夜が明ければ、いとはまつの体を寝床へ返すのだろう。そして明日の晩も、その次の晩も、同じことを繰り返す。
待っている暇は、なかった。
私は井戸端へ歩み寄った。
「待て」
昴が低く呼び止めた。
「眠っている者を、無理に起こすな。魂が帰り道を見失う」
「起こさない」
「では、どうする」
「教えるの。本当のことを」
私は振り返らずに言った。
「死んだ人には、嘘をつかないことにしてるから」
盥の向かいにしゃがみこむ。いとは――まつの体は、私のことなど気にも留めずに藁を動かしていた。
「いと」
「なあに。まだいたの、新入りさん」
「手、見せて」
「手?」
「あんたの手」
いとはふしぎそうに手を止めた。盥から引き上げた両手を、細い月の明かりにかざす。
小さな手だった。指の節という節が裂けて、血がにじんでいる。
いとはしばらく黙ってその手を見つめていた。
「……あれ」
閉じた瞼の下で、何かが揺れた。
「あたしの手、こんなに小さかったっけ」
私は答えなかった。その答えは、いとが自分で見つけなければならない。
「これ、まつの手だ」
声が震えた。まつの喉で、いとが震えていた。
「なんで。なんで、あたし、まつの手で――」
「いと」
私はできるだけ静かに言った。泣き女の仕事でいちばん難しいのは、泣くことではない。泣かずに、本当のことを言うことだ。
「あんたは、死んだの。長月二十日の明け方に、この洗い場で」
井戸の底から冷たい風が吹き上げてきたような気がした。
「……うそ」
「死んだ人には、嘘はつかない」
いとは何か言い返そうとして、口を開いた。その喉の奥で、ごぼ、と湿った音がした。喪屋で聞いた、あの咳だった。いとは慌てて袖で口を押さえ――押さえかけて、その手を止めた。
袖は、白いままだった。
まつの胸は病んでいないのだ。
「……そっか」
長い沈黙のあとで、いとはぽつりと言った。
「寒かったんだ、あの朝。指がかじかんで、樋箱がうまく持てなくて。あと、ひとつだったのに」
閉じた目が東の空のほうを向いた。
「月は、見えたんだけどな。……お日さま、見られなかったな」
それからいとは、はっと顔を上げた。
「まつは? まつは、どこ」
私は、いとが握りしめている小さな拳を見た。
「ここにいるよ。……あんたが今使ってるのが、まつの体」
いとの顔が――まつの顔が、くしゃりと歪んだ。
「やだ」
小さな、悲鳴のような声だった。
「やだ、まつの手、こんなにして。あたし、なんてこと――」
その顔からふっと表情が抜け落ちた。
まつの体から芯が抜けた。前へ崩れかかる小さな体を、私は盥越しに抱きとめた。袖ごしではなく、そのままの腕で。生きている子の体は、ちゃんと重かった。
腕の中でまつが小さく身じろぎした。
閉じていた目がゆっくりと開いた。今度は、十二の子の目だった。
「……ここ、どこ。なんで、あたし……」
まつはぼんやりとあたりを見回し、それから自分の手に目を落とした。濡れて、血のにじんだ手。足もとに並んだ、洗いたての樋箱が六つ。盥のそばに、まだ手のつけられていない樋箱が、ひとつ。
最後のひとつは、葎壺の樋箱だった。長月二十日の明け方、いとが抱えたまま冷たくなっていた、あの樋箱だ。
「あんたの姉さんが、あんたの手を借りてたの」
私は言った。
「毎晩、あんたが眠っているあいだに、あんたの手で、あんたの分を洗ってた」
「……姉さんが?」
まつの顔にぱっと光が差した。
「やっぱり。姉さん、まだここにいるんだ」
そのとき、かぐやが井桁に跳び乗った。
白い猫が盥をのぞきこむ。細い有明の月の光が水面に落ちていた。その光の中に、顔がふたつ、映っていた。
ひとつは、盥をのぞきこむまつの顔。もうひとつは、そのすぐ隣で同じように水をのぞきこんでいる、少し年かさの娘の顔だった。喪屋で見た顔よりも頬がふっくらとして、唇に血の色があった。胸を病む前の顔なのだろう。
「姉さん!」
まつが盥に両手を突っこんだ。水面が砕け、姉の顔は千々に揺れた。
