試合でほどよくくたびれたので、これならすとんと昼寝できそうだと、私はビーチには行かなかった。
ところがしんと静まったロッジにとり残された瞬間、眠気がどこかへ行ってしまった。
身体は眠る準備でほてってるのに、頭が冴えて、寝られる気がしない。
仕方なく、みんなを追いかけることにし、バスルームで乾かしていた水着を身に着ける。
シャーベットカラーの、スカートタイプのビキニだ。
真衣子の水着姿を思い出して、私はやっぱり幼稚でございます、としみじみしてしまう。
スレンダーな身体にぴたりと合った、白とブラウンのシンプルなビキニを着て出ていった真衣子。
まっすぐな黒髪をポニーテールにすると、きりっと活発でかっこよく、憧れるくらい可愛い。
ひとつに結うとボリュームが出すぎて、髪に引っぱられているような気になってしまう私は、ふたつに分けて耳の下で結わえ。
あー子供、と鏡に向かってため息をついた。
薄手の白いパーカーを羽織って、砂浜までの道をくだるうち、ちょっと脇道に入ってみようと思いついた。
砂浜の直前を折れて、丘のふもとに沿って歩く。
今日もよく晴れて、気持ちいい。
日焼け止めは欠かさなかったけど、さすがに少し焼けたな、と素足を見おろしながら考える。
兄が家にいた頃は、毎年必ず家族全員で旅行に行った。
国内の時もあったし、海外の時もあった。
父が休みに融通の利く立場になってからは、現地のコンドミニアムで、二週間くらい自炊生活をすることもあった。
海辺の都市も、辺境の山岳地帯も行った。
兄が忙しくなり、私も高校生になると、そんな機会はぐんと減り、祖父母をつれて軽く遠出するくらいになって。
いつしか、そんなふうに家族で時間を過ごすことは、まったくなくなっていたことに、今ごろ気づく。
両脇の土手がせりあがって、だんだんと狭まっていた道が、ふいに開けた場所に出た。
目の前は海で、突き出たささやかな桟橋が見える。
頭の中で現在地をはじき出すと、あの桟橋からは、先輩の家が見えるはずだった。
迷うことなく、古びた木の橋に向かう。
明らかにもう使われていない小型のボートが一艘、橋のたもとに繋がれている。
水面までは2メートルほどだろうか、きしむかと思った橋は意外に頑丈で、私は小走りで突端を目指した。
途中まで来たところで、振り返る。
ああ残念、大きな木が邪魔をして、あと少しのところで見えない。
もうちょっとなんだけどな、と身体をあちこちに傾けながら一歩、また一歩とうしろ向きに進むうち。
あの緑色の屋根が、見えたと思った瞬間。
踏み出した足の下に、もう橋はなかった。
「そんなに警備本部が気に入ったの」
「B、大変な目にあった子に、その言いかたはないだろ」
「怒ってるんだよ、俺は」
すみません…と小さくなると、私の足の傷を看ていたB先輩がため息をついた。
「無理すると熱が出たりするかもしれないから、今日はもう、泳ぐのもテニスも、ダメだよ」
「はい」
海の中でパーカーを脱ぎ捨ててしまった私に、誰かがバスタオルをかけてくれる。
髪を拭きながら、迷惑をかけた申し訳なさに小さく息をつくと、右のくるぶしのあたりに激痛が走った。
「痛い!」
「当たり前だよ」
こすれて裂けた傷に、容赦なく消毒液を振りかけられて、そのたび痛みに身がすくんだ。
ガーゼをあててもらってほっとした時には、先輩の怒りももっともだと、改めて自分を恥じた。
「桟橋から泳いできたって、マジで?」
「可愛いのにたくましい子だね」
「あそこ、遊泳区域外だろ。パト誰だ」
「岩部です、この子がブイをくぐろうとした時、あいつが見つけたんですよ」
周囲のそんな声をよそに、包帯を巻きながら、じろりと先輩が私を見る。
「一歩間違えたら本当に危なかったんだよ、わかってるね」
「すみません…」
「どうやったらあそこで落ちるの。ひとりだったんでしょ」
ちょっと考えごとを、と濁したら、またにらまれた。
でも先輩の家を見ようとして足を踏みはずしたなんて、言えるわけない。
「少しゆっくりしたほうがいいんだけど。ここで休んでく? 合宿所に戻る?」
「戻ります、あの、ご迷惑をおかけしました」
立ちあがって頭を下げた私を無視して、先輩はなぜか奥の部屋へ行ってしまった。
本当に怒らせたんだろうかと不安になっていると、白いTシャツを手に戻ってきた先輩が、それを私にほうる。
「冷えてきたでしょ、着てって」
「ありがとうございます」
私はバスタオルを返して、シャツにありがたく手を通した。
頭をくぐらせた時、あれっと気づく。
「これ、先輩のですよね?」
「そうだよ、なんで?」
「いつもと匂いが違うので…」
くんくんと袖に鼻をくっつけていたら、数人いたライフセーバーたちがどっと笑った。
見ればB先輩が、なんとも言えない表情で、珍しく絶句している。
えっ、何?
