その日の昼、喪屋の板戸を開け放つと、秋の陽がはじめてこの小屋の奥まで射しこんだ。
その光の中で、まつは姉の手を洗った。刀自が汲んできたぬるま湯で、ひび割れた指の一本一本を、ゆっくりと。毎晩、妹の分まで洗いつづけた手を、はじめて妹のほうが洗っていた。
洗い終えると、まつは姉の手の隣に自分の手を並べた。どちらの手も、指の節という節が赤く裂けていた。大きさが違うだけで、ふたつの手はそっくりだった。
泣くだけ泣いた子どもの横顔は、ひと晩で少しだけ大人びて見えた。
夕暮れ、いとは里へ下がった。
北の門の外の空は、熟れた柿の色をしていた。典侍が手配した荷車に、筵にくるまれたいとが乗せられた。
車を引くはずの下人が喪屋の丁子の匂いに尻ごみしていると、猛がのっそりと前へ出た。
「俺が引きます」
典侍がわずかに眉を上げた。
「滝口が、自ら穢れを負うと?」
「帳面の上では、この子は死んでないんでしょう。でも俺は、死んだ人を運ぶつもりで運びます。だから、穢れます」
猛は轅に手をかけた。
「春に、何も知らずに運んだ人がいました。今度は、ちゃんと知ってて送りたいんです」
典侍はしばらく猛を見ていた。それから静かに頭を下げた。
「……三十日の物忌みを、願い出ておきましょう」
「三十日、詰所の屯食は抜きだぞ」
昴が言うと、猛は一瞬だけ、この世の終わりのような顔をした。
「……時雨さんとこで、皿でも洗わせてもらう」
「叔母さんは、ただ飯は食わせないよ」
「知ってる。だから皿を洗う」
私は懐から、千種さまにもらった唐菓子の最後のひとつを出した。猛の手に押しつける。
猛は目を丸くして、それからふいに胸のあたりを押さえた。
「……やっぱり、腹が減ってるのか、俺は」
「たぶんね」
轍が乾いた土の上に二本の細い線を引いていく。まつはその傍らについて歩きだした。一度だけ振り返って、刀自に、それから私に、深く頭を下げた。
門の内へ戻りかけた典侍が、私の横で足を止めた。
「見事でした。……母君に、よく似ておいでです」
「母は、泣いたんですか」
典侍は、すぐには答えなかった。
「一度だけ」
それだけ言うと、衣擦れの音を残して門の内へ消えていった。
最後まで見送ったのは刀自と、私と、昴だけだった。
泣き女の出番は、なかった。泣く人が、ちゃんといたから。
帳面の嘘が、ひとつだけ、本当になった。
まつは里で姉を土に還し、三十日の穢れが明けたら、また後宮へ戻ってくる。今度は樋洗ではなく、葎壺の女童として。千種さまが刀自に掛け合ったのだそうだ。あの子いつも眠そうなんだもの、うちなら昼寝くらいさせてあげられるわ、と。お給金は唐菓子で払うつもりらしい。小萩が困ったように笑いながら教えてくれた。
その夜、喪屋を片づけに行くと、灯台に火が入っていた。
昴が土間に座って、書きものをしていた。膝の上に広げているのは、春に御簾ごしに見せてもらった、あの星の帳面だった。
私が入っていっても、昴は顔を上げなかった。筆の先が紙の上をすべっていく。
樋洗いと 年十五
長月二十日 北の井のほとりにて卒す
妹まつ 泣きてこれを送る
美しい手蹟だった。表の帳面に「里下がり」と記された娘の本当の死を、昴は長月二十日の明け方の空を記した丁に、書き添えていた。
筆はもう一行を書き足した。
露 これに立ち会う
私の名が帳面に載るのは、生まれて初めてだった。泣き女は、どこの家の帳面にも載らない。
「それ、星の帳面でしょ」
「そうだ」
「星じゃないことも書いてある」
「空の下で起きたことだ」
昴は筆を置いた。
「空は、嘘をつかない。だから、この帳面には、本当のことしか書かない」
私は昴の肩越しに帳面をのぞきこんだ。
丁をさかのぼると、見覚えのある書きつけがあった。――月なし。丑の刻、北より南へ、大いなる呼ばひ星、ひとつ。その横に、同じ手蹟で小さく書き足してある。梅壺の更衣、この夜、渡り廊下にて身まかる。
どこの記録にも残らないはずの命日が、ここにはあった。
母の名もどこかの帳面に、本当のことと一緒に書かれているのだろうか。里下がりの後、行方知れず。その続きが。
