牛車の中は薫物の香りでむせかえるようだった。揺られながら典侍は、内裏のしきたりをひとつずつ指を折るようにして語った。
内裏で死んではならない。
人の死は穢れであり、死穢は三十日。穢れは触れた者から触れた者へと移り、ひとたび主上の御身に及べば、神事も祭りもことごとく止まる。ゆえに病んで死期の迫った者は、息のあるうちに内裏の外へ下げられる。
「それでも、間に合わないことはありましょう」
「ございます」
「そのときは」
「そのときは、その者は死にません」
典侍は書を読み上げるように言った。
「書の上では、里下がりと記されます。病により里下がり。親の喪により里下がり。そう記された者は、内裏で死んだことにはなりません。死んでいない者から、穢れは生じません」
里下がり。その言葉を、私は知っていた。
春の梅壺で聞いた。それより前にも、一度。
十二年前、母について聞かされた言葉だ。――里下がりの後、行方知れず。
「へえ」
と、私は言った。
「便利な言葉ですね」
典侍は何も答えなかった。車輪が石を噛んで、ごとりと鳴った。
「では、この内裏では、どなたも死なないと」
「この内裏で死ぬことを許されている方は、どなたもいらっしゃいません」
典侍は物見の窓の外へ目をやった。築地の向こうに大内裏の屋根が黒々と連なっている。
「主上も、例外ではなく」
その横顔からは何も読み取れなかった。
「梅壺の件は、頭中将さまから伺いました。陰陽寮の見習いと泣き女が、更衣さまを鎮めたと」
「鎮めたんじゃありません。届けただけです。届かなかった文を」
典侍は、はじめて私の顔をまっすぐに見た。
「それができる者を、私どもは長く待っておりました」
表向き、私は樋洗として勤めることになるという。
「ひすまし」
「樋箱を洗うお役です」
樋箱。つまり、御まるである。米三石の中身が少しずつ見えてきた。
「お務めは夜です。喪屋で、死んでいない者たちのそばにいていただきます」
「死んでいない者たち」
「遊部は本来、生涯ほかの務めを免じられた家筋です。幽顕の境を隔て、荒ぶる魂を鎮める。そのほかには何もしない。ゆえに、遊部と申します。樋洗は隠れ蓑です。後宮で、樋洗の顔を見る者はおりませんから」
春には女孺として、藤壺の女房に顔を覚えられて往生した。今度は樋洗。出世の階段を、下りるほうへ一段ずつ下りている。
一生遊んで暮らせるはずの家筋の末裔が、昼は御まる洗い、夜は死人の添い寝。ご先祖さまに合わせる顔がない。
牛車は内裏の北の門の外でとまり、そこから先は歩いた。
夜の後宮は春に来たときよりもずっと静かだった。渡殿の釣灯籠がところどころに灯っているだけで、檜皮葺の屋根はみな月の出を待つ闇の中で黙りこくっている。何百という女たちが眠っているはずなのに、寝息ひとつ聞こえてこない。清らかというより、息を殺している、という感じがした。
影のようについてきていたかぐやが、ふと足を止めた。金色の目を南へ向けて、ひげを震わせている。
「南は、清涼殿です」
典侍が低く言った。
「その猫を、決してあちらへやらぬように」
主上のお住まいに猫がうろついては畏れ多い、ということだろう。それとも梅の方の猫だから、主上のおそばが懐かしいのか。台盤所で夜食の鮎でも焼いているのかもしれない。
喪屋は後宮の北の外れに、築地塀に背を預けるようにして建っていた。
板を張り合わせただけの粗末な小屋だ。灯籠の明かりもここだけは避けて通るのか、小屋のまわりだけがひときわ暗い。
「今宵から、ここがあなたのお務めの場です」
典侍は紙燭を私に手渡すと、衣擦れの音だけを残して闇の中へ戻っていった。
猛は戸口の三歩手前でぴたりと足を止めた。
「俺はここで番をする。中には入らんぞ」
「怖いの?」
「穢れたら三十日、内裏に上がれん。上がれなきゃ、詰所の屯食が食えん」
「そっち?」
「そっちだ」
猛は大真面目な顔でうなずいた。かぐやはいつのまにか姿を消していた。
戸を引くと、冷えた空気が頬を撫でた。
土間の四隅に盛り塩の皿が置かれている。灯台の火がひとつ。その明かりが届くぎりぎりのところに、白い布をかけられたものが横たわっていた。
丁子の香りがした。何か別の匂いを、上から塗り隠すような香りだった。
私は戸を閉め、紙燭を置いて、布のそばに膝をついた。
「失礼いたします」
死人に挨拶をするのは、叔母に叩きこまれた作法だ。生きている客にはいくら盛った声を聞かせてもいい。けれど死人にだけは、礼を欠くな。嘘をつくな。
袖を手にかぶせて、袖ごしに布をめくる。
娘だった。十五か、十六か。私とそう変わらない。頬はこけ、唇の色はとうに抜けていたが、眠っているようにも見えた。胸の上で組まされた手に、目が行った。指の節という節が赤くひび割れ、爪のまわりがささくれ立っている。まだ冬でもないのに、水仕事で荒れきった手だった。
働き者の手だ、と思った。
襟もとに茶色い染みが散っていた。何かが点々と飛んで、そのまま乾いたような染みだった。
「悪いけど」
声は思ったより小屋の中に響いた。
「あんたのためには、泣いてあげられないの。声なら十文でいくらでも出してあげるけど、それは嘘の泣き方だから。……死んだ人には、嘘をつかないって決めてるの」
素手で触れれば、本物の涙も出せる。この子の最後の気持ちごと。けれどそれは、この子のものだ。断りもなく借りていいものじゃない。
