後宮は、巨大な樹木のような形をした建物である。真ん中に広い大廊下が真っ直ぐに通っていてそこからいくつもの細長い廊下、小廊下が枝のように伸びている。
 その廊下に葉が連なるように妃たちの部屋が並んでいるのだ。
 根元の部分は、皇帝と妃が謁見する時に使う大広間になっていて、その先は皇帝の住まいである清和殿。
 一の妃から順に若い数の妃たちが清和殿に近い部屋を割りあてられる。
 当然凛風は、木で言う先っぽの一番奥の部屋だ。
 後宮入りして二十日が過ぎた日の午後、凛風は自分の衣服を抱えて小廊下を小走りで女官たちの詰所を目指している。
 妃たちの衣服は、夜、(かご)に入れて部屋の前に出しておけば、女官たちが回収して洗濯してくれる決まりである。
 昨夜も凛風は決まりに従いそうしたのだが、朝起きると籠とともに部屋の中へ投げ入れられていたのである。しかも上から泥水がかかっていた。
 そのため仕方なく凛風は自分で洗おうと思ったのだ。
 小廊下から大廊下へ合流する場所に凛風が通りかかった、その時。
「つっ……!」
 なにかにつまずいて、そのままバタンと洗濯物とともに派手に転んでしまう。手と膝の痛みに顔を歪めながら起き上がると、くすくす笑う声が聞こえる。
 振り返ると九十九番目の妃を含む数人の妃たちが凛風を見下ろしていた。
「あら、ごめんなさい。足が引っかかってしまったわ。だけど、そんな風に走るなんて、はしたなくてよ」
 九十九の妃が、意地悪く言った。
「仕方がないわよ、この娘にたいした教育も受けてないのでしょうし」
 別の妃が答えた。
「本当、こんな娘を後宮入りさせるなんてご実家はどういうおつもりなのかしら?」
「田舎貴族だもの仕方がないわ」
 嫌みを聞きながら凛風は散らばってしまった衣服を拾い集める。
 くすくす笑いながら彼女たちは去っていった。
 凛風は立ち上がり、衣装を抱え直しまた歩きだした。
 後宮入りした時から、百番目である凛風は他の妃たちからどこか敬遠されていた。
 最初のうちはいない者として扱われていたのだが、十日を過ぎた頃からこのようなあからさまな嫌がらせが始まった。
 理由は、たくさんあるのだろう。
 凛風がどう見ても後宮に相応しくない娘であること。
 最下位の妃であること。
 だが一番の理由は、皆が後宮に入って以来、皇帝が一度も後宮の妃を閨に呼んでいないことだろう。
 毎朝、皇帝と妃たちは大広間にて謁見を行う。その際に、その日の夜に寝所に呼ぶ妃を皇帝の口から指名する。
 なにも言わなければ、若い数の妃から順に寝所を訪れる決まりになっている。
 だが彼はこの二十日間一度も妃を指名しなかった。それでいて順番通りの妃の訪れも拒否している。
 はじめは戸惑うばかりだった妃たちも、次第に苛立ち、不満に思うようになっていった。
 どうなっているのかと宦官に詰め寄る者もいるくらいだ。
 おそらくはその苛立ちが、凛風に向かっているのだ。
 でも凛風はそれをつらいとは思わなかった。()け者にされるのは慣れている。ちゃんとした食事ができて、雨風がしのげる部屋があるのだ。実家よりは格段にいい。
 女官詰所にて、水場を借りて洗濯してもいいかと尋ねると、(とし)(かさ)の女官は迷惑そうに眉を寄せた。
「そのようなこと、お妃さまにしていただくわけにまいりません。どうぞお任せくださいませ」
 立場は凛風の方が上だが、彼女にとって最下位の妃など、敬うに値しない相手なのだろう。
「申し訳ありません、お願いします」
 凛風が洗濯物を渡すと、彼女は思い出したように口を開いた。
「百のお妃さま、ちょうどようございました。湯殿の件でお話がございます。女官たちから、百のお妃さまはこちらに入られてから一度も湯殿を使われていないと聞いております。なぜですか? 常に身綺麗にしておくのはお妃さまの義務ですよ」
 後宮妃が使う湯殿は、源泉から湯をひいている広いもので、朝から晩まで皆が自由に入ることが許されている。
 そこで身体を磨き、髪を梳き、皇帝からの閨へのお召しに備えるのが、後宮妃の務めである。
 でも凛風はまだ一度も湯殿を使ったことはない。身体の傷を見られたくなからだ。
 恥ずかしいというよりは、そんな傷がある妃が後宮にいることを怪しまれ、刺客だということを気づかれてはいけないと思ったのだ。
「私、身体に少しだけ傷があるところがありまして……。部屋で毎日行水しておりますので、清潔にはしております。お許しくださいませ」
 凛風は控えめに事情を明かす。
「行水を……」
 (つぶや)いて、女官は凛風をじろじろ見た。そして清潔にしているという凛風の言葉が本当だということを確認して一応納得した。
「ならまぁ、よいでしょう」
 凛風は頭を下げてその場を立ち去る。
 部屋へ戻ろうと、今来た廊下を歩いていると声をかけられて足を止める。
「もし、百のお妃さま」
 この二十日間で見かけたことのない女官だった。
「湯殿をお使いになれないのであれば、露天の湯殿をお使いになられてはいかがですか?」
「露天の湯?」
「はい、何代か前の皇帝陛下が、後宮妃と一緒に湯浴みをされるのがお好きでして、その際に使われていた場所にございます」
 唐突な提案に、凛風は戸惑う。皇帝と妃のための湯殿を自分が使っていいとは思えない。
「今はもう閉鎖されておりますので、人はまいりません」
「ですが……」
 凛風としては行水でもなんの問題もない。
 女官がにっこりと微笑んだ。
「古来より温泉の湯は傷を癒やすと言われます。毎日入れば、お身体の傷も目立たなくなるでしょう」
『傷を癒す』という言葉に凛風の心が少し動いた。
「後宮長さまには、私からお許しをいただいておきますゆえ。お叱りを受けることはございません」
 その言葉に背中を押されて、凛風はためらいながら頷いた。