冬眞の手が伸びてきて、持っていた枕を奪い取られた。
冬眞はそれをぎゅっと抱きしめて、わたしから少しだけ視線を逸らした場所で、小さく、笑う。
「言ったろ。俺はユーレイだって」
枕にうずめた白い頬。
まだ濡れている黒い髪が、ゆるりとその上を滑っていく。
遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえる。
透明な今の季節の空気は、遠くの音が、よく響く。
「……なに、馬鹿なこと言ってんの。そんなわけないじゃん。冗談言ってないでさあ」
「冗談じゃないよ。ほんとのこと」
「だから何言って」
冬眞の瞳が、ゆらりとこちらを向いた。
髪と同じ、夜の色の瞳。
唇が、微かに動く。
「本当だ。俺は一度、死んでるんだ」
それは、言葉とは裏腹に、とても穏やかな口調だった。
その声と表情は、哀しみというよりも、慈しみに満ちていて。
そう、本当に。
まるで大切な大切な愛しい何かに、微笑みかけているみたいに。
───ぐぅ
と小さな呻き声のようなものが鳴ったのは、まさにその直後で。
部屋の中が驚く程静かだったから驚く程に響いたそれは、別に驚かないけど当たり前のようにわたしにも届いて。
枕にいそいそと顔を埋め始める黒い頭を、わたしは穴を開けるような心持ちでじっと見ていた。
「……ユーレイでも、おなか減るんだ?」
「そりゃもちろんだよ」
「お金掛からないならしばらく置いてやるのも有りかと思ってたけど、食費掛かるなら養えないなあ」
「そんなこと言うなって。きみなら出来るさ」
「あんたがわたしの何を知ってるわけ?」
溜め息を吐いて立ち上がる。
そう言えば、なんだかんだで自分もお昼から何も食べていなかった。
思い出したら急にお腹って減ってくるもんだ。
確か、カップラーメンがいくつか残っていたはず。
「そうだ、瑚春、こうしよう」
「……どうしよう?」
「ご飯作ってあげるから、しばらくここに置いて」
確実に割に合わない。
呆れるわたしを差し置いて、冬眞は返事すら待たずに意気揚々とキッチンへ向かった。
まさかとは思うけど、本当にご飯を作る気じゃないだろうな。
そしてそれを理由にここに居座る気じゃないだろうな。
「おい瑚春。もうちょっと冷蔵庫の中身充実させとけよ。女の子だろ」
本当に、まさかとは、思うけど。
「ちょっと冬眞! 何しようとしてんのあんた!」
声を張り上げれば、冷蔵庫を覗いていた冬眞は首を傾げてこちらを向いた。
「だからご飯作ってやるって言ってんだろ。あ、今だけじゃないからな、ちゃんと毎日作るから」
「いらないよそんなの! とりあえず今日はカップラーメンでも食って、明日には出て行け!」
「ひどいこと言うなよ。それに俺料理得意なんだ。どうせあんたろくなもん食ってないんだろうし」
冬眞が、くすりと笑う。
「だって瑚春は、料理が苦手だもんなあ」
独り言みたいに、そう呟いて。
だから、わたしは怒ろうとして、でも図星だから言い返せなくて。
だけど、そこで、ふと。
なんで、“図星を言い当てられた”んだろうと、妙な違和感に気付いて。
「……なんで、わたしが料理苦手って分かるの?」
苦手ではあってもまったくしないわけじゃないから、器具はある程度揃っているし、キッチンも片付いていると思う。
冷蔵庫の中身だって今は確かに少ないけれど、一人暮らしなら誰だってそんなもんだろう。
わたしが料理が苦手だってこと、決めつけられるような理由、どこかにあるとは思えないけど。
「まあ、そうだなあ……なんとなく、かなあ」
答えは、冬眞自身もあまり分かっていないようだ。
首を傾げて、きょとんとした顔でそんなことを言うから。
「……なんとなくで決めつけないでくれる?」
「でも当たってたんだろ? だって言い返さなかったし」
「……」
