有明の数え歌 ―泣かない妹と、眠らない姉―

 子の刻を過ぎて、私は曹司を抜け出した。
 樋洗たちは泥のように眠っていた。夜明け前から働きづめの体には、寝返りを打つ力も残っていないのだろう。まつの寝床がどこなのかは、暗くてわからなかった。
 懐には干物を一枚しのばせてある。洗い場の手前で、闇の中から音もなく現れたかぐやにそれをくわえさせた。口がふさがっていれば、この猫は鳴かない。
 月はまだ昇っていなかった。草むらの虫の声も、もうまばらだ。井戸の釣瓶がかすかに軋んでいる。風のせいだ。そう思うことにした。風は、少しも吹いていなかったけれど。
 干し棚の陰にしゃがみこむと、先客がいた。
「来たか」
 昴だった。
 挨拶のかわりに、ひとつまみの塩が飛んできた。こちらは昴の後ろからだ。
「……それ、毎回やるの」
「お前さんはゆうべ、死人の隣でひと晩過ごしたんだろう」
 猛が大きな体を干し棚の陰に押しこめるようにして、しゃがんでいた。
「あんたも、戸口で半刻ほど番をしてたけど」
「だから、自分にも撒いてる」
 見れば猛の肩にも袖にも、白いものがうっすらと積もっていた。この人がいるかぎり、後宮の塩は値上がりする一方にちがいない。
「月の出は、丑の刻の少し前だ」
 昴が東の空を見たまま言った。星読みというのは、こういうときに便利だ。
 それから昴は袖に手を入れて、葉にくるまれた餅をふたつ出した。
「見張りは、腹が減る」
 ひとつを私の手に載せ、もうひとつを猛のほうへ――やるのかと思ったら、それも私の手に載せた。
 猛がなぜか胸のあたりを押さえた。
「……腹が減ってるのか、俺は」
「屯食なら、さっき三つは食べたでしょ」
 猛は首をかしげた。私はひとつをすぐに口へ入れ、もうひとつを懐にしまった。夜明けまでは長い。
 並んでしゃがみこんだまま、昴は声を落として典侍から聞いたことを話した。
 いとが後宮に上がったのは、十三の春だった。親はふたりとも、とうに亡くしていた。妹のまつを呼び寄せたのは去年の春で、まつは今年十二になる。
「いとが刀自に頭を下げて、樋洗に入れてもらったそうだ。ひとりで里に置いておけば、あの子は飢える、と」
 いとを見つけたのは、乙女刀自だった。長月二十日の明け方、この洗い場で樋箱を抱えたまま冷たくなっていたという。刀自はすぐに典侍へ知らせ、亡骸は日が昇る前に喪屋へ移された。帳面には、病により里下がり、と記された。
「抱えていた樋箱は、葎壺のものだった」
 千種さまの、樋箱だ。
「襟の染みは、血だった。血を吐いて死んでいる」
「毒じゃないわよ」
「まだ何も言っていない」
「顔に書いてあった。春に、私が書いたのと同じ顔」
 昴は黙った。暗くて顔はよく見えないが、たぶん図星の顔をしている。
「ゆうべ、あの子は咳をして、血のついた袖を膝の下に隠した」
「見ていた」
「毒で血を吐いた人は、まず驚くの。叫ぶか、人を呼ぶか、とにかく誰かに見せようとする。隠したりはしない」
 泣き女は、死に方を聞く商売だ。百の野辺送りに雇われれば、百通りの最期の話を聞かされる。
「隠すのは、前から知っていた人だけ。自分の胸が悪いってことを、ずっと前から」
 春の梅壺の更衣さまも、胸の病を隠していた。主上のおそばにいたい一心で、笑って、隠して、ひとりで冷たくなった。この後宮では、病は隠すものらしい。病と知れれば、下げられる。
「下げられたら、まつは、ひとりになる」
 十二の子が、この後宮でひとり、七つの樋箱を抱えて。
 あの干し方。七つの樋箱。まつの持ち場の樋箱を抱えたまま、夜明けの洗い場で冷たくなっていた姉。
「いとは、生きていたころから、夜明け前にまつの分を洗っていたんだと思う。病を隠して、自分の分と、妹の分を、毎晩」
 昴は答えなかった。暗がりの中で、ずっ、と小さく洟をすする音がした。猛のほうからだった。
 聞かなかったことにした。きっと、また塩が目に入ったのだ。
「生きているあいだは、誰も気づかなかったのね」
 私は刀自に教わった決まりを思い出していた。
 樋洗は、見えてはならない。
 いとは、その決まりをよく守ったのだ。生きているあいだ、誰の目にも見えなかった。死んではじめて、後宮じゅうがあの子の噂をしている。
 それからしばらく、誰も口をきかなかった。猛は膝を抱えたまま、こくりこくりと舟を漕ぎはじめた。
「典侍さまに、やめてほしいって言ったんだって?」
 小声で訊くと、昴は東の空から目を離さずに答えた。
「言った」
「私が、素手で触るから?」
「春に、あなたが向こうへ引かれかけたのを見た」
 短い答えだった。
「引き戻してくれたじゃない」
「次も間に合うとは限らない」
 それきり、昴はまた黙った。
 春の夜明け前、私の袖をつかんだ指が震えていたことを、ふいに思い出した。

