喪屋の夜は、それきり何事もなく明けた。
昴は「典侍さまに知らせてくる」と言い残して出ていったきり、戻らなかった。猛は戸口の外で塩の壺を抱いたまま舟を漕いでいた。
私は灯台の油が尽きるまで、いとのそばに座っていた。死人の顔を覚えるのは、泣き女の癖だ。雇われて泣く相手の顔くらいは覚えておけ、と叔母は言う。もっとも、この子のために私はまだ一文ぶんも泣いていない。
――まつ。
あの唇のかたちが明け方まで瞼の裏から離れなかった。
寅の刻が近づいたころ、いつの間にか膝の上から消えていたかぐやが戸口の外で小さく鳴いた。抱き上げると、口のまわりからふっと甘い香りがした。丁子ではない。もっと深く、どこまでも沈んでいくような、上等な香木の匂いだった。こんな高い香りを、この猫はいったいどこで嗅いできたのだろう。
私はいとに頭を下げて喪屋を出た。
樋洗の曹司は喪屋と同じく、北の築地にへばりつくようにして建っていた。どうやらこの後宮では、見たくないものはみな北の隅へ寄せられるらしい。死人も、御まるも、それを洗う者も。
細長い板葺きの小屋で、中は灰汁と古い水の匂いがした。
「あんたが新入りかい」
戸口に仁王立ちしていたのは、六十をとうに越えていそうな女だった。腰はすっかり曲がっているのに、声だけは腹の底から出ている。樋洗を束ねる刀自で、名を乙女という。長年の務めのあいだに、名前のほうだけが若いまま取り残されてしまったらしい。
乙女刀自は私の頭から足の先までをじろりと眺め、それから鼻をひくつかせた。
「……あんた、妙な匂いがするね」
背中がひやりとした。喪屋の丁子だ。ひと晩じゅう死人のそばにいたのだから、髪にも着物にも染みついている。
「丁子です。上がる前に、香を少々」
「樋洗が香なんか焚いて、どうするんだい」
「御まるに負けないように」
刀自はしばらく黙って私を見ていた。皺に埋もれた小さな目が何かを量るように細くなる。やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあいい。余計な口をきかない子のほうが、ここじゃ長持ちするよ」
それきり、匂いのことは二度と口にしなかった。
樋洗の決まりは、ひとつきりだった。
「樋洗は、見えてはならない」
夜が明けきる前に、殿舎の北廂から樋箱を引き取る。女房がたが起き出す前に洗い、乾かし、昼までに元の場所へ戻しておく。万一、廊で誰かと行き合ったら、すぐさま背を向けて立ち止まり、柱になる。
「柱、ですか」
「柱さ。息もするんじゃないよ。柱は息をしないからね」
これなら得意だ。泣き女は泣くより先に、黙って立っていることを仕込まれる。
持ち場の割り振りで、刀自は私の顔も見ずに言った。
「あんたは、いとの持ち場をやっとくれ」
その名が出たとたん、土間の隅で小さな影がびくりと跳ねた。
十二、三の娘だった。ほかの樋洗たちより頭ひとつ小さく、着ているものは明らかに誰かのお下がりで、袖を二重に折り返している。目の下にくっきりと隈が浮いていた。
「姉さんの持ち場、取らないで」
細いが、はっきりとした声だった。
「姉さんは、すぐ戻ってくるんだから」
「まつ」
刀自が低くたしなめた。
まつ。
私は、その小さな娘を見た。待つ、ではなかったのだ。あれは、妹の名だった。
「いとは里へ下がったんだよ。病でね。戻るかどうかなんて、わかりゃしない」
「戻ってくる」
まつは刀自をまっすぐに睨み返した。
「姉さんが、あたしに黙っていなくなるはずないもん」
私は何も言わなかった。言えることが、何ひとつなかった。
そういうことを言う子どもを、私はひとり知っている。十二年前に、ひとり。
