「……栞は、本当にそれでいいの?って言っても、向こうが会ってくれないなら仕方ないんだけど……でも、それにしても……」
「(いいの。全部、私が悪いんだもん。それにね、これ以上先輩に関わって、また先輩に迷惑を掛けることになったら、今度こそ私も立ち直れない)」
言いながら小さく笑みを零せば、アユちゃんは切なげに顔を歪めた。
……本当は、今でも先輩に会いたいよ。
毎日毎日、駅のホームで先輩の姿を探してる。
「おはよう」って、前みたいに優しく声を掛けてくれるんじゃないか、なんて夢みたいなことを思ってる。
もしかしたら先輩から連絡が来るかもと、寝ている間も携帯を握りしめている。
─── だけど、そんな希望を抱くのもいい加減やめなきゃいけないんだ。
だって、そんな希望を抱くことさえ、先輩には迷惑なことかもしれないから。
アキさんの話では、樹生先輩は今は受験に前向きに動いているという話だった。
だとしたら……私は、遠くから先輩のことを応援しよう。
先輩の夢が潰える事のないようにと、心の中で静かに応援し続けることが、今の私の精一杯なんだから。
* * *
「─── 樹生、本当に、これでいいの?」
窓際の席に腰を降ろしたまま、とっくに駅の方へと消えた栞の背中の残像を眺めていた俺に、アキの切なげな声が掛けられた。
「いいんだ、これで。俺に関わらなければ、栞もきっともう傷つくこともないだろうし」
そんなアキに視線だけを向けてそう言えば、今度は眉根を寄せて俺へと強い目を向ける。
「……それ、本気で言ってんの?この間の一件は、別に樹生のせいじゃないじゃん。あいつが勝手に嫉妬して……勝手に、栞ちゃんの噂を流しただけだろ?」
「うん、そうだね。だけど、俺に関わらなければ栞は噂を蒸し返されて、あんなに傷つくこともなかった。それは事実だろ?」
「だけど……栞ちゃんはきっと、そんなこと気にしてないよ。今だって、樹生のこと本当に心配して、一言でも謝りたいって……」
「……ほら、それも」
「え?」
「俺が停学になって大学の推薦が取り消しになったことも、栞は全部自分のせいだと思ってる。
あれは、俺が衝動的に起こした問題で、栞のせいじゃないのに……栞は、自分を責め続けてる。
今、会ったら、アキの言うみたいに栞はきっと俺に謝り続けるよ。
そんな栞に、大丈夫だから、気にするなって言ったところで、優しい栞は責任を感じたまま。……結局、今会って俺が何を言ったところで、少しも栞の救いにはならないから」
俺の言葉に、悲しげに眉尻を下げるアキを見て、静かに口元に笑みを作った。
アキが言いたいことも、アキが俺と栞を心底心配してくれているのもわかってる。
だけどこれは、自分で決めたことだ。
停学になっている一週間、相変わらず音のないあの家で考えて出した答え。
大嫌いだったあの家で、俺なりに胸に刻んだ決意だ。
……昔の自分なら、そんなこと到底出来なかっただろう。
音のない家の中で、たった独りで蹲り、寂しさだけに溺れていた自分には到底辿りつけなかっただろう答えと決意。
幼い頃に自分が感じていた、途方もない不安と孤独。
けれど今は、俺にとって心落ち着く、ゆっくりと物事を考えるための場所に変わっていた。
いや……そうじゃない。“変わっていた”、じゃない。
栞が、“変えてくれた”んだ。
栞が、あの家に温もりをくれたから。
だからあの場所で、俺は俺なりの答えと決意に辿りつくことが出来た。
「……確かに、樹生の言う通りかもしれないけど。それなら余計に栞ちゃんと話した方がいいんじゃないの?」
「ありがとう。でも、もう決めたんだ。栞には……会わない、って」
「……そっか。樹生がそこまで言うなら、俺はもうこれ以上、何も言わない。樹生のこと、応援するよ。でも頑張りすぎて、あんまり無理するなよ?」
「了解。……っていうか、今のって、俺がアキの彼女になったみたいだね?タマにヤキモチ妬かれちゃう」
「そこは、タマじゃなくてマリにしろよ……!」
「えー、何々!?俺のこと呼んだ!?」
「あっ、タマ!!もう補習終わったの!?」
「あったり前じゃーん。俺にかかればあんな補習なんか、おちゃのこさいさいで─── はい、残りのレポート。アッキー、手伝ってくれ!」
「結局、終わらなかったのかよ!!」
─── どんなに俺が身勝手でいようと、今日も相変わらず賑やかにいてくれる2人を見て、再び小さく笑みを零した。
あと数日、この2学期が終わってしまえば学校生活でこうして3人で過ごす時間も、ほぼなくなってしまうけれど。
間違いなく俺の高校生活は、この2人がいたから毎日が明るくて、幸せなものだったと自信を持って言える。
「……ごめん、栞」
賑やかな空気とは対象的に、雨粒のように小さく零した言葉が届くことはないだろう。
