たとえ声にならなくても、君への想いを叫ぶ。

 


(……面倒くさい)



こういう時、こんな風に目敏い自分が嫌になる。


今ここで、女の子のお尻を触っているであろうオッサンの右手を掴まえて、痴漢として駅員に突き出すのは造作もないことだ。


自分の娘と同じ年齢でも可笑しくない女の子に痴漢行為をするような、この恥ずかしいオッサンがどうなろうが、正直俺にとってはどうでもいい。



─── ただ。

このオッサンが捕まったら、その時、このオッサンの家族はどうなるんだろうと、左手の結婚指輪を見て思ってしまった。



痴漢は一度捕まれば、本当にやってなくて無罪を主張したとしても受け入れられず、冤罪(えんざい)となる可能性が高い。


オッサンの場合、女の子の証言まで取れる上に、第三者の俺に見つかって捕まるんだから、どんなに無罪を主張したところでダメだろう。



(まぁ、こいつの場合実際やってるし)



だけど……そうなった時。


オッサンの家族は、間違いなく巻き込まれるのだ。


そう思ったら、そんな風にオッサンの家族全員を道連れに、地獄へと転落させることが───


それを決断する勇気が。俺には、なかった。


 
 


本当に、ただ、それだけだった。


痴漢のオッサンに対する、情け心なんか少しも持ち合わせてはいなかったし、あんな卑劣なことが出来る人間を、心の底から軽蔑してる。


……でも、



「……痴漢のオッサンに罪はあるけど、その家族に罪はない。オッサンの奥さんや、いるかわからないけど……もしも、子供がいたらさ。俺達と同じ、受験生でも可笑しくない」


「樹生……、」


「そう思ったら、オッサンの腕を掴めなかった。……アキやタマは、こんなこと理解出来ないかもしれないけど。でも、多分、次にそんな奴を見つけても、俺はまず第一にそこを気にして、躊躇し続けるんだと思う」


「……、」


「まぁ結局、自分が悪者になる勇気と罪悪感に耐えられる気がしなかったから捕まえなかっただけだから。だから……あの子には、申し訳ないことしたな、とは思うよ」




そう言って自嘲の笑みを零した俺に、二人はもうそれ以上、何も言わなかった。


 
 


* * *




─── 授業中。

ポケットにしまった携帯を取り出そうと思って、同じ場所にしまった、あるものを手に取った。



(……返さなきゃ、まずいよな)



教科書に紛れさせながら机の上に置き、頬杖をついてそれを眺める。


視線の先には……一冊の、生徒手帳。


今朝のあの子が立ち去ったあと、俺の足元に落ちていたものだ。


これが、あの子のものだというのは容易に想像がつく、というか最初のページの顔写真だけ確認させてもらったから間違いない。


……思わず拾ってきてしまったけれど、どうしたものか。


あの子と同じ高校に、知り合いの子っていたかな。でも、女の子に頼むと、また面倒くさいことになりそうだし。



と。

ぼんやりとそんなことを考えていたら、ふと、あることに気が付いた。


 
 


(……ドッグイヤー?)



生徒手帳には珍しく、なんだか使い込んでいる感のあるカバー。


その1ページに、不自然なドッグイヤー……折り目が、つけられていたのだ。


心の中で申し訳ないとは思いつつも、気が付けば、好奇心からその折り目に指をかけていたのは男子の性(さが)と思って許して欲しい。



「……え、」


「ん?なんだ、相馬(そうま)。質問か?」


「あ……いえ、なんでもありません」



だけど、そこに書いてあった言葉を見て思わず声を漏らしてしまった俺は、教師から隠すように慌ててその生徒手帳をポケットに戻した。



(……だから、あの時)



─── 思い出すのは、今朝のあの子の不自然な態度。


最後に渡された言葉、ともなるあの子の行動の意味を、俺は今更ながらに理解した。



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 『Iris(アイリス)』

 メッセージ・希望


 
 





「マジで!そいつ、超殴りてぇ……!!」


「ホントに、最低だね……。栞、大丈夫?」



まだ騒がしい朝の教室で、そう声を掛けてくれたのは幼馴染みの"蓮司(れんじ)"と、親友である"アユちゃん"。


なんとか無事に間に合った図書委員の仕事を終え教室に入ると、私は仲良く話していた二人に、いつも通り声を掛けた。


だけど、なんとなく様子の違っていたらしい私に目敏く気付いたのは、蓮司だ。


何かあったのかとしつこく聞かれて、結局朝の出来事を伝えることとなった。



「マジで、今からでも殴りに行きたいくらいだし!!」


「でもさ、その人が助けてくれてホントに良かったねー。王子様じゃん、まさに」



指をパキパキと鳴らす戦闘態勢な蓮司とは裏腹に、うっとりと目を細めたアユちゃんは、今日も綺麗に巻かれた髪を指でクルクルと弄んでいる。


スタイル抜群で、所謂(いわゆる)お姉様系な見た目をしたアユちゃんは姉御肌で優しくて。


どこからどう見ても美人の分類でしかない彼女は、私の自慢の親友だ。


 
 