まだ星の残る空の下を、樋箱を提げて歩いた。素足に触れる土は夜の冷たさをたっぷりと吸いこんでいる。空の高いところに、半分に欠けた月が白く残っていた。
殿舎の裏手は、表とはまるで別の国だった。表の廊には磨きこまれた板が敷かれ、几帳の向こうから薫物の香りがこぼれてくる。裏の細い道には、ぬかるみと落ち葉と、私たちの足音しかない。
樋箱は思ったより重かった。そして思ったよりも、いい匂いがした。
「丁子だよ」
前を歩く刀自が振り向きもせずに言った。
「女房がたは、樋箱にまで丁子を入れなさる。昔、さる色好みの殿方が、つれない女房の樋箱を盗み出してね。中を見て思い切ろうとしたんだそうな。ところが蓋を開けたら丁子の香りがぷんとして、ますます恋しくなっちまったんだと」
後ろの樋洗たちがくすくすと笑った。
「この後宮じゃあね、御まるの中身まで、丁子の香りがすることになってるのさ」
私は笑えなかった。
喪屋の、あの香りを思い出していた。死人の匂いを、上から塗り隠すような丁子の香り。この後宮では、汚れたものは見えないところへ運ばれ、それでも残るものには丁子が振りかけられる。
洗い場は北の井戸のそばにあった。
石を敷いた狭い土間に、水を張った大盥がいくつか並んでいる。その奥の干し棚の前で、先に着いた樋洗たちが身を寄せ合い、立ち尽くしていた。
「……また、洗ってある」
誰かがかすれた声で言った。
干し棚に洗い終えた樋箱が並んでいた。
近づいて、数えた。七つ。どれも水気をきれいに拭き取られ、蓋は少しずらして立てかけてあり、箱は板切れの上に斜めに伏せてある。七つの樋箱が昇りかけた日のほうへ、行儀よく顔をそろえていた。
「後宮じゅうの樋箱が、ってわけじゃないんですね」
隣の樋洗に訊くと、そばかすの浮いたその娘はちらりと刀自のほうをうかがってから、声をひそめた。
「北の端の、三つの殿舎の分だけ。……まつの持ち場」
「この干し方は」
「いとちゃんの干し方」
言ってしまってから、娘ははっとして口を押さえた。
噂というものは、たいてい話を大きくする。女房がたの耳に届くころには、七つの樋箱が後宮じゅうの樋箱になる。けれど本当のことは、いつも小さくて、具体的だ。
七つ。まつの持ち場。いとの干し方。
まつは干し棚の前に立って、七つの樋箱を見つめていた。顔から血の気が引いている。
「姉さんだ」
唇が震えていた。
「姉さんが、やってくれたんだ。姉さんは、まだどこかにいるんだ」
それから、仕事が始まった。
私はいとの持ち場の樋箱を盥に沈め、灰汁をつけた藁で黙々とこすった。ほかの者の手つきを横目で盗みながら、見よう見まねで。泣き女は、もともと人の真似で食べている商売だ。
ふと見ると、まつが自分のではない樋箱を洗っていた。持ち場の七つは洗い終わっているから、手が空いたところを刀自に見咎められ、ほかの者の分を回されたらしい。
その手を見て、私は息を呑んだ。
小さな手だった。その指の節という節が赤く裂けていた。爪のまわりはささくれ、ところどころに血がにじんでいる。
ゆうべ喪屋で見た、いとの手と同じだった。いや、もっとひどい。
おかしい、と思った。まつの持ち場はこの四日、毎晩誰かが洗ってくれているのだ。ここにいる誰よりも、水に触れていないはずの手だった。
「まつ!」
刀自の声が飛んだ。まつは樋箱を抱えて立ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいた。
「まったく、この子は近ごろ、昼間でも寝てばかりだよ」
刀自がこぼすと、まつはびくりと目を開け、また黙々と手を動かしはじめた。