さらに前へ、前へとめくった。月の満ち欠けと、星の位置と、雲の具合。一晩も欠かさずに、何年分も。めくるほどに紙は古び、筆の運びは幼くなっていく。
いちばん最初の丁が、なかった。
綴じ糸のきわに、紙の名残だけがぎざぎざに残っている。乱暴に破り取られた跡だった。
指を伸ばしかけたとき、昴がぱたりと帳面を閉じた。
「見るな」
低い声だった。それから、少しだけいつもの声に戻った。
「……椿餅、食うか」
「食べる」
答えてから、ずるいと思った。椿餅で黙らせるのは、この人のいつもの手だ。わかっていて、私はいつも黙らされる。
昴は墨のついた指で、目もとをごしごしとこすった。目尻に、墨が、涙のかたちに滲んだ。
教えてあげなかった。もったいないので。
椿餅はゆっくりと腹に落ちていった。たったひとつで、胸のあたりまでいっぱいになった。いつもなら、みっつは軽いのに。疲れているせいに決まっている。
◆
椿餅を頬張る横顔を、昴は見ないふりをして見ていた。
泣くな、と言われた日のことを覚えている。棺の前で、自分より小さな女の子が、自分のぶんまで声を嗄らしていた。あんたが泣くから、お母さんが行けないの。――その声に背中を押されて、母は行った。行けたのだと、昴は十年、信じてきた。
同じ声が、今朝は別の子の涙を呼んだ。
どちらも正しかったのだろう。正しかったから、わからなくなる。泣かないまま過ごした十年で、自分は何を送り、何を引き止めてきたのか。
閉じた帳面のいちばん最初の丁のあたりに、昴はそっと指を置いた。そこには何もない。何もないことだけが、残っている。
◆
喪屋を出ると、かぐやの姿がなかった。
夜の後宮を、かぐやを探して歩いた。北の曹司にも、洗い場にもいない。干物で釣ろうにも、手持ちの最後の一枚は今朝かぐやの腹に収まっている。
やがて南のほうから、聞き慣れた音がした。ごろごろと、満ち足りた猫の喉の音。
典侍の声が、耳の奥でよみがえった。――その猫を、決してあちらへやらぬように。
私は足音を殺して、南へ向かった。
南へ下るにつれ、廊の板は磨きこまれ、釣灯籠の数が増えていった。同じ後宮でも、北の隅とは灯の数から違う。
渡殿の陰の、小さな坪庭だった。呉竹が夜風にさやさやと鳴っていた。
渡殿の縁に、少年がひとり腰かけていた。
十四か、十五か。白っぽい装束が灯籠の明かりをほのかに照り返している。その膝の上で、かぐやが腹を見せて喉を鳴らしていた。私にさえ、めったに見せない格好だった。
少年はかぐやの顎を撫でながら、こちらを見た。
「この子、きみの猫?」
「……はい。とんだご迷惑を」
「ううん。毎晩、遊びに来てくれるんだ」
少年はかぐやを抱き上げて、私に差し出した。受け取るとき、指先が触れた。袖ごしではなく、素手のまま。
井戸の水のように、冷たい手だった。
――なのに、何も流れこんでこなかった。
死んだ人の冷たさなら、私はよく知っている。触れれば、その人の最後の想いが胸の奥へなだれこんでくる。けれど生きている人の手が、こんなに冷たいはずもない。
かぐやの毛並みから、あの香りが立ちのぼった。深く、どこまでも沈んでいくような、上等な香木の匂い。少年の袖からも、同じ香りがしていた。
「今朝、北のほうで、誰かが泣いていたね」
少年は北の空を見上げた。
「ここまで聞こえたよ。……いい声だった」
それから、ふしぎそうに首をかしげた。
「ねえ。泣いてもらえるのって、どんな気持ちなんだろう」
私は答えられなかった。
自分の涙で誰かのために泣いたことも、誰かに泣いてもらったこともない。そんな私に、わかるはずがなかった。
腕の中でかぐやが身をよじり、私は一瞬、目を落とした。
顔を上げると、渡殿の縁にはもう誰もいなかった。呉竹だけが、さやさやと鳴っていた。
殿上童だろう、と思った。こんな夜更けに清涼殿のそばをうろついている子どもが、ほかにいるはずもない。
腕の中でかぐやが口のまわりを舐めた。その口の端から、ひとすじ、よだれが糸を引いて落ちた。
あの子に何かおいしいものでも、もらったのだろう。
