行こ、と真衣子を促して、講義室への階段をのぼりながら、B先輩を思った。
ポケットの中身について、私は彼に訊けもしなかった。
見なかったふりをしてもとに戻して、忘れようと思った。
たとえば、私をどう思ってますか、とか。
たとえば、あのナイフはなんですか、とか。
以前なら、なんのためらいもなく訊けていただろうことが、今は口に出せない。
前より近づいたと思ったのに。
訊けないことが増えてるなんて、おかしな話。
だって今、十分幸せだから。
これ以上知りたいことなんて、ない。
嘘。
ただ怖いだけ。
この幸せが、どれだけ危なっかしい地盤の上に築かれてるのか、知ってるから。
訊いたらそれが崩れてしまう可能性を、わかってるから。
要するに逃げてるの。
私は今、いろんなことから逃げてる。
ある日、日も暮れる頃に先輩の部屋を訪れると、彼は窓辺に座っていた。
障子と窓を全開にして、膝ほどの高さの敷居に腰をかけ、柱に背中を預けて外を見ている。
私を認めると、間に合った、と満足げに微笑んで、冷蔵庫からビールを持ってくるよう指示した。
「え、屋根に出るんですか?」
「そうだよ、足元気をつけて」
言いつけどおりビールをとって戻ると、窓の外にとりつけてある転落防止の柵をひょいと乗り越えて、先輩が瓦の屋根に降り立つ。
手招きに従い私も、昼間の温もりを残す瓦を踏んで、導かれるまま傾斜をのぼった。
意外にすぐそこだった、一階の屋根のてっぺんの、峰の部分に腰をおろす。
どういうことですか、と尋ねようとした時、暮れた空がぱっと光り輝いた。
ポケットの中身について、私は彼に訊けもしなかった。
見なかったふりをしてもとに戻して、忘れようと思った。
たとえば、私をどう思ってますか、とか。
たとえば、あのナイフはなんですか、とか。
以前なら、なんのためらいもなく訊けていただろうことが、今は口に出せない。
前より近づいたと思ったのに。
訊けないことが増えてるなんて、おかしな話。
だって今、十分幸せだから。
これ以上知りたいことなんて、ない。
嘘。
ただ怖いだけ。
この幸せが、どれだけ危なっかしい地盤の上に築かれてるのか、知ってるから。
訊いたらそれが崩れてしまう可能性を、わかってるから。
要するに逃げてるの。
私は今、いろんなことから逃げてる。
ある日、日も暮れる頃に先輩の部屋を訪れると、彼は窓辺に座っていた。
障子と窓を全開にして、膝ほどの高さの敷居に腰をかけ、柱に背中を預けて外を見ている。
私を認めると、間に合った、と満足げに微笑んで、冷蔵庫からビールを持ってくるよう指示した。
「え、屋根に出るんですか?」
「そうだよ、足元気をつけて」
言いつけどおりビールをとって戻ると、窓の外にとりつけてある転落防止の柵をひょいと乗り越えて、先輩が瓦の屋根に降り立つ。
手招きに従い私も、昼間の温もりを残す瓦を踏んで、導かれるまま傾斜をのぼった。
意外にすぐそこだった、一階の屋根のてっぺんの、峰の部分に腰をおろす。
どういうことですか、と尋ねようとした時、暮れた空がぱっと光り輝いた。