「姉さん、どこ。どこにいるの。出てきてよ」
揺れがおさまると、水の中の顔はまた静かにまつを見上げていた。
私はまつの肩に手を置いた。
「まつ。あんたの姉さんは、死んだの」
小さな肩がびくりと跳ねた。
「長月二十日の明け方に、この洗い場で。胸を病んでたのを、ずっと隠してた」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だ! だって刀自は、里へ下がったって言った。帳面にも、そう書いてあるって」
背後で、昴が息を詰める気配がした。
まつは水の中の姉の顔を、睨むように見つめていた。その目は、乾いていた。
「泣かない」
まつは言った。
「あたし、泣かないから。……泣いたら、姉さんが、死んだことになっちゃう」
私は言葉を失った。
帳面に記さなければ、死はなかったことになる。この後宮がそうやって死人を生かしているのと同じやり方で、十二の子がたったひとりで、姉を生かそうとしていた。
泣いたら、もう帰ってこないことになる。――その理屈を、私はよく知っていた。
十二年前、母がいなくなった夜、五つの私は戸口に座りこんで白んでいく道の先をずっと見ていた。泣いたら、母がもう帰ってこないことになる。そう思って歯を食いしばった。叔母の家に引き取られたのは、その年の暮れのことだ。
あれから私は一度も、自分の涙を流していない。
けれどこのままでは、いとはどこへも行けない。明日の晩も、その次の晩も、まつの手を借りて妹の分を洗いつづける。まつの手が、いとの手と同じになるまで。
――あんたが泣くから、お母さんが行けないの。
七つの私は棺の前でそう言った。十年たったいま、私はまるで逆のことを言おうとしている。
ふと見ると、昴がまつを見ていた。唇をかみしめて、まばたきもせずに。春の夜明け前に、一度だけ見た顔だった。
私は水に映る顔に向かって、小さく頭を下げた。
「いと、ごめん。少し、うるさくするよ」
死んだ人には、嘘をつかない。だからこれは、いとのための声ではない。生きている、この強情な妹のための呼び水だ。
私は、喉を開いた。
はじめは細く、息に混ぜるように。それが途切れ途切れになって、ふいに堰を切る。
「いと――」
名を呼ぶのが、肝心だ。
「いとぉ――……!」
天を仰ぎ、地に伏した。洗い場の石に額をすりつけ、拳で土を叩いた。私の持てる芸の、ありったけを注ぎこんだ。十文の号泣を、ただで。声は出す。涙は出さない。叔母に仕込まれたとおりに、空っぽの胸を太鼓にして。
夜気の底で、私の声が何かに触れた。目に見えない戸の、かんぬきが外れるような手応えがあった。かぐやの毛がふわりと逆立ち、盥の水面が風もないのに細かく震えた。
「やめて」
まつの声がした。
私は、やめなかった。
「やめてよ!」
まつが私の袖をつかんで、引きずり起こした。小さな手のどこに、そんな力があったのだろう。
「あんたなんかが、泣かないでよ! 姉さんのこと、何にも知らないくせに!」
「知らないわ」
私は、乾いた頬のまま言った。
「だから、教えて」
まつは唇を噛んだ。私を睨みつけ、それから堰を切ったようにしゃべりはじめた。
「姉さんはね、自分のお下がりを、あたしにくれたの。袖が長すぎるからって、二重に折ってくれた。夕餉が少ないときは、お腹いっぱいだって言って、自分の分をあたしにくれた。あたしが洗い方を覚えられないから、歌にしてくれた。ひとつ、ひしゃくでって……」
声が、震えはじめた。
「咳してたの、知ってた。風邪だって言ってた。あたし、信じたの。……信じたかったの。だって、姉さんが病気だったら、あたし、ひとりになっちゃうから」
まつの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「なんで、言ってくれなかったの。なんで、ひとりで、全部……」
ひとしずく、光るものがまつの頬を転がり落ちた。
「姉さんの、ばか」
それが、合図だった。
