栞の過去を知り、栞の声を奪った理由を知れば、何かが変わるんじゃないかと漠然と思っていた。
そんなことを安易に考え、一人で彼女のヒーローを気取っていた自分は、本当にただの馬鹿だった。
─── 栞の過去を聞かされたことで、俺は改めて自分の浅はかさと幼さを、思い知ったんだ。
あの時、俺から父親の話を聞かされた栞は、一体どんな気持ちだった?
どんな気持ちで俺の話を聞き、飲み込み、励ますための言葉をくれたのだろう。
どれだけ自分の想いを押し殺して、過去にしがみつく俺を救ってくれたんだろうか。
「(……ごめんなさい、先輩。嫌な話を聞かせてしまって。今日は助けてくれて、本当にありがとうございました)」
神様は、どうしてこんな風に意地悪をする。
どうして彼女一人に、こんなにも酷い罰を与えたのだろう?
そこまで言うと再び自嘲の笑みを零して俯いた彼女は、持っていた携帯電話を静かに鞄へとしまった。
部屋には壊れたラジオのような雨音だけが響き、寂しさが俺たちを包み込む。
その静寂に、栞も俺も決して抗おうとはせず、ただひたすらに時間に身を預けた。
─── それからどれくらい、声のない時間が続いたのかはわからない。
けれど、ゆっくりと。
再び高鳴りだした鼓動に任せるように、俺は小さく深呼吸をすると、未だ窓を叩く雨音に沿って静かに口を開いた。
「……嫌な話、なんかじゃない。だけど、すごく……苦しくて哀しい、話だった」
「……っ、」
「俺のために話して、なんて。そんな無神経なお願いをして、ホントにごめん。デリカシーのないお願いだった。でも……俺は、それでも、」
「……、」
「……それでも、俺は栞の言葉で聞けてよかったって思ってる。俺の方こそ……話してくれて、ありがとう」
俺の言葉に、顔を上げた栞。
未だ、幼さの残る彼女はまだ17歳だというのに。
彼女の肩に乗る苦しみは、彼女から最愛の父を奪っただけでなく、苦しみを吐き出すための声までもを奪ってしまった。
「我慢、しなくていいよ。泣いていい。俺が、全部受け止めるから」
「っ、」
その声を合図に、栞の瞳から音もなく大粒の涙の雫が零れ落ちた。
白く滑らかな頬を伝い、次から次へと落ちていく、栞の苦しみの欠片たち。
それを隠すように、再び栞が両手で自身の顔を覆った瞬間、俺は衝動のままに彼女の身体を抱き締めた。
腕の中。震える身体と落ちていく涙の雫が声となって、俺の心に語りかける。
─── “ ごめんなさい ”
傷付けてしまって、ごめんなさい。
それなのに、前向きに生きていてごめんなさい。
多くの人を傷付けて、ごめんなさい。
守ってくれた人を守れなくて、ごめんなさい。
大好きなお父さんを。大好きなお父さんの想いを、守れなくてごめんなさい。
─── 声が出なくて、ごめんなさい。
「……栞は、何も悪くない。栞は、これ以上、自分を責める必要なんてない」
「……っ、」
腕の中。俺の言葉に、そんなはずがないと首を振る栞の心を宥めるように何度も何度も彼女の背中を擦った。
その優しい声が、心が。
これ以上、傷付く事のないようにと願うことしか、今の俺にはできないから。
今だけはせめて、その苦しみの全てを預けてほしいと真摯に願う。
頼むから。今ここにいる、彼女が。
(─── 先輩。たくさん迷惑を掛けてしまって、ごめんなさい)
優しい彼女が悲しみの渦に消えてしまわぬようにと、精一杯願いながら……
(ごめんなさい)
俺は、腕の中で震えるその小さな身体を逃さぬように、きつくきつく抱き締めた。
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『Geranium(ゼラニウム)』
決意・慰め
君ありて幸福
先輩に過去の全てを話したあの日、先輩は私が泣き止むまでずっと、私の身体と心を抱き締めていてくれた。
降り続く雨は、どんなに身体と心を冷やそうとも止んでくれることはなく、いつの間にか自分ではどうすることもできないほどに凍え切っていて。
そんな私を先輩は、繋ぎ止めるように温め続けてくれたんだ。
「(……学校、行かなきゃ)」
雨の中、お母さんが心配するからと家まで送り届けてくれた先輩は「無理はしなくていいから。今は、休みたいだけ休んだ方がいい」と、最後まで優しさに濡れた言葉を私にくれた。
そんな先輩の言葉に甘えるように、一週間も学校を休んでしまった私は、いい加減このままではいけないと再び自分の心を奮い立たせた。
「あら、栞。具合はもういいの?」
制服を着て、リビングの扉を開けた私にお母さんの優しい声と笑顔が向けられる。
体調が悪いなんて私の嘘にもきっと気付いているお母さんは、わかった上で気付かないふりをしていてくれる。
そんなお母さんに向けて、「ありがとう」という気持ちを込めて精一杯の笑顔を見せると、私は前に進むべく扉を開けた。
一週間ぶりの、駅のホーム。
乗るのは─── いつもの電車よりも一つ早い、乗り慣れない時間の電車。
けれど、乗る車両は乗り慣れた一両目。
ホームに立てば景色は少しも変わっていなくて、それに安堵の息を吐いた。
……先輩とは、あれから何度かLINEで何気ない会話のやり取りをしたけれど、今日から学校へ行くことは言っていない。
だって、優しい先輩はきっと私が学校に行くと言えば心配してしまう。
それだけならまだしも、朝は家まで迎えに来て、帰りも私の通う学校まで迎えに来るとか言い兼ねない気がして。
それが自意識過剰で終わればいい。
でも、もし本当にそんなことになれば、先輩に今以上の迷惑を掛けることになる。
今は先輩にとって、今後の人生を左右するとても大事な時期で、先輩の将来を邪魔するようなこと、絶対にしたらいけないから。
……だけど、そんな風に考える私よりも、先輩は一枚も二枚も上手だったんだ。
「……一本早い電車に乗るとか、反抗期?」
「っ、」
「やっぱり、こういう時のために信頼関係を作っておくのって大事だよね。栞のお母さん、LINEでは可愛いスタンプとか使ってくれて、すごいフレンドリー」
突然背後から聞こえたその声に、弾けるように振り向いた。
そうすれば、視線の先。すっかりと秋仕様の制服姿の先輩がいて。
緩く着こなされたカーディガンの袖に半分ほど隠された手には、先輩の真っ黒な携帯電話が握られている。
先輩はその携帯電話をヒラヒラと動かしながらニヒルに笑うと、それを胸ポケットへと滑らした。
「栞ならきっと、俺にこれ以上迷惑掛けたくないとかいうどうでもいい理由で、学校行く気になっても言わないだろうなと思って。だから、栞のお母さんに予め、栞が登校する時は朝一で連絡くださいって言っといたんだ」
「っ、」
「……迷惑なんて思うくらいなら、こんなに深く関わってないよ」
言いながら、「そこまで信用ないかな、俺」と、自嘲の笑みを零した先輩に何度も首を左右に振った。
そんな私を見て柔らかに微笑んだ先輩の手が、私の頭を優しく撫でる。
一週間ぶりの、変わらぬ温もりに思わず滲む視界。
朝からこんなところで泣くわけにはいかないから、誤魔化すように必死に瞬きを繰り返した。
そんな私の様子にもすぐに気付いてくれた先輩は、再び小さく笑みを零して、ホームに立つ他の乗客から私の身体を隠すように隣に立った。