凍えきった窓枠に手を掛け窓を開ければ、冬の凍るような風が頬を撫でた。
─── 本当は、会いたくてたまらない。
会って、君は少しも悪くないのだと何度でも伝えたい。
いつだって俺を真っ直ぐに見つめるその瞳を、俺だけに向けていてほしい。
そして─── その瞳に答えるように、胸の内に刻んだ決意を今すぐにでも伝えたい。
窓の縁に肘を乗せ、白くくすんだ冬の空を見上げれば、吐き出した息さえもその白に染められた。
まるで、栞と自分を見てるみたいだ。
どこまでも真っ白な、彼女のようなその儚い色に、そっと瞼を閉じれば彼女が俺を見つける度に見せた、花のような笑顔が浮かぶ。
その笑顔に、今日まで何度助けられただろう。
何度、導いてもらっただろう。
─── “ねぇ、先輩”。
凍えるような冬の寒さにも、もう決して負けないように。
優しく儚いその花が枯れることのないように、俺は改めて、胸に刻んだ決意の大地を強く強く踏みしめた。
* * *
「栞、今日も図書館寄ってくのか?」
─── 高校2年、2学期最終日。
相変わらず長い校長先生の話を聞き、教室に帰ってくれば今度は担任の先生のお決まりの長期休みを過ごす為の注意事項。
それでも授業のない早めの1日を終えた私達の心は軽く、明日から始まる冬休みにそれぞれが胸を躍らせていた。
そんな中、帰り支度を済ませ、早々に学校を出ようとしていた私に声を掛けてきたのは蓮司で。
眉を下げ、未だに私に罪悪感を滲ませた表情を見せる蓮司に、私は努めて明るく笑ってみせる。
「(うん。先週借りた本、読み終わったから返さなきゃ。それに、新しく借りたい本もあるの。蓮司は、今日は部活ないの?)」
「ああ……うん。今日は、オフ」
「(そっか。たまには、ゆっくり休まなきゃね。あ、おばさんに、今年中に一度ご挨拶に伺いますって伝えといてね!)」
下駄箱からローファーを取り出し足元へ落とすと、蓮司に背を向け足先を入れた。
トントン、という心地の良い音が昇降口に響き、蓮司へと再び笑顔を向けて手を振り学校を出ようとすれば───
今度は、切羽詰まったような蓮司の声が、私へと投げられて再び足を止める。
「栞っ!!あの、さ。俺……」
「(うん?)」
「実は、昨日、話を聞いて……っ。それで、俺……余計なお世話かもしんないけど、でも……」
「(何の話?)」
「……っ、」
「(蓮司?)」
視線を泳がせ、続きを躊躇している蓮司を見て首を傾げれば、そんな私を見て強く拳を握った蓮司は意を決したように口を開く。
「─── あいつ。相馬先輩の、話」
「っ、」
─── 先輩。
蓮司の口から出たその名前に、反射的に表情を強ばらせ、一瞬息の仕方を忘れてしまった。
というのも、先輩と会わなくなって、もう1ヶ月半と少し。
最近では、アユちゃんと蓮司も気を遣ってか、私の前で先輩の話をすることもなかった。
だから、久しぶりに蓮司の口から聞いた名前に、心臓が早鐘を打つように高鳴って。
たったそれだけで、私はまだまだ先輩のことを諦められずにいるのだと思い知る。
「今日は、ずっと、話さなきゃって思ってて……でも、栞も前を向こうとしてるのに、また余計なことして足を引っ張ったら……と思ったら、結局言うタイミングなくて……」
その言葉の通り、蓮司は蓮司なりに、ずっと、あの日のことを後悔していた。
自分が樹生先輩に会いに行きさえしなければ、こんなことにはならなかったんじゃないか、って。
先輩の大学の推薦が取り消されて、私と先輩が今みたいな状況に陥ることはなかったんじゃないか……って、蓮司は自分を責め続けてる。
だけど、そんな風に蓮司が悩むことが、そもそも間違っているんだ。
だって、元を辿ればその全ては私が原因で。
先輩の推薦の件も、私と先輩の関係も、今こうなっているのは全て、私の抱えている問題が原因なのだから蓮司が責任を感じる必要なんてない。
だからこそ、優しい蓮司が今以上に自分を責めないようにと、私も蓮司の前では極力明るく務めてきた。
最近では少しずつ蓮司が切なそうな表情をすることも減ってきて、ようやく蓮司の中に蔓延る罪悪感も薄れてきたのかと思っていたのに。
それなのに、どうして、突然。
「……俺、相馬先輩に会いに行ったんだ」
「(え……?)」
「でも……先輩は帰った後で結局会えなくて。そしたらたまたま……サッカー部の顧問に会ってさ。俺、何度か大会とか練習試合で会って挨拶してるから顔見知りで。それで……先輩のこと、その顧問に聞いてみたんだ」
「っ、」
「そしたら、相馬先輩……推薦はダメになったけど、大学はセンター受けて受験するって。なんでも、推薦貰って受ける予定だった私立大学じゃなくて、それより難易度の高い、県外にある国公立の医学部」
「(県外の……医学部?)」