樋洗の朝餉は強飯がひと握りに、塩がひとつまみだった。春の女孺のころより、さらに一段つつましい。出世の階段は、下りるほど飯が減るらしい。
昴は「典侍さまに知らせてくる」と言い残して出ていったきり、戻らなかった。猛は戸口の外で塩の壺を抱いたまま舟を漕いでいた。
私は灯台の油が尽きるまで、いとのそばに座っていた。死人の顔を覚えるのは、泣き女の癖だ。雇われて泣く相手の顔くらいは覚えておけ、と叔母は言う。もっとも、この子のために私はまだ一文ぶんも泣いていない。
――まつ。
あの唇のかたちが明け方まで瞼の裏から離れなかった。
寅の刻が近づいたころ、いつの間にか膝の上から消えていたかぐやが戸口の外で小さく鳴いた。抱き上げると、口のまわりからふっと甘い香りがした。丁子ではない。もっと深く、どこまでも沈んでいくような、上等な香木の匂いだった。こんな高い香りを、この猫はいったいどこで嗅いできたのだろう。
私はいとに頭を下げて喪屋を出た。
樋洗の曹司は喪屋と同じく、北の築地にへばりつくようにして建っていた。どうやらこの後宮では、見たくないものはみな北の隅へ寄せられるらしい。死人も、御まるも、それを洗う者も。
細長い板葺きの小屋で、中は灰汁と古い水の匂いがした。
「あんたが新入りかい」
戸口に仁王立ちしていたのは、六十をとうに越えていそうな女だった。腰はすっかり曲がっているのに、声だけは腹の底から出ている。樋洗を束ねる刀自で、名を乙女という。長年の務めのあいだに、名前のほうだけが若いまま取り残されてしまったらしい。
乙女刀自は私の頭から足の先までをじろりと眺め、それから鼻をひくつかせた。
「……あんた、妙な匂いがするね」
背中がひやりとした。喪屋の丁子だ。ひと晩じゅう死人のそばにいたのだから、髪にも着物にも染みついている。
「丁子です。上がる前に、香を少々」
「樋洗が香なんか焚いて、どうするんだい」
「御まるに負けないように」
刀自はしばらく黙って私を見ていた。皺に埋もれた小さな目が何かを量るように細くなる。やがて、ふん、と鼻を鳴らした。
「まあいい。余計な口をきかない子のほうが、ここじゃ長持ちするよ」
それきり、匂いのことは二度と口にしなかった。
樋洗の決まりは、ひとつきりだった。
「樋洗は、見えてはならない」
夜が明けきる前に、殿舎の北廂から樋箱を引き取る。女房がたが起き出す前に洗い、乾かし、昼までに元の場所へ戻しておく。万一、廊で誰かと行き合ったら、すぐさま背を向けて立ち止まり、柱になる。
「柱、ですか」
「柱さ。息もするんじゃないよ。柱は息をしないからね」
これなら得意だ。泣き女は泣くより先に、黙って立っていることを仕込まれる。
持ち場の割り振りで、刀自は私の顔も見ずに言った。
「あんたは、いとの持ち場をやっとくれ」
その名が出たとたん、土間の隅で小さな影がびくりと跳ねた。
十二、三の娘だった。ほかの樋洗たちより頭ひとつ小さく、着ているものは明らかに誰かのお下がりで、袖を二重に折り返している。目の下にくっきりと隈が浮いていた。
「姉さんの持ち場、取らないで」
細いが、はっきりとした声だった。
「姉さんは、すぐ戻ってくるんだから」
「まつ」
刀自が低くたしなめた。
まつ。
私は、その小さな娘を見た。待つ、ではなかったのだ。あれは、妹の名だった。
「いとは里へ下がったんだよ。病でね。戻るかどうかなんて、わかりゃしない」
「戻ってくる」
まつは刀自をまっすぐに睨み返した。
「姉さんが、あたしに黙っていなくなるはずないもん」
私は何も言わなかった。言えることが、何ひとつなかった。
そういうことを言う子どもを、私はひとり知っている。十二年前に、ひとり。
