「暁嵐さま」
 厩に黒翔を繋ぎ振り向くと、昨夜のように秀宇がいた。
 暁嵐はため息をついた。
「過保護も大概にしろ」
「ですが……今宵、百の妃はいかがでしたか? 陛下に取り入るようなご様子は?」
 問いかけられて、暁嵐はしばらく考えてから口を開く。
「……特にそのようなことはなかった」
「そうですか。慎重にことを進めるつもりなのでしょう。その気がないふりをするのは男女の駆け引きではよくある策にございます」
 秀宇の言葉に、暁嵐は黙り込む。
 鬼の力では人間の心を読むことはできない。だが生まれた時から命を狙われて常に間者を警戒してきた経験から、相手の視線や声の調子仕草から、だいたいの思惑を読む力が暁嵐には備わっている。
 今夜は、全神経を集中させて郭凛風を観察した。
 だが彼女は刺客らしい素振りは見せなかった。
 暁嵐の気を引きたいならば、目の前で湯浴みをするなど絶好の機会。なにか仕掛けてくるかと思ったが、そんな様子はまったくなく、ただ戸惑うのみ。どちらかというと黒翔との触れ合いを心から喜んでいるように思えた。
 将を射んと欲すれば先ず馬を射よ。
 その言葉の通り、黒翔から懐柔しようとしているのだろうか?
 濡れた地面に足を滑らせ、転びそうになったのが唯一それらしい振る舞いといえばそうかもしれないが、その後の動揺は演技だとは思えなかった。
真っ赤になり、暁嵐を見ることもなく一目散に去っていったのだから。
「……ま、暁嵐さま」
 やや大きな声で呼びかけられて、今夜の出来事を思い出していた暁嵐はハッとする。いつの間にか清和殿の中まで来ていた。
「百の妃の実家、郭家の件調べてまいりました。皇太后さまと交流はあるようです。ですが、郭家は皇太后さまのご実家と遠い縁戚関係にありますから、当然といえば当然。娘の件に関しましては、娘自身、後宮入りするまでは、都へ来たことがなかったようで判然としません。やはり一旦私が現地に飛ぼうと思います」
 秀宇からの報告に、暁嵐は頷いた。
「そうしてくれ。お前が戻るまでには百の妃の思惑も突き止める」
「くれぐれも、毒婦にお気をつけくださいませ。調査は私にお任せいただき直接お会いになるのは控えるべきだと私は思います」
 しばらく離れるからだろう。彼はいつもより強い口調で釘を刺す。
「わかった、わかった」
 答えると、心配そうにしながらも下がっていった。
 扉が閉まると、暁嵐は寝台へ横になる。
 目を閉じると瞼の裏に、今宵の郭凛風の姿がチラついた。黒翔を見つめる(いと)おしげな眼差しと、語りかける柔らかな声音が脳裏に浮かぶ。どうしてか胸の奥がざわざわと騒いだ。
 秀宇の反対に背いて(おう)()を続けるのは彼女の正体を暴くため、それ以上の意味はない。あたりまえすぎるその事実を頭の中で確認し、先ほどの秀宇の言葉を繰り返した。
「毒婦には気をつけろ……か」
 そんなことはわかっている。いかに巧みに練られた策にも自分がはまることはない。
 ――だが。
 暁嵐は目を開き自分の手を見つめる。
 転びそうになった彼女を支えた時の感触がまだ残っているように思えた。あの瞬間、ふわりと感じた甘やかな香りと、すぐ近くで見た()んだ瞳が、暁嵐の中の熱いなにかを駆り立てた。
 目の前で転びそうになったからただ支えただけなのだ。それならばそのまま手を離せばいいはずが、ほとんど無意識のうちに抱き上げ安全な場所へ移動させたのはどうしてなのか……。
 郭凛風、彼女と毒婦という言葉が、どうしても結びつかなかった。