 東の築地の上に、細い月が顔を出した。昴の言ったとおりだった。
 遠く清涼殿のほうから、丑の刻を奏する声が聞こえた。
 ぽとり、と小さな音がした。
 かぐやが、干物を落としていた。
 あの食い意地の張った猫が食べ物を口から落とすのを、私ははじめて見た。
 かぐやは干し棚の上で背を丸め、北の曹司のほうをじっと見据えていた。全身の毛が逆立っている。
 足音がした。
 ひた、ひた、と素足が湿った土を踏む音。
 闇の向こうから、小さな影がやってくる。両手に樋箱を提げている。井戸端にそれを下ろすと、また闇の中へ戻り、また提げてくる。それを繰り返して、井戸端に七つの樋箱がそろった。
 十二の子の細い腕で、提げられる重さではない。なのに影は一度もよろめかなかった。
 まつだった。
 目を、閉じていた。
 眠ったまま、まつは釣瓶の縄をつかんだ。大人でも腰を入れなければ上がらない重い釣瓶を、するすると手慣れた手つきで引き上げる。盥に水をあけ、樋箱を沈め、藁をつかむ。
 その手つきに、見覚えがあった。
 速い。無駄がない。一刻でも早く、ひとつでも多く終わらせようとする手。
 ゆうべ、喪屋で見た手だ。
「……まつ、だよな?」
 猛がかすれた声で言った。見えない者には、そうとしか見えない。
「半分は」
 昴が答えた。その目はまつの少し上を見ていた。
「まつの体に、もうひとり重なっている。まつより背の高い娘が、まつの手に自分の手をかぶせて、洗っている」
 まつの裂けた指の節から、血がにじんでいた。それでも手は止まらない。こすり、すすぎ、絞る。盥の水が細い月の下で、うっすらと黒ずんでいく。
 まつの手があんなにも荒れていたのは、毎晩、水に触れていたからだ。
 姉の手で。
 やがて、まつの唇から歌がこぼれはじめた。
 小さな、かすれた声だった。昼間、千種さまが口ずさんだのと同じ節だった。いまは、言葉がついていた。

  ひとつ ひしゃくで 水汲んで
  ふたつ ふちまで こすったら
  みっつ 水替え 二度すすぎ
  よっつ よう拭き 蓋ずらし

 干し棚の樋箱が目に浮かんだ。水気をきれいに拭き取られ、蓋を少しずらして立てかけられた、七つの樋箱。
 あの干し方は、この歌のとおりだったのだ。仕事に不慣れな妹が手順を覚えられるように、姉がこしらえた数え歌なのだろう。

  いつつ 妹 寝てるうち

 歌が、そこで少し揺れた。

  むっつ 向こうが 白むころ

 ななつめは、歌われなかった。歌はまた、ひとつめに戻っていった。
 かぐやが小さく鳴いた。春の梅壺で誰もいない床に向かって鳴いていたのと、同じ声だった。
 生きている妹の体を、死んだ姉が動かしている。
 私は干し棚の陰から立ち上がった。昴の手が袖をつかんだが、振り払った。
「いと」
 呼びかけると、歌がやんだ。
 まつが――まつの体が、ゆっくりとこちらを振り向いた。目は閉じたままだった。それでも、私を見ているのがわかった。
 まつの顔だった。けれど、その表情は十二の子のものではなかった。眉の下げ方も、口もとのゆるめ方も、もっと年かさの、誰かの世話を焼くことに慣れきった娘のものだった。
「新入りの子?」
 まつの声で、いとが言った。
「ここは、いいよ。あたしがやっとくから」
 閉じた目のまま、いとは小さく笑った。
「まつには、内緒ね。あの子、気にするから。……あの子が寝てるうちに、終わらせなきゃ」
 そうしてまた盥のほうへ向き直り、藁を握った。
 私はその場に立ち尽くした。
 いとは、知らないのだ。
 自分が死んだことを。自分がいま、誰の手で、誰の分を洗っているのかを。
 誰も、知らせなかったのだから。内裏に弔いはない。弔われない死者に、その死を告げる者はいない。帳面の上で里へ下がった娘は、自分でもまだ死んでいないつもりでいる。
「自分が死んだと知らない者は、打橋も渡れない」
 昴が低く言った。
「向こうへ行くこともできずに、こちら側で、生きていたころと同じことを繰り返す」
「このままじゃ、あの子の体がもたんぞ」
 猛の声が震えていた。
 わかっている。
 姉の手は、毎晩、妹の手を削っている。生きていたころ、いとが自分の体を削ったのと、まったく同じやり方で。
 井戸端で、まつの体がまたあの歌を口ずさみはじめた。

  いつつ 妹 寝てるうち

 この後宮では、誰も死なない。
 死んだ本人でさえ、そのことを知らされないのだから。