「なんだよB、後輩とか言っといて、実は彼女か」
「どうりでピリピリしてると思ったら、照れてたのかー」
「いいなー、そんな可愛い子、あやかりてー」
明るい揶揄に、違いますと言ったところで無駄なのをわかってるんだろう、B先輩はふてくされた顔で私をじろっと見ると。
送ってくよ、とため息をついた。
桟橋は小高い丘から直接突き出ていて、海から岸へは上がれなかった。
幸か不幸か、携帯はロッジで充電中で、水没しなかった代わりに助けも呼べない。
橋げたにとっかかりもなく、のぼることが不可能なのは一目瞭然だったので、私は砂浜まで泳ぐことにした。
背後にそびえる岩場をぐるっと周れば、遊泳区域に出られるのはわかってる。
1キロ近くあるだろうから、体力を奪われないためにパーカーを脱いだのはこの時だ。
潮に流されないよう、なるべく岸壁に沿って泳いでいるうちに、海中の岩に足を激しく擦り。
遊泳区域の直前で、例の岩部さんというライフセーバーがレスキューボードに引きあげてくれた時、だらだら流れる血にびっくりした。
「ほんとたくましいね」
「水泳は、ずっと習っていたので…」
「服を脱いだのは、正解だよ。よく知ってたね」
ほめられてるはずなのに、怒られてる気にしかなれない。
先輩の声が低いのと、自分の不注意でしかなかったという自覚があるせいだろう。
私用と考えたからか、先輩はさっきまで着ていたユニフォームを脱いで、昨日と同じ、水着とパーカー姿だ。
両手をポケットに突っこんで、むっつりと地面を見ながら歩き、私のほうを見てくれもしない。
怒ってるんだろうか、あきれてるんだろうか。
たぶん両方だ。
こんなふうに、気分を露骨に出している先輩は初めてで、私は戸惑いながらも、嬉しかった。
怒りながらも、あきれながらも、全然こちらを拒絶しない、先輩のおおらかな優しさを、やっぱり感じたから。
「先輩も、泳ぎが得意なんでしょう? だからライフセーバーに?」
「育った環境がこんなだから、ある程度泳げるけど。でもセーバーの資格は、最低限泳げればとれちゃうよ」
「そうなんですか」
もしかして私でもできるかな。
でも実際問題、海というもの自体に慣れていない私には、きっと無理だ。
「合宿所、誰かいる?」
「いえ、この時間はたぶん、まだ誰も…」
「着いたらすぐに、もう一度水分と、栄養をとってね。自分で思ってるより、消耗してるはずだよ」
「はい」
「痛みが引かなかったり熱を持ったりしたら、病院に行くこと」
「はい」
素直にうなずくと、先輩はようやく、少しだけ微笑んでくれた。
坂をのぼりきったところで、ここでいいですと伝えた。
もし合宿所に誰かいたら、鉢合わせしてしまう。
目的地は目の前なので、大丈夫と判断したんだろう、先輩はうなずいて、来た道を戻ろうとした。
あの、とその背中に呼びかける。
「…ご迷惑をおかけしました」
さっき、無視されてしまった言葉をもう一度投げると。
ゆっくりと振り返った先輩は、少し首をかしげて、かすかに顔をしかめた。
「迷惑はしてないよ、でももう無茶はしないで」
「すみません…」
「謝らなくていいから、約束して」
両手をポケットに入れた先輩の目は、笑ってない。
急な坂に立っているせいで、先輩は私を見あげる形になり、前髪が少し瞳にかかる。
「でないと、また俺の見てないとこで危ないことしてるのかもって、いつも心配してなきゃなんなくなる」
とっさに言葉が出なかった。
どもりながら、無茶はもうしません、となんとか約束すると、先輩は何も言わず、微笑みもせず、かすかにうなずく。
もう一度背中を向けた先輩に、すがるように呼びかけた。
「あの、ご心配をおかけしました」
先輩は、顔だけちらっとこちらに向けて。
