「俺、もう行く」

「逃げんな」

「バイトの前にちょっと寝たいんだよ」



途方に暮れたような声でB先輩が訴えると、うわーとみんながはやし立てる。



「そりゃー“今朝”だもんな」

「そういう意味じゃないって」



さっさと消えろという声と、逃げるなという声の間で困っている先輩。

下品、とあきれたようにつぶやく真衣子の隣で、私は彼女の注意を聞かなかったことを悔やんでいた。


真衣子先生、私やっぱり、こういう話は、まだ早かったみたいです。

だって、逃げ出したくて逃げ出したくて、たまらない。


ついにみんなの輪から抜け出したB先輩は、あーっという声を無視して素早くコートを出ていった。

フェンスの向こうを走りながら、片手に持った缶を掲げて、私に微笑んでくれる。

カーキのパーカーのうしろ姿はすぐに、学内を埋めつくす木々にまぎれて、見えなくなった。



「B先輩、彼女を探しに来たのかな…」

「探しにって?」



思わず漏らしたつぶやきに、槇田先輩が首をかしげる。



「誰かを探しに、この大学に入ったんじゃないんですか?」

「何それ?」



先輩たちが不思議そうにするのを見て、私は慌てて、きっと聞き間違いです、とごまかした。

この話、誰も知らないんだ。


右手をぎゅっと握りしめる。

B先輩に缶をとられた時、指と指が偶然、一瞬触れた。

長い指は、綺麗だけど、やっぱり男の人らしく、飾り気がなくて素朴だった。



(“今朝”って)



そんな手で、さわらないでください、とか。

そんな手ってどんな手だ、とか。

経験もないくせに妄想だけは一人前で、バカか私は、とか。


いろんなことが頭の中を巡って、なんだか泣きそうになる。


B先輩。

あなたはいったい、どんな人ですか。