まつは声を上げて泣いた。十二の子どもが、ほんとうに泣くときの泣き方で。叔母の品書きのどこにも載っていない泣き方だった。胸の底の涸れ井戸から、とめどなく噴き上がってくるものの泣き方だった。
まつの涙が盥に落ちた。ひとしずく落ちるたびに、水面の姉の顔がやさしく揺れた。揺れがおさまるたびに、その顔は少しずつ笑っていった。
死んだ人は、泣いてもらって、はじめて自分の死を受け取るのかもしれない。
どれほどのあいだ、まつは泣いていただろう。
気がつくと、東の築地の上の空が墨を水で溶いたように薄くなりはじめていた。細い有明の月が、その薄明かりの中に白く頼りなく浮いている。
まつはしゃくりあげながら、盥のそばの樋箱に手を伸ばした。姉が洗い残した、最後のひとつに。
ひとつ ひしゃくで 水汲んで
涙で途切れながら、まつは歌った。歌いながら、ひしゃくで水を汲んだ。
ふたつ ふちまで こすったら
盥の中の姉の顔を壊さないように、そっと藁で樋箱をこすった。みっつ、よっつ。手順はひとつも間違えなかった。
いつつ 妹 寝てるうち
そこで、まつは少しだけ笑った。泣きながら。妹はもう眠ってはいなかった。
むっつ 向こうが 白むころ
歌のとおりに、向こうの空が白んでいた。
まつは洗い終えた樋箱を胸に抱えて、盥をのぞきこんだ。
「姉さん」
水の中の姉に、まつは言った。
「もう、いいよ。あたし、ひとりでできるから」
ついさっき、まつの口を借りて、いとが私に言った言葉を思い出した。――ここは、いいよ。あたしがやっとくから。
姉の言葉を、妹が、そっくり姉に返していた。
水の中で、いとの唇がゆっくりと動いた。声までは聞こえなかった。けれど、そのかたちは私にも読めた。
――寝坊、しないでね。
まつが泣きながら噴き出した。
「……誰のせいだと思ってんのよ」
そうして最後の樋箱の蓋を少しずらし、ほかの六つの隣に東へ向けて置いた。
ななつ 並べて お日さまへ
山の端から、最初の光が射した。
光はまず築地の瓦を濡らし、それから洗い場の石へ、井桁へ、並んだ七つの樋箱へと、ゆっくり降りてきた。水を含んだ樋箱のひとつひとつが、朝日を受けて小さく光った。有明の月はその光の中へ溶けるように見えなくなった。
やがて光は盥の水面に落ちた。いとの顔があった場所に、小さな朝日が浮かんでいた。
水の中には、もう、まつの顔しかなかった。
どこかで、目を覚ました鳥がひと声鳴いた。
私は、自分の頬に触れた。乾いていた。
まつの涙は、姉の顔を揺らした。私の声は、まつの涙を呼んだだけだ。それでいい。泣き女の仕事はそこまでだ。
胸の底の、一度も開けたことのない引き出しが、また、かたりと鳴った。それきり、何も出てはこなかった。
振り返ると、猛が泣いていた。袖で顔を隠しもしない。今度ばかりは、塩のせいにする気もないらしかった。
昴は、泣いていなかった。泣かないまま、白んでいく空を見上げていた。泣くな、と私が言った男の子は、今も律儀に泣かない。
その足もとでは、かぐやがさっき落とした干物を拾って、何事もなかったように食べはじめていた。
「……まつ」
しわがれた声に振り向くと、井戸の陰に乙女刀自が立っていた。
いつからそこにいたのかは、わからない。刀自はよろめくように歩み寄ってきて、まつを抱きしめた。
「毎晩、ここで見てたんだよ」
刀自は、まつの頭越しに私に言った。
「あの歌が聞こえるたびにね。誰も近づかないように、見張ってた。……あたしには、それくらいしかできなかった」
「刀自は、知ってたんですね。いとの胸のこと」
刀自は目を閉じた。
「夏から、血を吐いてた。妹がひとりで洗えるようになるまで黙っててくれって、土間に手をついて頼まれたんだよ。……あたしは、頼まれちまった」
皺の深い頬を、ひとすじ、光るものが伝った。
「あたしが、殺したようなもんさ」
私は何も言わずに、刀自の隣に立った。言えることが何もないとき、泣き女は黙って隣に立つ。
