母屋へ来るようにという父からの伝言を凛風が受け取ったのは、次の日のこと。使者が都へ帰った後の夜更けだった。
 何年かぶりに入る父の部屋は人払いされていて召使いたちはいない。
 いるのは、父の他に継母と美莉だけだった。凛風が部屋に足を踏み入れると、ふたりは()(げん)な表情になる。
 継母が眉を寄せて凛風を睨んだ。
「お前、誰の許しを得てここにいる?」
「わしが呼んだのだ。今宵の話は、凛風にも関わる話だからな」
 父が言い、継母が不満げに口を閉じた。
 凛風が冷たい床に(ひざまず)くと、父が腰掛けに座る継母と美莉に向かって話しはじめた。
「今朝、お使者さまが都へと戻られた。お前たちも知っての通り今回の目的は、新皇帝の後宮に入る娘の選定だ。我が郭家も娘をひとり、皇帝陛下への〝生贄(いけにえ)〟として差し出すようにとお話があった」
「〝(ほま)れの生贄〟ね! やったわ!」
 美莉が声をあげた。
「ついにこの日が来たのね!」
 後宮入りする娘が〝生贄〟と呼ばれるのは、この国を治める皇帝が代々、鬼の血を引いているからである。
 ここ炎華国は、本来は魑魅魍魎が溢れる荒れた土地。あやかしの能力を持たない人はその昔ただ喰われるだけの存在だった。
 現在は、魑魅魍魎の頂点に君臨する鬼を皇帝として(あが)(たてまつ)ることにより、平穏な暮らしを維持している。
 新皇帝が即位すると、新たに後宮が開かれて、人は生贄として娘を百人捧げることになっている。
 生贄とはいえ、鬼の血を継ぐ子を生むのは、国のためになくてはならないこと。
 その仕事を果たした娘の一族は繁栄を極め、家族は皆一生なに不自由ない生活が約束される。
 そのため、後宮入りする娘は〝誉れの生贄〟と呼ばれるのだ。
 継母もうっとりと目を細めた。
「ああ、嬉しい! さっそく準備をしなくては。明日にでも衣装屋を呼びましょう」
 興奮する継母を、父が止めた。
「まぁ待て。わしは美莉を後宮入りさせるとは言っておらん。お使者さまは、郭家の娘ならば、姉妹のうちどちらでもよいとおっしゃった」
 そう言って凛風を見る。その視線に凛風は目を見開いた。
 この家で、娘といえば美莉のこと。馬小屋で寝起きして、邸の外へ出ることもない凛風は、世間的にはいないものとされているというのに。
 なぜ父は自分を見るのだろう?
「なっ……! あなた、まさか……凛風を後宮入りさせるおつもりですか?」
 継母がわなわなと唇を震わせた。
「そのつもりだ。だからこの場にこいつを呼んだ」
「な、なれど……どうして!? この子は、このように痩せ細り、教養も身につけておりません。見た目も中身も後宮に相応(ふさわ)しくな……!」
「まぁそう興奮するな、これにはわけがある」
 唾を飛ばしてまくし立てる継母をうっとおしそうに見て、父は事情を話しはじめた。
「今宮廷は、新皇帝、(シャ)(ラン)帝と、前帝の皇后さまが対立している状態だ。暁嵐帝は皇后さまのお子ではないからな。皇太后さまには()(ラン)さまという立派なお子がおられる。当然、皇后さまは、輝嵐さまが即位されることを望んでおられる」
「そうなのですか……。ではなぜ暁嵐さまが即位されたのですか? 皇太后さまは、宮廷では絶大なお力があると、私のような者でも聞き及んでおりますのに」
 継母からの問いかけに、父は渋い顔で首を振った。
「今年二十二歳になられる暁嵐さまが輝嵐さまより二歳年上だからということもあるが、一番の理由は前の帝の遺言だ」
「前の帝の遺言?」
「ああ。暁嵐帝は、鬼としてのお力が輝嵐さまよりお強いようだ。それで後継に指名された。……まぁ、そのあたりはわしら人間にはわからんことなのだが」
 国の頂点に君臨する皇帝に必要なのは、なによりも鬼としての力の強さ。
 人を狙う魑魅魍魎を押さえ込む力だ。
 病がちだった前帝の晩年は、国のあちこちで人が喰われるということが頻発した。
 ここ高揚でも、東の森に引きずり込まれた子供が帰ってこないことが続いた。
 新皇帝が即位してからはそのようなことはなくなったため、皆安(あん)()していたのだが……。
「輝嵐さまも前帝の血を引く立派な鬼でいらっしゃる。どちらが即位しても問題はないはずだ。なにもよりによって女官に生ませた子を世継ぎに指名せずともよいものを……」
 父が苦々しい表情で吐き捨てた。
 暁嵐帝の生母は、後宮女官だった女性だという。
「あなたさまは、皇太后さまによくしていただいておりますからね」
 継母の言葉に、父は(うなず)く。
「ああ、そうだ。今の郭家があるのは皇太后さまに取り立てていただいたからだ。……そして、今ももっとも信頼をいただいておる」