そう思うことにした。
その光の中で、まつは姉の手を洗った。刀自が汲んできたぬるま湯で、ひび割れた指の一本一本を、ゆっくりと。毎晩、妹の分まで洗いつづけた手を、はじめて妹のほうが洗っていた。
洗い終えると、まつは姉の手の隣に自分の手を並べた。どちらの手も、指の節という節が赤く裂けていた。大きさが違うだけで、ふたつの手はそっくりだった。
泣くだけ泣いた子どもの横顔は、ひと晩で少しだけ大人びて見えた。
夕暮れ、いとは里へ下がった。
北の門の外の空は、熟れた柿の色をしていた。典侍が手配した荷車に、筵にくるまれたいとが乗せられた。
車を引くはずの下人が喪屋の丁子の匂いに尻ごみしていると、猛がのっそりと前へ出た。
「俺が引きます」
典侍がわずかに眉を上げた。
「滝口が、自ら穢れを負うと?」
「帳面の上では、この子は死んでないんでしょう。でも俺は、死んだ人を運ぶつもりで運びます。だから、穢れます」
猛は轅に手をかけた。
「春に、何も知らずに運んだ人がいました。今度は、ちゃんと知ってて送りたいんです」
典侍はしばらく猛を見ていた。それから静かに頭を下げた。
「……三十日の物忌みを、願い出ておきましょう」
「三十日、詰所の屯食は抜きだぞ」
昴が言うと、猛は一瞬だけ、この世の終わりのような顔をした。
「……時雨さんとこで、皿でも洗わせてもらう」
「叔母さんは、ただ飯は食わせないよ」
「知ってる。だから皿を洗う」
私は懐から、千種さまにもらった唐菓子の最後のひとつを出した。猛の手に押しつける。
猛は目を丸くして、それからふいに胸のあたりを押さえた。
「……やっぱり、腹が減ってるのか、俺は」
「たぶんね」
轍が乾いた土の上に二本の細い線を引いていく。まつはその傍らについて歩きだした。一度だけ振り返って、刀自に、それから私に、深く頭を下げた。
門の内へ戻りかけた典侍が、私の横で足を止めた。
「見事でした。……母君に、よく似ておいでです」
「母は、泣いたんですか」
典侍は、すぐには答えなかった。
「一度だけ」
それだけ言うと、衣擦れの音を残して門の内へ消えていった。
最後まで見送ったのは刀自と、私と、昴だけだった。
泣き女の出番は、なかった。泣く人が、ちゃんといたから。
帳面の嘘が、ひとつだけ、本当になった。
まつは里で姉を土に還し、三十日の穢れが明けたら、また後宮へ戻ってくる。今度は樋洗ではなく、葎壺の女童として。千種さまが刀自に掛け合ったのだそうだ。あの子いつも眠そうなんだもの、うちなら昼寝くらいさせてあげられるわ、と。お給金は唐菓子で払うつもりらしい。小萩が困ったように笑いながら教えてくれた。
その夜、喪屋を片づけに行くと、灯台に火が入っていた。
昴が土間に座って、書きものをしていた。膝の上に広げているのは、春に御簾ごしに見せてもらった、あの星の帳面だった。
私が入っていっても、昴は顔を上げなかった。筆の先が紙の上をすべっていく。
樋洗いと 年十五
長月二十日 北の井のほとりにて卒す
妹まつ 泣きてこれを送る
美しい手蹟だった。表の帳面に「里下がり」と記された娘の本当の死を、昴は長月二十日の明け方の空を記した丁に、書き添えていた。
筆はもう一行を書き足した。
露 これに立ち会う
私の名が帳面に載るのは、生まれて初めてだった。泣き女は、どこの家の帳面にも載らない。
「それ、星の帳面でしょ」
「そうだ」
「星じゃないことも書いてある」
「空の下で起きたことだ」
昴は筆を置いた。
「空は、嘘をつかない。だから、この帳面には、本当のことしか書かない」
私は昴の肩越しに帳面をのぞきこんだ。
丁をさかのぼると、見覚えのある書きつけがあった。――月なし。丑の刻、北より南へ、大いなる呼ばひ星、ひとつ。その横に、同じ手蹟で小さく書き足してある。梅壺の更衣、この夜、渡り廊下にて身まかる。
どこの記録にも残らないはずの命日が、ここにはあった。
母の名もどこかの帳面に、本当のことと一緒に書かれているのだろうか。里下がりの後、行方知れず。その続きが。
