「やめてください」
「いい加減にして。どこか行って」
「嫌です」
「見てたいってこと?」
別にいいけど、と冷たく言った先輩が、右手に力をこめたのがわかった。
やめて! と無我夢中でその腕に飛びついた。
「真衣子の好きな人なの!」
私の指をかすめかけたナイフを、先輩がとっさに逆の手に持ち替えたのが見える。
「私の、大事な友達の、好きな人なんです」
空になった先輩の腕を抱いて訴えた。
真衣子の好きな人なんです。
過ちなんて言葉で許される過去じゃ、ないだろうけれど。
それを知った真衣子が、どういう選択をするのか、知らないけれど。
でも今の槇田先輩を、真衣子は好きなんです。
槇田先輩も、自分のしたことを、悔やんで、恐れて。
真衣子を選べずにいるのは、きっとそのせい。
償いたいと、この場で言えるくらい。
勇気のある人なんです。
ごめんなさいと、軽々しく言わないくらい。
真摯な人なんです。
湿った風が、あたりを揺らした。
木々の隙間から吹きつける雨が、私たち全員に降りそそぐ。
永遠に続くかと思うような静けさだった。
実際は一瞬だったのかもしれない、わからない。
とにかく、途方もなく長く感じた沈黙のあと、私が抱きしめていた腕を、B先輩がそっと外した。
「B先輩…」
「ほんと後悔してる」
うつむいた顔がつぶやく。
雨に濡れた左手から、ナイフを伝って水が垂れている。
その刃に、先ほどまでの恐ろしさは、もうなかった。