「ほんとだよ」
ぼそりと言い放ち、怒ったような視線を一瞬、私に投げると、坂をくだって行ってしまった。
足首に、先輩の手の温度が残ってる。
優しい、B先輩。
部屋で熱いシャワーを浴びると、自分がいかに冷えきっていたかわかった。
足の包帯を濡らさないように注意しながら、全身があったまるまでゆっくりとお湯を浴びる。
いろんな人に迷惑をかけた。
真衣子の言うとおり、私はいつもどおりじゃないんだと思いたい。
ドライヤーを使う体力すら残っていないことに気がついて、髪をタオルでまとめたままベッドに倒れこんだ。
母たちのことを考えようと思ったけど、くたびれすぎていて、頭が少しも働かず。
清潔な枕に吸いこまれるように、私の意識は消えた。
小さな私は、茶色いアップライトのピアノを前に、有頂天になっていた。
象牙の鍵盤を叩くと、年月を感じさせる深い音が、波紋みたいに空気を震わせる。
少し大きくなった私は、淡いブルーのパーティドレスを着て浮かれていた。
レースの袖が最高に素敵で、急に大人になったような気分で、お呼ばれやコンサートで着ていく自分を想像した。
そんな私を見て微笑む、お父さんとお母さんがいる。
お兄ちゃんもいる。
私は、幸せな四人家族の末っ子で。
これからもそうなんだと、信じてた。
「始まったけど、行ける?」
「ううん…いいや、もう少し休んでる」
真衣子が細く開けたドアの向こうから、ホールのにぎやかな喧騒が聞こえてくる。
今日は最後の夜だから、ついに大騒ぎしての宴会なのだ。
私は寝不足と昼間の疲れがたたったのと、あんまり飲んで騒ぐ気分でもなかったのとで、申し訳ないけど辞退した。
真衣子は、あとでお菓子持ってきてあげるね、と軽く手を振って、そっとドアを閉めてくれた。
夢から落ちるように目が覚めたおかげで、まだ心臓がドキドキ言っている。
変な汗が出てきて、私はまた枕に顔をうずめた。
忘れてた。
明日だ。
じわりと浮かびかけた涙を枕にこすりつけて、気づかなかったことにした。
電気を消したのに、部屋の中が明るい。
寝転がったままフランス窓からのぞくと、月が煌々と夜の茂みを照らしていた。
見事な月夜。
その光に呼ばれるように、ベッドを降りてシャツを羽織り、部屋着のショートパンツのまま、テラスから表に出た。
パーカーと同じく海に捨ててしまったので、新しく買ったビーチサンダルを鳴らしながら、昼間みたいに明るい、ロッジの前庭を歩く。
さんざん寝て汗ばんだ身体を、ひんやりした夜気が包んでくれた。
足の傷は、じんじんとうずいてはいるけれど、痛いというほどでもない。
ちょっと歩いてみようかな、と海岸へ下りる道に出た時。
「無茶しないって、約束したじゃん」
暗がりからふいに声をかけられて、飛びあがった。
驚きすぎて声も出せずにいると、頭上に茂った枝葉の影で見えなかったB先輩が、月明かりの下に現れた。
どこ行く気、と坂の下から不機嫌に訊いてくる。
その恰好は、大学と同じ、ジーンズにスニーカー、パーカーという久しぶりに見るもので。
懐かしさのあまり、私はまた、声が出なくなった。
「お祈りしてる場合じゃないでしょ」
「あの、満月が、大きいので、それで」
私はまた、無意識に胸の前で手を組んでいたらしい。
たどたどしく言い訳すると、先輩がふっと笑った。
笑った。
「どこ行こうとしてたの」
「…海岸まで」
「ダメ、傷に砂が入るよ。歩くならこっち行こう」
私が向かっていたのとは反対の、なだらかな登り坂を指して言う。
“行こう”ってことは、一緒に来てくれるってことだろうか。
「歩いちゃダメとは、言わないんですか」
「言ったってどうせ、歩くでしょ」
…あれっ、先輩の中で私って、そんなイメージになっちゃった?
