これ以上ためらったら、一生勇気が出ない気がして。

編集部の女性から教わった番号を、夢中で打ちこんだ。

心臓はドキドキと、壊れそうなくらい鳴って息があがる。


そういえば、これから寝るところだったと言われたことを、はっと思い出した。

もう数回鳴ってしまったコール音に、今さら切るほうが迷惑かと逡巡した瞬間。








『伴です』








三年半前の、あの雨の日から。

張り裂けそうなほど焦がれ続けた、声が聞こえた。





蝉の声が、つんざくように耳の奥を焼いた。

障子越しの優しい日差しを感じた。

夏の、先輩の匂いに包まれた気がした。



やっぱりもう寝ていたんだろう、少し眠たげな声が、もしもし? と再度問いかけてくる。

携帯を耳にあてて、髪をかきあげる姿が目に浮かぶ。

とても声なんて出なかった。


壁の時計の音が、やけに耳につく。

先輩はどうしてか、電話を切らない。


もしもし、と何度目かに言ったあとは、言葉を発せず。

ただ、こちらの気配に耳を澄ましているのがわかった。


もうダメだ、何か言える気がしない。

これ以上は先輩を疲れさせるだけだし、切ろう、と決心した時。



「みずほ、ごはんよ、下りてらっしゃい」



ノックの音と共に、母が顔をのぞかせた。

飛びあがった私に怪訝な顔をしながらも、早くね、と念を押してまた戻っていく。


聞こえただろうか。

聞こえたに決まってる。


震える呼吸を抑えながら、もう一度携帯を耳にあてた。

まだつながってる。


先輩が、大きく息を吸って、ふっと吐いた音がした。

煙草に火をつけたんだ。





『来月帰るよ』





唐突に、通話は切れた。