どこよりも一番に夜を迎える支度を始める、夕暮れ公園。最近は秋めいてきて、辺りが静まるのが早い。
 近くの家から賑やかな声が聞こえてくる。そんな中でも、桜の木はただ一本、そこにある。
 一人寂しく、ただ春を待ち焦がれている桜の木の元に、今日も彼女は寂しそうな表情を浮かべながら、やって来た。
 仕事終わりで、少しだけスーツを着崩している。
 彼女は桜の木の傍にあるベンチにカバンを置く。そして、桜の木に背を向けるように設置されたベンチの背もたれに、腰掛ける。
 桜の木を見上げるその瞳は、桜の木を見ていないようにも感じる。
 冷たくなった風が、枝を揺らす。

「……君、もうすぐなくなるんだってね」

 ただ揺れる枝を眺め、彼女はこぼした。
 誰も彼女の言葉に応えない。夜が近付いているがゆえの沈黙が、彼女と桜の木の間に流れる。

「私たち、仲良く置いていかれたと思ってたのに……君にも会えなくなるのは……寂しいよ」

 彼女の独り言は、徐々に黒に染まっていく空に溶けていく。
 静かな空間は儚さを助長させている。

「結局、この半年、一度も会えなかったし……そろそろ気持ちに区切りを付けようと思って」

 桜の木よりも寂しそうにしながら、彼女はカバンに手を伸ばした。
 取り出したのは、一冊のアルバム。
 半透明の青色カバーで、手に取る度に中身が見えてしまうのが気恥しいからと、あえて一ページ目になにも入れないでもらった、思い出の詰まった一冊。

「今日なら見れるかなって、持ってきたんだ。少しだけ、過去話に付き合ってくれる?」

 当然、返答はない。
 彼女は寂しく微笑みながら、そっと、アルバムの表紙を撫でる。わずかに震える指先で、ゆっくりとアルバムを開いた。
 そこには、彼女が探し求める、愛しい人の姿がある。

 春。
 夕暮れ公園で桜を見ているときの写真。

『春なので、お花見に行きませんか』

 大学を卒業して、待ち構える入社式に緊張していた中での、同級生からのお誘い。少しでも気が紛れるならと、彼女は誘いに乗った。

「彼ね、君のこと気に入ってたんだよ」

 彼女の表情は柔らかい。

『桜並木も綺麗で美しいんだけど、この子は、一本でも立ってる。それがかっこよくて、好きなんだ』

 そう言って、桜の木を見上げる横顔。
 不思議とその横顔から目が離せなくて、彼女はスマホのシャッターを押した。
 常に明るくて笑顔しか知らなかった彼の、影。彼女はそれに、気付かないふりができなかった。

『お花見と言えばお弁当かなって思って、作ってきたんだ。よかったら食べて?』

 自分で作ってきたサンドウィッチを、美味しそうに頬張る姿。
 至れり尽くせりで、若干の申し訳なさを感じつつ、サンドウィッチを齧ったときの感動と悔しさ。それが現れた表情が、彼の手によって残されていた。

「彼が料理上手だってことは、知ってたよ? でもまさか、私が作るより美味しいなんて、思わなかった。それが本当に、悔しくって。あれから、たくさん料理の練習したっけ」

 過去を懐かしむ彼女に、同調する声はない。
 花見の締めくくりは、桜の木を背景に、二人で撮った写真。微妙な距離感と緊張感が伝わってくる。
 これを撮る前に言われた言葉を、彼女は今でも忘れられない。

『……好きです。付き合ってください』

 告白してきた彼の表情は、写真には残っていない。だけど、鮮明に心に残っている。
 頬を紅く染めながら、幸せそうに微笑む姿。
 それがはっきりと思い出せるからこそ、胸が痛くて仕方ない。
 視界が滲んで涙が頬を伝っていこうとするのを、顔を上げることで堪える。桜の木を見上げることとなったその瞳は、切なさを物語っている。
 桜の木は、変わらずそこにあった。

「……君は、私たちの始まりと終わりを、見守ってくれたことになるね」

 見た者の胸を締め付けるような笑みをこぼし、彼女は視線を落とした。
 そして、感情の読み取れない顔に戻り、ページをめくる。
 そこにあるのは、終わりを知らない二人の、幸せに満ちた空間。羨ましくもあり、その未来を知っているからこその、絶望感のようなものもあった。

 夏。
 近所の祭りに訪れたときの写真。

「そういえば、私から誘ったの、この祭りが最初で最後かも」

 仕事終わりのデート中、夕飯を食べるための店を探していたはずが、遠くから聞こえる和太鼓の音に足が止まった。

『近くで祭りやってるのかな。行ってみない?』

 彼は断らなかった。
 無邪気に金魚すくいや射的をする姿、かき氷を食べて頭が痛そうにしている姿。どれも微笑ましいものばかりだ。
 そして、花火を見上げる横顔。
 空に広がる明かりに照らされた彼の切ない表情が、そこにはある。とても、綺麗な火花に見惚れているようには見えない。
 彼の写真に触れ、まるで伝染したかのように、彼女は苦しそうな表情を浮かべた。

「……いつも、寂しそうになにかを見上げてた。今思えば、このときから別れたいって思ってたのかなあ……」

 彼女の声が、僅かに震える。すっかり暗くなってしまった夜空が、彼女の声をさらっていく。
 気持ちは落ち込んだまま、また新たな思い出が蘇る。
 それは、二人で休みを合わせて、向日葵畑に行ったときの写真。

