有明の数え歌 ―泣かない妹と、眠らない姉―

 昼近く、乾いた樋箱を殿舎へ返しに回った。
 まつの分も私が提げることになった。あの子に持たせたら、廊のまんなかで樋箱を抱いたまま寝ちまうよ、と刀自が言ったのだ。
 まつの持ち場で最後に回る殿舎は後宮の北東の隅にあって、葎壺と呼ばれていた。坪庭に葎がはびこって、手入れをする者もいないからだという。伸び放題の葎の隙間で、盛りを過ぎた萩がこぼれた花を足もとに散らしたまま頭を垂れていた。
 主上のおわす清涼殿から、後宮じゅうでいちばん遠い殿舎である。御寵愛の深さは清涼殿までの道のりで測るのだと、刀自は言っていた。その物差しでいけば、ここに住まう更衣さまにはいちばん浅い御寵愛しか届かないことになる。
 北廂の板敷きに樋箱を置き、柱になる支度をして後ずさったときだった。
「ねえ」
 御簾の内から声がかかった。
 私は柱になった。息を止めた。柱は息をしない。
「ねえ、あなた。新しい樋洗の子でしょう。そこから見ていたのよ」
 御簾が内側から勢いよく撥ね上げられた。
 顔を出したのは、私と同じ年頃の娘だった。丸い頬に、丸い目。髪だけはさすがに長く艶やかだが、口の端に何か甘いものの粉がついている。
 まさか、と思った。御簾を自分の手で撥ね上げて、樋洗に声をかける更衣さまがいるものだろうか。
「柱さん、柱さん」
 更衣さまは私の背中に向かって呼びかけた。
「柱になってるのは知ってるわ。でも、お願い。少しだけ、人に戻ってくれない?」
「千種さま、御簾を……!」
 奥から慌てた声が追いかけてきた。几帳の陰から転がり出てきた女官が、私の顔を見て目をまん丸にした。
「……露?」
 小萩だった。丸い頬は相変わらずだが、目のふちはもう赤くなかった。
 柱は観念して、人に戻った。
 梅壺の女房たちは主を亡くしたあと、ちりぢりになったのだという。死んだお妃さまに仕えていた者は縁起が悪いと言われて、どの御殿も引き取りたがらなかった。
「千種さまだけが、うちにおいでって言ってくださったの」
 小萩がそう言うと、更衣さまは照れくさそうに粉のついた口をとがらせた。
「だって、人手が足りなかったんだもの」
 更衣さまは千種と名乗った。
「それで、小萩のお知り合い?」
「昴さまが、毎日椿餅を届けていらした方です」
「まあ!」
 千種さまの目がぱっと輝いた。白玉の名前は葎壺のような北の隅にまで、ちゃんと届いているらしい。
「それなら話が早いわ。……四晩続けてなのよ」
 千種さまは声をひそめた。ひそめたつもりなのだろうが、よく通る声だった。
「夜中にね、目が覚めて……その、樋箱を使おうとしたら」
「はい」
「ないの」
「…………」
「ないのよ、樋箱が!」
 千種さまは両手で顔を覆った。耳まで赤い。
「女房たちは、死んだ樋洗の幽霊の仕業だって、そればっかり。御祈祷のお坊さまにも来ていただいたけど、お経の途中で舟を漕いでいらしたわ。幽霊より先に、お坊さまのほうが成仏なさるんじゃないかと思った」
「それは、ご愁傷さまで」
「それにね、歌が聞こえるの」
「歌」
「井戸のほうから。とてもきれいな、優しい節で……こう」
 千種さまは目を閉じて、小さく口ずさんだ。言葉のない、ゆるやかな節だった。子守歌のようでもあり、指を折って何かを数えているようでもあった。
 聞いたことのない歌だった。なのに胸の底で、一度も開けたことのない引き出しが、かたりと鳴った気がした。
「ねえ、お願い。今夜、見張っていてくれない? 怖くて眠れないの。眠れないと、お腹がすくの。お腹がすくと、夜中に唐菓子を食べてしまうの。そうすると、その……樋箱が要るの」
「わかります」
 思わず、深くうなずいていた。泣き女をしていれば人の悩みは百も聞くが、ここまで身につまされる堂々めぐりは初めてだった。
「見張りは、ひと晩十文になります」
 口が勝手に答えていた。叔母の品書きはこういうときにも口をつく。千種さまはきょとんとした。
「幽霊の見張りは、別料金になっておりますので」
「お金は、ないの」
 あっさりと言われた。
「父は筑紫の小さな国の守でね。わたしを後宮に上げるのに、蔵を空にしてしまったの。主上には、まだ一度もお目にかかったことがないけれど」
「主上は、梅の方が亡くなられてから、どなたのところにもお渡りにならないんです」
 小萩が小さな声で言い添えた。
「だから、わたしの番は当分まわってこないの」
 千種さまはさらりと言って、懐から紙の包みを取り出した。
「そのかわり、これ」
 包みの中には唐菓子が三つ入っていた。小麦の生地をねじって油で揚げた、掌ほどの菓子だ。ほんのりと甘い、胡麻の油の匂いがした。
 三つで十文には、少し足りない。けれどその匂いを嗅いだとたん、今朝の強飯ひと握りがどこへ消えたのか、私より先に私の腹が思い出した。
「……謹んで、お受けいたします」
「ありがとう!」
 千種さまが、いきなり抱きついてきた。
 私の体が石のように固まった。
 私はゆうべ、ひと晩じゅう死人の隣に座っていたのだ。髪にも袖にも、まだ喪屋の丁子が染みついている。死穢は三十日。触れた者から、触れた者へと移る。
 この方はいま、三十日ぶんの穢れを力いっぱい抱きしめている。
 ――いや。帳面の上では、あの子は死んでいない。死んでいない者から、穢れは生じない。
 便利な言葉はこういうときにも便利だった。少しもありがたくはなかったけれど。
「こ、更衣さま。いけません。樋洗に、お手を触れては」
「どうして?」
 千種さまは私の肩口で首をかしげた。
「樋洗だって、人でしょう」
 私は何か言おうとして、何も言えなかった。泣き女は、どんな場面にも台詞を持っている。持っていないのは、こういうときの台詞だけだ。
 千種さまの肩越しに、小萩が困ったように笑っていた。
 抱きしめてくる腕は、揚げたての唐菓子みたいにあたたかかった。