まだ星の残る空の下を、樋箱を提げて歩いた。素足に触れる土は夜の冷たさをたっぷりと吸いこんでいる。空の高いところに、半分に欠けた月が白く残っていた。
殿舎の裏手は、表とはまるで別の国だった。表の廊には磨きこまれた板が敷かれ、几帳の向こうから薫物の香りがこぼれてくる。裏の細い道には、ぬかるみと落ち葉と、私たちの足音しかない。
樋箱は思ったより重かった。そして思ったよりも、いい匂いがした。
「丁子だよ」
前を歩く刀自が振り向きもせずに言った。
「女房がたは、樋箱にまで丁子を入れなさる。昔、さる色好みの殿方が、つれない女房の樋箱を盗み出してね。中を見て思い切ろうとしたんだそうな。ところが蓋を開けたら丁子の香りがぷんとして、ますます恋しくなっちまったんだと」
後ろの樋洗たちがくすくすと笑った。
「この後宮じゃあね、御まるの中身まで、丁子の香りがすることになってるのさ」
私は笑えなかった。
喪屋の、あの香りを思い出していた。死人の匂いを、上から塗り隠すような丁子の香り。この後宮では、汚れたものは見えないところへ運ばれ、それでも残るものには丁子が振りかけられる。
洗い場は北の井戸のそばにあった。
石を敷いた狭い土間に、水を張った大盥がいくつか並んでいる。その奥の干し棚の前で、先に着いた樋洗たちが身を寄せ合い、立ち尽くしていた。
「……また、洗ってある」
誰かがかすれた声で言った。
干し棚に洗い終えた樋箱が並んでいた。
近づいて、数えた。七つ。どれも水気をきれいに拭き取られ、蓋は少しずらして立てかけてあり、箱は板切れの上に斜めに伏せてある。七つの樋箱が昇りかけた日のほうへ、行儀よく顔をそろえていた。
「後宮じゅうの樋箱が、ってわけじゃないんですね」
隣の樋洗に訊くと、そばかすの浮いたその娘はちらりと刀自のほうをうかがってから、声をひそめた。
「北の端の、三つの殿舎の分だけ。……まつの持ち場」
「この干し方は」
「いとちゃんの干し方」
言ってしまってから、娘ははっとして口を押さえた。
噂というものは、たいてい話を大きくする。女房がたの耳に届くころには、七つの樋箱が後宮じゅうの樋箱になる。けれど本当のことは、いつも小さくて、具体的だ。
七つ。まつの持ち場。いとの干し方。
まつは干し棚の前に立って、七つの樋箱を見つめていた。顔から血の気が引いている。
「姉さんだ」
唇が震えていた。
「姉さんが、やってくれたんだ。姉さんは、まだどこかにいるんだ」
それから、仕事が始まった。
私はいとの持ち場の樋箱を盥に沈め、灰汁をつけた藁で黙々とこすった。ほかの者の手つきを横目で盗みながら、見よう見まねで。泣き女は、もともと人の真似で食べている商売だ。
ふと見ると、まつが自分のではない樋箱を洗っていた。持ち場の七つは洗い終わっているから、手が空いたところを刀自に見咎められ、ほかの者の分を回されたらしい。
その手を見て、私は息を呑んだ。
小さな手だった。その指の節という節が赤く裂けていた。爪のまわりはささくれ、ところどころに血がにじんでいる。
ゆうべ喪屋で見た、いとの手と同じだった。いや、もっとひどい。
おかしい、と思った。まつの持ち場はこの四日、毎晩誰かが洗ってくれているのだ。ここにいる誰よりも、水に触れていないはずの手だった。
「まつ!」
刀自の声が飛んだ。まつは樋箱を抱えて立ったまま、うつらうつらと舟を漕いでいた。
「まったく、この子は近ごろ、昼間でも寝てばかりだよ」
刀自がこぼすと、まつはびくりと目を開け、また黙々と手を動かしはじめた。
樋洗の朝餉は強飯がひと握りに、塩がひとつまみだった。春の女孺のころより、さらに一段つつましい。出世の階段は、下りるほど飯が減るらしい。

