「でも?」
「何かあって、ここに来たんじゃないの?」
困り顔で首をかしげる先輩を見て、怒涛のように記憶が押し寄せる。
バカ!
私、お母さんのことで、ショックでショックで、カンカンに腹を立てて、ここに来たんじゃないか。
言い訳もできないほど、すっかり忘れていた。
私ったら、一大事ぶって押しかけておきながら。
ちゃっかり相手してもらって、それで満足して、お世話になりました、なんて風情で帰ろうとしてたんだ。
たぶん先輩はずっと、私が何か言いだすのを待っていてくれたのに。
何考えてるのよ、私。
舞いあがるにもほどがあるでしょう。
一歩大人になったつもりが二歩後退したような気分で、スカートを握りしめる。
そんな私を眺めていた先輩が、ははっと明るく破顔した。
「忘れちゃうくらいなら、安心した」
駅まで送るよ、と微笑んで部屋を出ていく。
慌ててそれを追うと、玄関で追いつく。
この部屋に、鍵をかけることはないらしい。
善さんも出入りするし、盗られて困るものもないし、何よりめんどくさいからだと先輩は言った。
「開け閉めより、鍵を持ち歩くのが面倒だよ。それがないと入れないなんて、おかしいよ、俺の部屋なのに」
驚くほど人の心に敏く、なのに大事なことを気にしない。
平気平気、と言いながら生きて、それを人にもわけてくれているような気がする。
大丈夫だよって気楽に笑いながら、安全な道をいつも探してくれているような、そんな気がする。
また来たらご迷惑ですか、と訊くのに、なぜか途方もなく勇気がいった。
先輩は私を見おろすと、微笑んで。
明日も日中は部屋にいるよ、と。
全部を投げ出して甘えたくなるような声で、言った。