 そう言って父はにやりと笑い、凛風を見た。凛風の背中がぞくりとする。嫌な予感がした。
「女官が生んだ子が皇帝になるなど、本来はあり得ないことだ。皇太后さまは、今の国の状況を大変嘆いておられる。そこで我らをお頼りになったのだ。輝嵐さま即位のため力を貸せ、と……。成功すれば郭家の領地は都近くへ変わるだろう。わしは要職につける」
「んまぁ! 都の近くに? なんてありがたいことでしょう! 私、このような寒い田舎は飽き飽きしておりましたの」
 継母が盛り上がり、美莉も嬉しそうにする。
「して、我らはなにをすればよいのです?」
 父が声を落とした。
「決まっておるだろう。暁嵐帝暗殺だ。輝嵐さまに即位していただくにはそれしかない」
「ひっ!」
 継母が引きつった声を出し、美莉も固まった。世間知らずの女子でも、それがどれだけ恐ろしいことかくらいはわかる。
 継母が震える声で尋ねた。
「そんな……。ですが、なぜ我らに? 皇帝のお近くにいらっしゃる皇太后さまなれば、屈強な家臣を使ってすぐにでも成し遂げられそうなものを」
 それを、父が鼻で笑った。
「相手は鬼ぞ。普通の人間では敵わん。現に皇太后さまは、暁嵐帝の幼少期から何度も試みられたがすべて失敗に終わっている。暁嵐帝が四つの頃、真冬の夜の池に手足を縛られ沈められても翌朝には戻ってきたという話は、宮廷では有名だ」
「なれど、我らも人には変わりありません。皇太后さまにできないことが、できるとは思えませぬ」
 継母の言葉に、父が不適な笑みを浮かべ、一段低い声を出した。
「平素ならばそうだ。だがひと時だけ鬼の力が弱まる時があるのだ」
「鬼の力が弱まる……?」
「ああ、これは皇帝にごくごく近しい者しか知らぬことだが、鬼の力は誰かと(しとね)をともにしている時……つまり女を抱いている時は半減する」
「まぁ!」
 ふたりのやり取りを聞きながら、凛風にもようやくこの話の着地点が見えてきた。美莉も同じことを思ったのか、不安げに眉を寄せている。
 皇太后が、郭家に要求していること……それはつまり。
「すなわち、皇帝の寵愛を受ける妃のみに暗殺の機会がある。我が家の娘にそれを実行させよ、と……」
「わ、私は嫌よっ!」
 美莉が真っ青になって声をあげる。
 凛風もまったく同じ気持ちだが、あまりのことに身体が震えて声が出なかった。
 父が美莉を冷たい目で見る。
「お前にやれとは言っておらん。無事にことを成し遂げた(あかつき)には、郭家は輝嵐帝の恩人として盛り立てると皇太后さまからはお約束いただいている。だが、手を下した本人は無事では済まん。鬼の力は弱まるだけでなくなるわけではない。道連れにするくらいの力はあるだろう。万が一生き残れたとしても、皇族に手を下した者は死罪だ。美莉、お前には輝嵐さまが即位された際に後宮入りしてもらわねばならないからな」
 その言葉に、美莉はホッと胸を撫で下ろし、勝ち誇ったように凛風を見た。
 美莉、継母、父の視線が凛風に集まった。
 家のために、命をかけて皇帝を暗殺する……その過酷な運命を課せられるのは。
「やれるな? 凛風」
 目の前が暗くなるような心地がした。
 どこまでも自分は、父にとって価値のない存在なのだと思い知る。
「なれど、成し遂げる自信がありませぬ……」
 凛風は声を絞り出す。それが精一杯だった。
「やらねばならぬ。失敗すれば、我が家は破滅。わしとお前の大切な浩然も責任を取らされ、無事では済まぬ」
「ハ、浩然が……?」
 まさかこれが、浩然に関わることだとは思わなかった。けれど、よく考えてみればその通りだ。皇太后の機嫌を損ねた家臣が無事で済むわけがない。
 浩然が立派に成長するのを見届けて、亡き母に報告するのが、凛風の唯一の望みだというのに……。
 父が立ち上がり、凛風の前へやってくる。
 しゃがみ込み、床に膝をつく凛風の肩に手を置いた。
「お前は、浩然が可愛い。そうだろう? 成功すれば、郭家は繁栄を極める。浩然はお前に感謝するだろう。家の功労者としてお前の墓は、邸が見える場所に立ててやる」
 それであれば死してなお、立派に成長した浩然を見続けることができるのだ。
 彼は凛風にとっての生きる望み。彼の命と自分の命、比べることなどできない。
「凛風、できるな?」
「凛風?」
 両親に囲まれる凛風を、美莉が蔑むような目で見ている。
 どちらにせよ、凛風に選択肢などないのだ。
 自分は、父と継母の命に逆らうことは許されぬ身。
 否と言えば、すぐにでも棘のある枝で虫の息になるまで打たれるだろう。そしてその後、東の森に放り込まれる。
 自分の行く末が黒に塗りつぶされていくのを感じながら、凛風はゆっくりと頷いた。