さらに前へ、前へとめくった。月の満ち欠けと、星の位置と、雲の具合。一晩も欠かさずに、何年分も。めくるほどに紙は古び、筆の運びは幼くなっていく。
いちばん最初の丁が、なかった。
綴じ糸のきわに、紙の名残だけがぎざぎざに残っている。乱暴に破り取られた跡だった。
指を伸ばしかけたとき、昴がぱたりと帳面を閉じた。
「見るな」
低い声だった。それから、少しだけいつもの声に戻った。
「……椿餅、食うか」
「食べる」
答えてから、ずるいと思った。椿餅で黙らせるのは、この人のいつもの手だ。わかっていて、私はいつも黙らされる。
昴は墨のついた指で、目もとをごしごしとこすった。目尻に、墨が、涙のかたちに滲んだ。
教えてあげなかった。もったいないので。
椿餅はゆっくりと腹に落ちていった。たったひとつで、胸のあたりまでいっぱいになった。いつもなら、みっつは軽いのに。疲れているせいに決まっている。
◆
椿餅を頬張る横顔を、昴は見ないふりをして見ていた。
泣くな、と言われた日のことを覚えている。棺の前で、自分より小さな女の子が、自分のぶんまで声を嗄らしていた。あんたが泣くから、お母さんが行けないの。――その声に背中を押されて、母は行った。行けたのだと、昴は十年、信じてきた。
同じ声が、今朝は別の子の涙を呼んだ。
どちらも正しかったのだろう。正しかったから、わからなくなる。泣かないまま過ごした十年で、自分は何を送り、何を引き止めてきたのか。
閉じた帳面のいちばん最初の丁のあたりに、昴はそっと指を置いた。そこには何もない。何もないことだけが、残っている。
◆
喪屋を出ると、かぐやの姿がなかった。
夜の後宮を、かぐやを探して歩いた。北の曹司にも、洗い場にもいない。干物で釣ろうにも、手持ちの最後の一枚は今朝かぐやの腹に収まっている。
やがて南のほうから、聞き慣れた音がした。ごろごろと、満ち足りた猫の喉の音。
典侍の声が、耳の奥でよみがえった。――その猫を、決してあちらへやらぬように。
私は足音を殺して、南へ向かった。
南へ下るにつれ、廊の板は磨きこまれ、釣灯籠の数が増えていった。同じ後宮でも、北の隅とは灯の数から違う。
渡殿の陰の、小さな坪庭だった。呉竹が夜風にさやさやと鳴っていた。
渡殿の縁に、少年がひとり腰かけていた。
十四か、十五か。白っぽい装束が灯籠の明かりをほのかに照り返している。その膝の上で、かぐやが腹を見せて喉を鳴らしていた。私にさえ、めったに見せない格好だった。
少年はかぐやの顎を撫でながら、こちらを見た。
「この子、きみの猫?」
「……はい。とんだご迷惑を」
「ううん。毎晩、遊びに来てくれるんだ」
少年はかぐやを抱き上げて、私に差し出した。受け取るとき、指先が触れた。袖ごしではなく、素手のまま。
井戸の水のように、冷たい手だった。
――なのに、何も流れこんでこなかった。
死んだ人の冷たさなら、私はよく知っている。触れれば、その人の最後の想いが胸の奥へなだれこんでくる。けれど生きている人の手が、こんなに冷たいはずもない。
かぐやの毛並みから、あの香りが立ちのぼった。深く、どこまでも沈んでいくような、上等な香木の匂い。少年の袖からも、同じ香りがしていた。
「今朝、北のほうで、誰かが泣いていたね」
少年は北の空を見上げた。
「ここまで聞こえたよ。……いい声だった」
それから、ふしぎそうに首をかしげた。
「ねえ。泣いてもらえるのって、どんな気持ちなんだろう」
私は答えられなかった。
自分の涙で誰かのために泣いたことも、誰かに泣いてもらったこともない。そんな私に、わかるはずがなかった。
腕の中でかぐやが身をよじり、私は一瞬、目を落とした。
顔を上げると、渡殿の縁にはもう誰もいなかった。呉竹だけが、さやさやと鳴っていた。
殿上童だろう、と思った。こんな夜更けに清涼殿のそばをうろついている子どもが、ほかにいるはずもない。
腕の中でかぐやが口のまわりを舐めた。その口の端から、ひとすじ、よだれが糸を引いて落ちた。
あの子に何かおいしいものでも、もらったのだろう。
そう思うことにした。