「王子様って、どんだけ夢見がちだよ、バカ!携帯小説と漫画の読み過ぎだろ!!」



そんなアユちゃんへ悪態を吐いている蓮司は、鳴らしていた指を解いて机を叩きながら、今日も左耳に2つのピアスを光らせている。


幼馴染みで、小さい頃から一緒にいるせいかイマイチ理解に苦しむけれど、蓮司は蓮司で女の子達からとても人気がある……らしい。


アシンメトリーショートの髪はオシャレにセットされ、笑うと八重歯の見える蓮司は背も高く、サッカー部でキャプテンを務めるくらいに人望も厚い上、運動神経もいい。



(……考えてみたら、モテる要素をたくさん持ち合わせているよね、蓮司は)



本人もそれを自覚済みで、よく“俺カッコいい論”を冗談で振りかざす。


そして、アユちゃんに鋭いツッコミを入れられたあと、私に2人が同意を求める─── というのは、私達のお決まりの笑いのパターンだ。



「あらあら、蓮司くんてば王子様に、ヤキモチですか~?大切で可愛い、"ただの幼馴染み"の栞が、他の男に助けられたから、って」


「(……ヤキモチ?)」


「バ……ッ、バカか!!んな訳、あるか……!!」


「へぇ~、ふ~~ん?」


 



目を細め、からかう様な仕草をアユちゃんが見せると、蓮司は顔を赤く染めて声を張り上げた。



「だ……大体にしてなぁ……!カッコいいやつってのはモテるから、チャラい奴が多いんだよ!俺みたいに外見イケメンで中身もイケメンってーのは少ないの、わかる!?」


「はいはい。朝から蓮司、マジでウザイわー」


「ウザイのはどっちだよ!先に話ふってきたのは、アユだろーがっ!!」


「もうっ。一々叫ばないでよー。うるさすぎて、鼓膜破れる、ねぇ、栞?」


「(あはは、うん、)」


「はぁっ!?栞、テメェ何頷いてんだ!!今のは絶対アユだろ、悪いの!!」


「はいはい、そうですねー。栞、うるさいのはほっといて、宿題の答え合わせしよ?この間、栞に教わった方法で、予習してきたんだー」


「(うんっ!)」


「おいっ!シカトすんなよっ!」



賑やかな二人を見ていたら、朝の落ち込んだ気分はほんの少し、軽くなった。


 
 


* * *





「……栞、平気か?俺、部活休んで一緒に帰ってやろうか?」



─── そうして、迎えた放課後。

一人で帰り支度をしていた私の元へ、蓮司が心配を浮かべた表情でやってきた。



「アユはバイトで帰っちまったし、お前一人でまた、なんかあったらさ……。それに、ほら!お前になんかあったら、おばさんが……心配するし」


「だから、な?」と、照れくさそうに視線を逸らした蓮司を見て思う。



(……蓮司は、優しいなぁ)



普段は口が悪くてうるさいけれど、二人きりの時は滅多なことでは大きな声も出さない。


私が少しでも落ち込んでいると今のように必ず気遣ってくれて、たくさん笑わせてくれる。


幼馴染み、というより兄妹といったほうが、私達の関係はしっくりくるのかもしれない。


そんな蓮司を前に私はポケットから携帯を取り出すと、素早く文字を打ち込んで蓮司の方へと画面を向けた。


 
 


「(蓮司は、部活でしょ?大会も近いし、キャプテンが休んじゃダメです)」



もうスッカリ慣れた様子でその画面を見つめた蓮司は、半分不貞腐れた表情を浮かべて、再び私へ視線を向ける。



「……わかった。だけど、何かあったら絶対俺に言えよ?」


「(うん、わかった)」


「それと、暗いとことか絶対に一人で歩くなよ?」


「(気をつけます)」


「……絶対だぞ。破ったら、デコピンだかんな」


「(……心配してくれてありがとう、蓮司)」




最後の言葉は文字として打ち込むことはせず、口パクで蓮司に伝えた。


そうすれば、優しい笑顔を見せた蓮司の温かい手が、一度だけ私の髪に触れて離れた。