樋洗は、見えてはならない。けれど、泣いてはならないという決まりは、どこにもなかったはずだ。
待っている暇は、なかった。
私は井戸端へ歩み寄った。
「待て」
昴が低く呼び止めた。
「眠っている者を、無理に起こすな。魂が帰り道を見失う」
「起こさない」
「では、どうする」
「教えるの。本当のことを」
私は振り返らずに言った。
「死んだ人には、嘘をつかないことにしてるから」
盥の向かいにしゃがみこむ。いとは――まつの体は、私のことなど気にも留めずに藁を動かしていた。
「いと」
「なあに。まだいたの、新入りさん」
「手、見せて」
「手?」
「あんたの手」
いとはふしぎそうに手を止めた。盥から引き上げた両手を、細い月の明かりにかざす。
小さな手だった。指の節という節が裂けて、血がにじんでいる。
いとはしばらく黙ってその手を見つめていた。
「……あれ」
閉じた瞼の下で、何かが揺れた。
「あたしの手、こんなに小さかったっけ」
私は答えなかった。その答えは、いとが自分で見つけなければならない。
「これ、まつの手だ」
声が震えた。まつの喉で、いとが震えていた。
「なんで。なんで、あたし、まつの手で――」
「いと」
私はできるだけ静かに言った。泣き女の仕事でいちばん難しいのは、泣くことではない。泣かずに、本当のことを言うことだ。
「あんたは、死んだの。長月二十日の明け方に、この洗い場で」
井戸の底から冷たい風が吹き上げてきたような気がした。
「……うそ」
「死んだ人には、嘘はつかない」
いとは何か言い返そうとして、口を開いた。その喉の奥で、ごぼ、と湿った音がした。喪屋で聞いた、あの咳だった。いとは慌てて袖で口を押さえ――押さえかけて、その手を止めた。
袖は、白いままだった。
まつの胸は病んでいないのだ。
「……そっか」
長い沈黙のあとで、いとはぽつりと言った。
「寒かったんだ、あの朝。指がかじかんで、樋箱がうまく持てなくて。あと、ひとつだったのに」
閉じた目が東の空のほうを向いた。
「月は、見えたんだけどな。……お日さま、見られなかったな」
それからいとは、はっと顔を上げた。
「まつは? まつは、どこ」
私は、いとが握りしめている小さな拳を見た。
「ここにいるよ。……あんたが今使ってるのが、まつの体」
いとの顔が――まつの顔が、くしゃりと歪んだ。
「やだ」
小さな、悲鳴のような声だった。
「やだ、まつの手、こんなにして。あたし、なんてこと――」
その顔からふっと表情が抜け落ちた。
まつの体から芯が抜けた。前へ崩れかかる小さな体を、私は盥越しに抱きとめた。袖ごしではなく、そのままの腕で。生きている子の体は、ちゃんと重かった。
腕の中でまつが小さく身じろぎした。
閉じていた目がゆっくりと開いた。今度は、十二の子の目だった。
「……ここ、どこ。なんで、あたし……」
まつはぼんやりとあたりを見回し、それから自分の手に目を落とした。濡れて、血のにじんだ手。足もとに並んだ、洗いたての樋箱が六つ。盥のそばに、まだ手のつけられていない樋箱が、ひとつ。
最後のひとつは、葎壺の樋箱だった。長月二十日の明け方、いとが抱えたまま冷たくなっていた、あの樋箱だ。
「あんたの姉さんが、あんたの手を借りてたの」
私は言った。
「毎晩、あんたが眠っているあいだに、あんたの手で、あんたの分を洗ってた」
「……姉さんが?」
まつの顔にぱっと光が差した。
「やっぱり。姉さん、まだここにいるんだ」
そのとき、かぐやが井桁に跳び乗った。
白い猫が盥をのぞきこむ。細い有明の月の光が水面に落ちていた。その光の中に、顔がふたつ、映っていた。
ひとつは、盥をのぞきこむまつの顔。もうひとつは、そのすぐ隣で同じように水をのぞきこんでいる、少し年かさの娘の顔だった。喪屋で見た顔よりも頬がふっくらとして、唇に血の色があった。胸を病む前の顔なのだろう。
「姉さん!」
まつが盥に両手を突っこんだ。水面が砕け、姉の顔は千々に揺れた。
