(エン)()(コク)の北の外れ、高揚(コウヨウ)
 この地を治める貴族、(カク)凱雲(ガイウン)の邸の裏庭にて、今年十八になる郭凛風は、寒さに耐え洗濯をしている。
 桶に張った水に布をひたすと、あかぎれだらけの指が痛む。凛風は顔を(ゆが)め歯を食いしばった。
 冷たい水での洗濯は、この季節もっともつらい作業だった。だがぐずぐずしている暇はない。日があるうちに言いつけられた仕事をすべて終わらせなければ、もっと痛い思いをすることになる。
 この辺りで一番大きなこの邸には、当然召使はたくさんいる。
 だが誰も凛風が継母から言いつけられた仕事を手伝ってはいけないことになっている。
 今も水場でひとり、朝昼晩と道楽のように着替えるひとつ下の異母妹、(メイ)(リー)の衣装を洗う凛風を気遣う者はいない。
「凛風、凛風!!」
 勘を立てた声で自分を呼ぶ声がして、凛風はびくっと肩を揺らす。
 洗い物を一旦置いて水場を離れ、外廊下の階段の下で地面に膝をついて頭を下げる。
 足音を立てて、継母がやってきた。
「凛風!」
「はい、お継母さま」
「お前、美莉の髪飾りをどこへやった? 赤い()(ノウ)のやつだ」
 件の髪飾りは、父が美莉のために都から取り寄せたものだ。彼女はそれを気に入っていて、よくつけている。
 確か最後に使ったのは、三日前。〝買い物に行くので市場にいる貧乏人に見せびらかすのだ〟と言って出かけていった。
「確かこの間のお出かけの後、鏡台の引き出しにしまわれていたと……」
 びくびくしながら答える凛風を、継母が(いら)()ちながら遮った。
「そこにないから聞いてるんじゃないかっ! 本当にお前はぐずだね! いったいどこへやったんだい!?」
「わ、わかりません。わたしが見たのはそれが最後です」
 震える声で答えるが、それで許してもらえるはずがない。
(うそ)言うんじゃないよ! 美莉が(ねた)ましくてどこかに隠したんだろう」
「そ、そんなことしません!」
 真っ青になって首を振る。そこへ。
「おだまりっ!」
 叱責とともに頬を打たれる。衝撃で凛風は地面に手をついた。
「お前があの髪飾りを(うらや)ましそうに見ていたのは知っている。白状をし! 髪飾りをどこへやった!」
 鬼の形相で継母は凛風を追及する。
 まったく身に覚えのない話だった。
 赤い瑪瑙の髪飾りは繊細な銀細工でできている最高級品で、この辺りの娘には手に入らない代物だが、羨ましいなどと思ったことはない。
 朝から晩までこの邸の中で、言われたことをこなすだけの生活をしている自分が持っていてもなんの意味もないからだ。
 だがそれで継母が納得するはずがない。
 こうなったら、凛風がなにを言っても無駄だった。このままではひどいことになるのは目に見えていた。
 継母はことあるごとに(かん)(しゃく)を起こし、憂さ晴らしのように凛風の身体を(とげ)のある木の枝で打つ。
 そのため凛風の身体には背中や肩、腕にいたるまで醜い傷痕が残っている。
 継母から着ることを許されている袖の短い衣では、腕の傷が見えてしまう。目にした人は皆眉をひそめた。
 なんとかして彼女の怒りを鎮めなくてはと思うけれど、髪飾りの行方に心あたりがない以上どうしようもなかった。
「本当に知りません。私はひとりで美莉さまのお部屋に入ることはありませんから……」
「しらを切るんじゃないよ! ああ、口惜しい。今夜の宴につけさせたいと思っていたのに……」
 今夜邸では、都からの使者を迎えることになっていた。彼らをもてなすために、宴が開かれるのだ。
 宴には妹と継母も出席するが、当然ながら凛風は呼ばれていない。
 血の(つな)がりという意味では凛風も正真正銘父の子だが、彼らの認識では郭家には含まれない。召使いか、それ以下の存在だ。
「どこへやったか早くお言いっ! 宴までに出さなきゃ、承知しないよ。この家から放り出すくらいじゃ済ませない。東の森へ捨ててやる!」
「ほ、本当に知らないんです!」
 凛風は真っ青になって首を振った。
 東の森は国の境、魑魅(ちみ)(もう)(りょう)が現れる場所だ。迷い込んだりしたら人間の凛風はあっという間に()われてしまう。
「私が見たのは三日前が最後です! 本当です」
「まだ嘘をつくのか!」
 必死に訴える凛風の頬に、再び継母の平手打ちが飛んでくる。凛風は地面に倒れ込んだ。
 それだけではあきたらず継母はもう一度腕を振り上げる。そこへ。
「お母さま」