ほら、言い返せない、と冬眞が笑うから、わたしは戸棚から出した2個のカップラーメンを投げつけて部屋に戻った。
布団に潜ってぐだぐだして、しばらくしたらいい匂いがしてきたから布団から出たら、いつも食べているインスタントラーメンが何やらおいしそうな料理に変身してテーブルに置かれていた。
「インスタントのラーメンも、ちょっと手を加えるだけでもっとおいしくなるもんだよ」
食べてみたら、なるほど確かにいつもよりもかなりおいしい。
この男、自分で得意というだけのことはあるみたいだ。
家政夫としてここに置く価値がある……とは言い切れないけれど、なんとなく便利だなあとは思ってしまうから困った。
冬眞は、わたしがもそもそと食べ続けているのを確認してから、ようやく自分も食べ始めた。
自分で作ったくせにやけにおいしそうに味わって食べているもんだから「おいしそうに食べるね」とそのまんま口にしてやったら、
「まあね。子供の頃は、あんまりこういうの食べれなかったから」
と言って笑っていた。
「なにそれ、カップラーメンも食べれなかったの? もしかしてあんたん家ド貧乏だったとか?」
「言うねえ、きみ」
「あ、そっか。だからホームレスなんだ。納得」
「いやいや、言っておくけど別に普通の家だから。格別金持ちなわけでもないし。ふつう」
「……ふうん」
「あ、信じてないね、その目」
「あんたのことは何一つ信じてないよ」
ずずっと麺をすする。
あ、料理のおいしさだけは信用してあげてもいいかもしれない。
その他の事は、本当に、まるで、不信感すら抱けないくらいに、何もわかっていないけれど。
「瑚春」
「なに」
「これからよろしくね」
「いますぐ出て行け」
ちょっと大きな捨て猫を拾っただけだ。
なんて、都合の良い事、思えるわけがないじゃないか。
『半分こするんだ。ふたりでひとつ。
これで、いつだって、一緒にいられるでしょう』
人はひとりじゃ生きられないってよく言うけど、あんなのは幸福な人のただの言い訳に過ぎない。
人はひとりでだって十分に生きていける。
だってほら、見ての通り、わたしはひとりでもこうして生きているんだから。
でもね、やっぱり、人はひとりじゃ生きていけないらしいんだ。
だってほら、わたしは、きみがいないと死んじゃうんだよ。
心臓が止まるわけじゃないよ。
息が出来なくなるわけでもないよ。
頭がおかしくなって急に線路に飛び出してしまうわけでもないよ。
ただね、体の、真ん中へんが。
引き裂いたって決して見えない部分が。
死んでしまうんだよ、きみが、いなければ。
◆The second day
>>流浪の春雷
枕元に置いていた携帯の無機質な音で目を覚ました。
いつも遮光カーテンは閉めていないから、寝覚めの眩しさには慣れている。
けれど、この朝から漂う香ばしい匂いは、慣れ親しんだものとは違った。
寝起きはいい方じゃないけれど、今日のは褒められたものだろう。
完全に目を見開いてベッドから体を起こせば、テーブルの上に乗っかった焼かれたトーストとベーコン付きの目玉焼き(2セット)が発見された。
「あ、おはよう、瑚春」
キッチンから形の違うカップをふたつ持って現れたのは、背の高い黒髪の男。
コトリ、とカップを置いてテーブルの前に座る姿は、まるでずっと昔からここで暮らしているかのように思わせる。
が、そんなわけもない。
「……夢のように消えてほしかった」
「ん、なに? 悪い夢でも見た?」
「……うん、今、まさにね」
淡い期待は抱いていた。
昨日の夜の出来事はすべて夢で、朝になったら全部消えてなくなっているんじゃないのかと。
いや、全部なくならなくてもいいんだ。
この男が、いなくなれば、それでいい話、なんだけど。
「ほら、朝ご飯作ったからちゃんと食えよ。コーヒーが冷めちゃう前に」
どこのお母さんだ、ほんとに。