「姉さん、どこ。どこにいるの。出てきてよ」
揺れがおさまると、水の中の顔はまた静かにまつを見上げていた。
私はまつの肩に手を置いた。
「まつ。あんたの姉さんは、死んだの」
小さな肩がびくりと跳ねた。
「長月二十日の明け方に、この洗い場で。胸を病んでたのを、ずっと隠してた」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘だ! だって刀自は、里へ下がったって言った。帳面にも、そう書いてあるって」
背後で、昴が息を詰める気配がした。
まつは水の中の姉の顔を、睨むように見つめていた。その目は、乾いていた。
「泣かない」
まつは言った。
「あたし、泣かないから。……泣いたら、姉さんが、死んだことになっちゃう」
私は言葉を失った。
帳面に記さなければ、死はなかったことになる。この後宮がそうやって死人を生かしているのと同じやり方で、十二の子がたったひとりで、姉を生かそうとしていた。
泣いたら、もう帰ってこないことになる。――その理屈を、私はよく知っていた。
十二年前、母がいなくなった夜、五つの私は戸口に座りこんで白んでいく道の先をずっと見ていた。泣いたら、母がもう帰ってこないことになる。そう思って歯を食いしばった。叔母の家に引き取られたのは、その年の暮れのことだ。
あれから私は一度も、自分の涙を流していない。
けれどこのままでは、いとはどこへも行けない。明日の晩も、その次の晩も、まつの手を借りて妹の分を洗いつづける。まつの手が、いとの手と同じになるまで。
――あんたが泣くから、お母さんが行けないの。
七つの私は棺の前でそう言った。十年たったいま、私はまるで逆のことを言おうとしている。
ふと見ると、昴がまつを見ていた。唇をかみしめて、まばたきもせずに。春の夜明け前に、一度だけ見た顔だった。
私は水に映る顔に向かって、小さく頭を下げた。
「いと、ごめん。少し、うるさくするよ」
死んだ人には、嘘をつかない。だからこれは、いとのための声ではない。生きている、この強情な妹のための呼び水だ。
私は、喉を開いた。
はじめは細く、息に混ぜるように。それが途切れ途切れになって、ふいに堰を切る。
「いと――」
名を呼ぶのが、肝心だ。
「いとぉ――……!」
天を仰ぎ、地に伏した。洗い場の石に額をすりつけ、拳で土を叩いた。私の持てる芸の、ありったけを注ぎこんだ。十文の号泣を、ただで。声は出す。涙は出さない。叔母に仕込まれたとおりに、空っぽの胸を太鼓にして。
夜気の底で、私の声が何かに触れた。目に見えない戸の、かんぬきが外れるような手応えがあった。かぐやの毛がふわりと逆立ち、盥の水面が風もないのに細かく震えた。
「やめて」
まつの声がした。
私は、やめなかった。
「やめてよ!」
まつが私の袖をつかんで、引きずり起こした。小さな手のどこに、そんな力があったのだろう。
「あんたなんかが、泣かないでよ! 姉さんのこと、何にも知らないくせに!」
「知らないわ」
私は、乾いた頬のまま言った。
「だから、教えて」
まつは唇を噛んだ。私を睨みつけ、それから堰を切ったようにしゃべりはじめた。
「姉さんはね、自分のお下がりを、あたしにくれたの。袖が長すぎるからって、二重に折ってくれた。夕餉が少ないときは、お腹いっぱいだって言って、自分の分をあたしにくれた。あたしが洗い方を覚えられないから、歌にしてくれた。ひとつ、ひしゃくでって……」
声が、震えはじめた。
「咳してたの、知ってた。風邪だって言ってた。あたし、信じたの。……信じたかったの。だって、姉さんが病気だったら、あたし、ひとりになっちゃうから」
まつの顔がくしゃくしゃに歪んだ。
「なんで、言ってくれなかったの。なんで、ひとりで、全部……」
ひとしずく、光るものがまつの頬を転がり落ちた。
「姉さんの、ばか」
それが、合図だった。