 鈴の鳴るような声がして、継母が止まり振り返った。
 美莉が柱の陰から現れた。
「髪飾り、あったわ。二段目の引き出しに入れ替えたのを忘れてたの」
 気楽な調子でそう言って、継母に向かってペロッと舌を出す。
「あら、そうなのかい。……それはよかった、安心したよ」
 継母がさっきまでとは打って変わって、機嫌のいい声で答えた。
「だけど、美莉。淑女が舌を出すなんてそのような振る舞いをするでないよ。なんといってもお前はそこら辺の娘とは格が違う、郭家の娘なんだから」
 (ねこ)()で声でたしなめる。
「はぁい」
 美莉が可愛(かわい)く答えた。そして凛風を(さげす)むような目で見た。
「お姉さま、臭い」
「馬小屋のにおいだよ。美莉、お前は近寄るでないよ、においが移るからね。そしたら今夜の大事な宴で、お使者さまに不快な思いをさせてしまう」
 そう言って継母は、凛風を(にら)んだ。
「いつまでそこにいるつもりだい? もう用は済んだんだから、さっさと用事に戻りな。本当にのろまなんだから。いいかい? 今夜の宴は、美莉にとって大事な大事な宴なんだ。絶対にお使者さまの前に姿を見せるんじゃないよ。万が一にでも、お使者さまの前に姿を見せたら、今度こそ東の森に放り出すからね!」
 言い捨てて、くるりとこちらに背を向けて、妹の背に優しく手を添える。
「さぁ、お支度の続きをしましょうね。とびきり()(れい)にしなくては。この日のために、お前を大切に育てたのだから」
 もう凛風には用はないというように、さっさと廊下を歩いていく。
 美莉がちらりと振り返り、勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
 十中八九、髪飾りの件は彼女からの凛風に対する嫌がらせだ。
 彼女は凛風が継母に()(とう)され殴られるのを見るのがなによりも好きで、こんな風に頻繁に凛風に難癖(なんくせ)をつけ継母を()きつける。
 とはいえ、今回は枝で打たれずに済んだとホッとして凛風はまた洗濯に戻る。
 平手打ちくらいなんでもない。日常茶飯事だ。
 洗濯物を洗い終えた凛風は、それを抱えて邸の裏の物干場を目指す。
 途中、三人の下女が集まって話をしているところへ出くわした。
 足を止めて物陰に隠れたのは、自分の名前が聞こえたような気がしたからだ。
「でもどうして奥さまはあそこまで、凛風さまをいじめるのですか? 馬小屋で寝起きさせるなんて、尋常じゃないですよ。仮にも郭家のお嬢さまですよね? さっきも髪飾りがなくなったって濡れ衣を着せられて……私胸が痛くて」
 どうやら、彼女は新人のようだ。
 凛風が継母に虐げられていることに、異を唱える者はこの邸にはいない。
 継母の怒りを買うのが怖くて、皆見て見ぬふりをする。
 慌てて先輩下女が低い声でたしなめる。
「そんなこと、この邸で言ってはいけないよ。奥さまに知られたらすぐに(いとま)を出されてしまう」
 それに、もうひとりの先輩下女も同意する。
「奥さまはね、凛風さまのお母上さまが存命だった頃のお(めかけ)さんなの。凛風さまが生まれた一年後に美莉さまを生んだのに、自分は邸に入れてもえず、町はずれで暮らしてたのよ。だから、先の奥さまを恨んでるの」
「へぇー」
「奥さまは美莉さまを後宮入りさせたいでしょう? だから凛風さまは邪魔ってわけ。馬小屋で寝起きさせて召使い以下の生活をさせているのは、凛風さまが選ばれると嫌だからよ。こう言っちゃなんだけど、見た目では、美莉さまは凛風さまに勝てないもの」
 都にある皇帝のための後宮に娘を入れるのはすべての貴族の望みである。
 娘が皇帝からの寵愛を受け、皇后になれば権力を誇示できる。
 有力者たちは皆、娘に後宮入りするのにふさわしい行儀作法を身につけさせ、美しく育てあげる。
「だからね、この邸で働き続けたければ、凛風さまのことは見ないふりをしなきゃいけないよ。ほら、宴の準備に戻らなきゃ、叱られるわ」
 そう言って、下女たちは建物の中に戻っていった。
 今の下女が言った通り、この邸では凛風はいないものとされている。
 どんなにひどく(たた)かれても、飢えて動けなくなっていても、下女たちが助けてくれることはない。
 先ほどまで胸を痛めていた下女もすぐにそれを心得て、凛風がなにをされていても気に留めなくなるはずだ。
 それを悲しいと思っていたのは、もうずいぶんと前のこと。
 今はなんの感情も湧いてこなかった。
 洗濯物を抱え直して、凛風はまた歩き出した。