先輩は歩をゆるめないまま私の横を通りすぎ、行こうと指した坂をのぼりはじめる。
追いかけた私は、先輩が何かビン入りの飲み物をくいっとあおったのを見て、あぜんとした。
「飲んでるんですか?」
「成人だもん、責められる理由はないよ」
「…酔ってるんですか?」
どうだろね、と振り向きもせず歩く足取りは、危なげない。
そう酔ってはいないんだろうか。
でもなんで、歩きながらお酒なんて。
「散歩しながら飲むと、回るの早くて効率いいでしょ」
「ここが、お散歩コースなんですか」
そんなわけないし、と低いつぶやきが返ってきたので、なんだか支離滅裂だなあと思っていると、先輩が小さく息をついた。
「俺、今、反省中なんだよね」
「何かあったんですか」
「昼間、ちょっとテンパって、別に何も悪いことしてない子に、きつくあたりました」
はあ、と脈絡のない話にぽかんとしながら、ついていく。
「怪我までしてたのに、たいしていたわりもせず、ひとりの部屋に放置してしまいました」
「…それは、もしかして桟橋から落ちた子ですか」
信じがたいよね、とぶっきらぼうな返事がある。
私はすっかり舞いあがって、足を速めて先輩に並んだ。
「どうしてテンパりましたか?」
「昨日と同じ子が来たって言うから、てっきり3歳児が来たかと思ったら、まさかの18歳児で」
「…それでそんなにテンパったんですか」
「血を流してたので」
顔も真っ青だったので、とぼそぼそつぶやく。
まだ不機嫌そうなその横顔に、胸がじんわり熱くなった。
先輩。
私の様子を、見に来てくれたんですね。
散歩というには遠すぎる、この距離を。
わざわざ歩いて、来てくれたんですね。
「その子は、先輩は十分すぎるほど優しかったって、思っているらしいですが」
「その子の言葉はあてにならないので、信じません。危ないことしないって約束したのに、こんな夜中にひとりで出歩くし」
完全に私の話になってるじゃないか。
耐えきれずに噴き出すと、先輩も照れくさそうに私を見て、笑った。
「ごめんね」
「いえ、私が悪かったんです。本当に申し訳ありませんでした」
「…怪我、どう?」
平気です、と綺麗に包帯が巻かれたままの足を上げてみせると、安心したように微笑む。
ついでに言いますとですね、と切り出すと、先輩が優しく首をかしげた。
「その子は、一緒にお酒を飲みたいようです」
「…怪我してるのにアルコールはないでしょ」
「出血はもう、とまってますし」
だからダメなんだよ、と言いつつも、これ以上厳しくすることにためらいがあるのか、難しい顔で少し悩むと。
最終的には、はい、と飲みかけのビンを差し出してくれた。
ウォッカベースの、爽やかなカクテルだ。
ひと口あおると、炭酸とレモンの風味が喉をきゅっと潤してくれる。
意外に喉が渇いていたことに気づき、ごくごく飲むと、空っぽの胃が温まった。
ビンを受けとった先輩が、呑兵衛だね、とあきれ声を出して、空をあおぎながらまた飲む。
「ほんと、すごい月だね」
「星が消えちゃいましたね」
渡されたビンがほぼ空だったので、飲んじゃっていいのかなと目で確認すると、実はもう一本ある、と先輩がポケットを指さした。
妙な準備のよさに大笑いして、遠慮なく飲み干すと、先輩が新しいビンを開ける。
行くあてもなく、ぶらぶらと歩いて。
話すでもなく、一緒にお酒なんか飲んでる。
なんとなくおかしくて、楽しくて、自然と笑ってしまう。
先輩、私ね、18歳児は、今夜で終わりなの。
「まさか、明日誕生日?」
「そうなんです」
「19歳かあ」
あんまり見えないね、と笑う先輩が、優しく尋ねた。
「ご両親と過ごさなくて、いいの?」
先輩の、困惑に見開かれた目を見て。
私は、自分がどんな顔をしてるのか、想像がついた。
「それで、ぼんやりしてたんだね」
「たぶん、そうかもしれません」
林道の横手にある、少し開けた休憩所で、先輩は私の話を聞いてくれた。
私は恥ずかしさに襲われて、顔を見られずにいた。
いきなり泣きだすなんて、何かあったのと訊いてくださいと言ってるようなものじゃないか。
真衣子、私はやっぱり、ただの構ってちゃんでした。
それに、これまで聞いた断片的な話から、うっすら想像する限りでは。
先輩に、ご両親はいない。
そんな先輩に、こんな幼稚な話をするなんて。
無神経でずうずうしい私。
だけど先輩は、急かすでもなく口を挟むでもなく、とりとめのない私の話を、じっと聞いてくれた。
「なんで泣いたの?」
「わかりません…」
ベンチに座って、煙草をふかしながら、先輩が微笑む。
「理由はあるはずだよ。ちゃんと考えてあげないと」
「…ショックで、でしょうか」
「何がショック?」
「家族が…いろいろと、変わってしまうことが」
それだけ? と組んだ脚に腕を置いて、私をのぞきこんできた。
ようやく涙がとまった私は、確かに果たしてそれだけだろうか、と自分の心を探ってみる。
「直接話してもらえなかったのも、ショックでした」
「だろうね」
「なんていうか、数に入れられてないみたいで。でも実際、私は子供なので、それも仕方ないのかなって」
うん、と促すようにうなずいてくれる先輩に背中を押された気分で、私はひたすら、思いつくままに喋った。
親が、親であることをやめるという選択が、すごく無責任な気がして、それが嫌で。
でも彼らだって人間なのに、そんなふうにしか思えない自分が、狭量な気がして、それも嫌で。
いったいいつからそんなことを考えていたのかわからなくて、それももやもやしている一因で。
私の信じてた両親の間の愛は、もしかしたら一部、嘘だったのかもと思うと、震えるほど怖くて。