まつは声を上げて泣いた。十二の子どもが、ほんとうに泣くときの泣き方で。叔母の品書きのどこにも載っていない泣き方だった。胸の底の涸れ井戸から、とめどなく噴き上がってくるものの泣き方だった。
まつの涙が盥に落ちた。ひとしずく落ちるたびに、水面の姉の顔がやさしく揺れた。揺れがおさまるたびに、その顔は少しずつ笑っていった。
死んだ人は、泣いてもらって、はじめて自分の死を受け取るのかもしれない。
どれほどのあいだ、まつは泣いていただろう。
気がつくと、東の築地の上の空が墨を水で溶いたように薄くなりはじめていた。細い有明の月が、その薄明かりの中に白く頼りなく浮いている。
まつはしゃくりあげながら、盥のそばの樋箱に手を伸ばした。姉が洗い残した、最後のひとつに。
ひとつ ひしゃくで 水汲んで
涙で途切れながら、まつは歌った。歌いながら、ひしゃくで水を汲んだ。
ふたつ ふちまで こすったら
盥の中の姉の顔を壊さないように、そっと藁で樋箱をこすった。みっつ、よっつ。手順はひとつも間違えなかった。
いつつ 妹 寝てるうち
そこで、まつは少しだけ笑った。泣きながら。妹はもう眠ってはいなかった。
むっつ 向こうが 白むころ
歌のとおりに、向こうの空が白んでいた。
まつは洗い終えた樋箱を胸に抱えて、盥をのぞきこんだ。
「姉さん」
水の中の姉に、まつは言った。
「もう、いいよ。あたし、ひとりでできるから」
ついさっき、まつの口を借りて、いとが私に言った言葉を思い出した。――ここは、いいよ。あたしがやっとくから。
姉の言葉を、妹が、そっくり姉に返していた。
水の中で、いとの唇がゆっくりと動いた。声までは聞こえなかった。けれど、そのかたちは私にも読めた。
――寝坊、しないでね。
まつが泣きながら噴き出した。
「……誰のせいだと思ってんのよ」
そうして最後の樋箱の蓋を少しずらし、ほかの六つの隣に東へ向けて置いた。
ななつ 並べて お日さまへ
山の端から、最初の光が射した。
光はまず築地の瓦を濡らし、それから洗い場の石へ、井桁へ、並んだ七つの樋箱へと、ゆっくり降りてきた。水を含んだ樋箱のひとつひとつが、朝日を受けて小さく光った。有明の月はその光の中へ溶けるように見えなくなった。
やがて光は盥の水面に落ちた。いとの顔があった場所に、小さな朝日が浮かんでいた。
水の中には、もう、まつの顔しかなかった。
どこかで、目を覚ました鳥がひと声鳴いた。
私は、自分の頬に触れた。乾いていた。
まつの涙は、姉の顔を揺らした。私の声は、まつの涙を呼んだだけだ。それでいい。泣き女の仕事はそこまでだ。
胸の底の、一度も開けたことのない引き出しが、また、かたりと鳴った。それきり、何も出てはこなかった。
振り返ると、猛が泣いていた。袖で顔を隠しもしない。今度ばかりは、塩のせいにする気もないらしかった。
昴は、泣いていなかった。泣かないまま、白んでいく空を見上げていた。泣くな、と私が言った男の子は、今も律儀に泣かない。
その足もとでは、かぐやがさっき落とした干物を拾って、何事もなかったように食べはじめていた。
「……まつ」
しわがれた声に振り向くと、井戸の陰に乙女刀自が立っていた。
いつからそこにいたのかは、わからない。刀自はよろめくように歩み寄ってきて、まつを抱きしめた。
「毎晩、ここで見てたんだよ」
刀自は、まつの頭越しに私に言った。
「あの歌が聞こえるたびにね。誰も近づかないように、見張ってた。……あたしには、それくらいしかできなかった」
「刀自は、知ってたんですね。いとの胸のこと」
刀自は目を閉じた。
「夏から、血を吐いてた。妹がひとりで洗えるようになるまで黙っててくれって、土間に手をついて頼まれたんだよ。……あたしは、頼まれちまった」
皺の深い頬を、ひとすじ、光るものが伝った。
「あたしが、殺したようなもんさ」
私は何も言わずに、刀自の隣に立った。言えることが何もないとき、泣き女は黙って隣に立つ。
樋洗は、見えてはならない。けれど、泣いてはならないという決まりは、どこにもなかったはずだ。