『一面の向日葵、見てみたくない?』

 唐突な提案だった。
 彼女は花畑に興味なんてなくて、どうしてそんな誘いをされたのかわからなかった。
 だけど、目の前の、なにかを期待する目を見て、理解した。ただ、彼が見たいだけなのだと。
 その瞳に負けて、向日葵畑には電車に揺られて行った。電車から見える海にも、彼は虜になっていた。

「一本の桜に、一面の向日葵。そして、光が反射する海……あの人は本当、綺麗な景色が好きだった。おかげで、景色をスマホに収めることが増えてね。私のフォルダを見て、嬉しそうにしてくれるの、幸せだったな……」

 ずっと、写真の中の彼が、鏡のように彼女に反映されているようだ。思い出だけでなく、彼の表情の効果も相まって、ページをめくる手が軽くなる。
 次にあったのは、向日葵と背比べをしている写真。
 彼女は女性にしては長身のほうだが、向日葵はそんな彼女よりも背が高かった。
 そして彼も、向日葵に届いていない。彼は悔しそうに向日葵を睨み、見上げている。

『成長して、いつか追い越してみせる……』

 その独り言を思い出して、彼女は小さな笑い声をこぼした。

「私より少しだけ低い背を気にしてたなんて、知らなかったなあ」

 そう呟いてページをめくると、季節が移り変わる。

 秋。
 同棲を始めたことで、家での写真が増えていく。
 料理中だったり、それを食べる姿だったり、ソファでくつろいでいたり。

「同棲すれば、相手の嫌なところが見えてくる、みたいな話があってね? でも私は、真逆だった。彼の魅力をたくさん見つけて、どんどん愛しくなってたんだ」

 その想いが二度と届けられないと知っているからこその、切ない微笑み。
 それでも、幸せが滲み出ていた。

 家の中の写真には、たまに、小物の写真も挟まれていた。歯ブラシや、ペアのコップ。二人の記念品やお気に入りの物を並べたスペース。
 彼が、彼女と過ごせることを喜んでいることを教えてくれているような気がした。

「こんな写真、いつの間に撮ってたんだろう」

 彼女は、彼の痕跡がなくなりつつある自宅を思い返して、苦しくなる。
 彼が存在しないことに慣れてしまったのは、つい数週間前の話だ。家に一人でいることに対して、なんとも思わない自分がいた。それに気付き、またさらに落ち込んだのは、言うまでもない。

「そういえば……この時期は遠出しなかったんだっけ。珍しく、彼が誘ってこなくて」

 家の中から場所が変わると、季節まで変わっていた。

 冬。
 駅前のイルミネーションの写真。

『冬と言ったら、イルミネーションだよね』

 相変わらずの、季節を感じるお出かけの提案により、足を運んだ。
 駅前の通りを埋め尽くす、カラフルな光。いつもは景色に溶け込んでいるその光に、彼女は初めて圧倒された。

「不思議だったなあ……ただの光なの。それなのに、すごく暖かくて。彼も、そうだったらよかったのに」

 イルミネーションを見ていても、彼は悲しそうだった。
 もう、その横顔は残したくなかった。ただ、彼女の記憶にあるだけ。

「最後まで、彼がなにを思って景色を眺めているのか、聞けなかった……だって、怖かったの。私との時間に飽きて、終わりにしたい、とかだったらどうしようって」

 彼女の声が震える。
 結局、恋人の時間が終わりを迎えてしまったこともあり、彼女の想像は現実だったように思えてしまう。

「なんて、どれだけ考えても意味ないんだけどね」

 苦笑しながらページをめくると、もう、写真はなかった。

 彼と迎えた二度目の春は、写真には残されていなかった。

「そっか……あのときの景色を、お互いに残さなかったのか」

 彼女はアルバムを閉じる。
 桜の木を見上げると、その奥に楕円のような月が輝いているのを見つけた。暗闇の中で、他者の力を借りて輝く月は、少しだけ彼女の心の傷を癒す。
 彼女はゆっくりと目を閉じて、あの日のことを思い返す。

『お花見、行きませんか』

 一年前と変わらないお誘いの言葉に、彼女は迷わず頷いた。
 彼が浮かない顔をしていたことに気付きながら、桜を見れば復活するだろう、なんて思っていた。

『……別れたい』

 到着して、ベンチに並んで座って、桜も見ないで言われた、予想もしていなかった言葉。
 彼の横顔を見れば、冗談ではないのだと思い知らされる。
 公園ではしゃぐ子供たちの声が、どこか遠くから聞こえてくるような気がしていた。

『……ごめんね』

 彼女の反応が遅れたせいで、彼は言い逃げた。
 彼女は、動けなかった。
 彼がいなくなっても、追いかけることもできなかった。
 唐突に心に穴が開いてしまったような感覚。その痛みを一気に理解したのは、部屋から彼の存在が消えていたのを見てから。
 大人になって声を上げて泣いたのは、あれが初めてだった。

 静かに、眉尻から涙が落ちる。
 目を開け、空に浮かぶ月に微笑みかける。

「私たちは、太陽を失ったら輝けないのにね」

 月も応えない。
 視線を落とし、指先で涙を拭う。

 それから手にしていたアルバムをカバンの中に入れ、ベンチから離れた。

「付き合ってくれて、ありがとう。少しだけ、吹っ切れた気がする」

 彼女が桜の木に声をかけたそのとき、スマホにメッセージが届いた音がした。
 カバンから取り出して確認すると、消せなかった連絡先から動画が送られている。
 混乱しながらベンチに腰掛け、スマホのロックを解除する。

秋希(あき)……?」

 動画をタップする指先は、震えていた。