少し曲がってきた。
「…………」

黒をスケッチブックの上に置いていくと、なんとなく心が落ち着いてきた。それは桐谷先輩の空気がそうさせたのかもしれないけれど、私は今、自分の気持ちの整理をするように、目の前の絵をようやく客観的に見ることができた。

「言葉とかって頭の中の抽象を具象化するけど、絵は……こうやって抽象を抽象のままで出せるから、たぶん言葉よりも純粋だよね」

難しい言葉が斜めうしろから聞こえてくる。私はうなずくことも相槌を打つこともできずに、自分の黒をまだらに塗っていく。

「でも、言葉にしろ絵にしろ、自分の内側から外側に出すこと自体に意味があると思うんだよね。正確さは置いといてでも。だって、伝えることよりも吐き出すことのほうが大事なときって、きっと誰にでもあるだろうから」
「……うん」
「かっこいいこと言うでしょ、俺」
「その言葉がなければ、かっこいいままでしたけど」
「ハ。カウンセリングしてあげてんのに、なにそれ」

空気が変わる。私の涙も、いつの間にかもう乾いていた。

私の中の黒は、それこそひとつの色じゃなかった。いろんな悩みや出来事が積み重なってできた、そう……こんな、黒だった。
「いいね、この絵。水島さんが叫んでる絵みたいで」

桐谷先輩の言葉とともに、私は大きく息を吸いこむ。そして、ゆっくりと吐き出した。

「私……塾、行きたくない。毎日通うなんて、うんざり」
「うん」
「これ、っていう確実なものはないけど、今はただ……とりあえず、絵を描きたいと思うし、先輩の絵が……見たい」
「どうも」

ペタペタと色塗りを続けながらつぶやく私に短く返しながら、桐谷先輩は斜めうしろの席の椅子に座る。

「私はお姉ちゃんとは違う。お姉ちゃんじゃない」
「そうだね」
「でも、お母さんのことを嫌だって思う自分も……嫌だ」
「うん」

ギ……と、先輩が椅子に背を預けて伸びをしている音。でも、私のめちゃくちゃな頭の中の吐露を、ちゃんと聞いてくれている。相槌に温度があるって、私にはわかる。

「ずっと同じところをグルグルグルグル歩いてる。先に進めない。わからない」
「うん」
「自分じゃダメなんだってわかってる。でも、必要だ、って……、特別だ、って……思われたい」
「うん」

話しながらだんだん、お母さんに対してなのか、桐谷先輩に対してなのか、わからなくなってきた。当たり前だ。このオリジナルの黒を構成している一部は、桐谷先輩なのだから。

しばらく黙っていると、先輩が、
「終わり?」
と聞いてきた。