ごめんね、と付け足した。娘はもちろん、何も答えなかった。
背後で、戸が鳴った。
振り向いた顔に、何かがばらばらとぶつかってきた。目に入る。しみる。唇の端がしょっぱい。
塩だった。
「すまん。清めだ」
戸の隙間から、猛の太い腕が引っこんでいくところだった。
「……中には入らないんじゃなかったの」
「腕しか入れとらん」
腕は穢れないのか。聞こうとしてやめた。猛の理屈はいつも腹の都合で決まっている。
その猛の肩越しに、白い顔がのぞいていた。
灯台の明かりを受けた顔は、ゆでたての白玉のように白く、整っている。その白玉が、半月見ないうちに少しだけ痩せたように見えた。
昴は猛の脇をすり抜けて、ためらいもなく喪屋に入ってきた。
「……来たのか」
「来たわよ。米三石で」
「典侍さまには、やめてほしいと申し上げた」
思いがけない言葉だった。
「なんで」
昴は少しだけ目をそらした。
「あなたは、すぐ素手で触るから」
「触ってない。ほら」
私は手にかぶせた袖をひらひらと振ってみせた。昴はほんのわずかに息をついた。安心したのか、呆れたのか。白玉の顔は相変わらず読みにくい。
昴は懐から綴じた紙を取り出し、一枚めくった。典侍から預かった写しだという。読み上げる声にはなんの抑揚もなかった。
「樋洗、いと。年十五。長月二十日、病により里下がり」
「里下がりした子が、どうして喪屋で寝てるの」
「表の帳面には、そう書かれている。帳面の上では、この者は里へ下がった」
「じゃあ、ここにいるのは」
昴は布の下の娘に目をやった。ほんの一瞬、何かを言いかけて、呑みこんだように見えた。
「……帳面にない、誰かだ」
それから昴は、三日前から起きているという妙なことを話した。
夜明けになると、後宮じゅうの樋箱が洗われている。樋洗たちが起き出すより先にだ。丑の刻ごろ、井戸で水を汲む音を聞いた者がいる。歌を聞いたという者もいる。女房たちは怯えきって、ゆうべは祈祷の僧まで呼んだが、止まらなかった。
「つまり」
「死んだ樋洗が、まだ働いている」
私は娘のひび割れた手を見た。
「……死んでまで、御まる洗いとは」
我知らず、ため息がもれた。
「同業として、頭が下がります」
「あなたは、まだひとつも洗っていない」
「明日から洗うの」
そのときだった。
戸の隙間から、白いものがするりと入ってきた。
かぐやだ。どこをほっつき歩いていたのか、口のまわりの毛がしっとりと濡れている。
「猫!」
昴の声が裏返った。白玉が声を裏返すのを、私ははじめて聞いた。
「死人に猫を近づけるな、またがせるな!」
遅かった。
かぐやは私の膝を踏み台にして、ひらりと跳んだ。娘の亡骸の上を白い影が弧を描いて越えていく。
娘が、起き上がった。
白い布が胸から滑り落ちる。
灯台の炎が横ざまに倒れた。風など、どこからも吹いていないのに。
半ば開いた目は白く濁って、何も映していない。その喉の奥で、ごぼ、と湿った音がした。娘は背を丸めて咳きこみ、袖で口を覆った。二度、三度。咳がおさまると、口から離した袖をじっと見つめた。
それから、その袖を急いで膝の下へ押しこんだ。
誰にも見られまいとするように。
次に、娘の手が動きはじめた。何もない宙で、布を絞る。こする。すすぐ。また絞る。ひび割れた指が慣れきった手つきで、そこにはない樋箱を洗っている。速い。無駄がない。一刻でも早く、ひとつでも多く終わらせようとする手だった。
やがて、その手がぴたりと止まった。
娘はゆっくりと首をめぐらせ、戸口のほうを――その向こうの、どこかを見た。
色のない唇がかすかに動いた。
「……まつ」
糸が切れたように、娘の体が板の上に倒れた。
灯台の炎が何事もなかったように、すっと真っ直ぐに立ち直った。
しばらく、誰も口をきかなかった。
かぐやが何食わぬ顔で私の膝に戻ってきて、前足を舐めはじめた。私の指先は小さく震えていた。
「まつ……」
私は娘が見ていた戸口の先へ目をやった。
「待つ、ってこと? 何を待てっていうの」
春の梅壺にも、待っている人がいた。月のない夜に来ない人を待ちつづけて、そのまま冷たくなった人。この後宮には、待ったまま死ぬ人しかいないのだろうか。
昴は答えなかった。
かわりに、戸の外で妙な音がした。ずっ、と洟をすする音だった。
戸の隙間から、猛の大きな背中が見えた。肩が小刻みに揺れている。
「……何してるの」
「なんでもない」
くぐもった声だった。
「塩が、目に入っただけだ」
「自分で撒いた塩でしょ」
「風で戻ってきたんだ」
風は、少しも吹いていなかった。
私は隣の昴を見た。白い横顔は、いつもどおりに乾いていた。
泣ける男は、塩のせいにして泣く。泣かない男は、何のせいにもしないで泣かない。どちらが厄介なのか、私にはまだわからなかった。
内裏で死んではならない。
人の死は穢れであり、死穢は三十日。穢れは触れた者から触れた者へと移り、ひとたび主上の御身に及べば、神事も祭りもことごとく止まる。ゆえに病んで死期の迫った者は、息のあるうちに内裏の外へ下げられる。
「それでも、間に合わないことはありましょう」
「ございます」
「そのときは」
「そのときは、その者は死にません」
典侍は書を読み上げるように言った。
「書の上では、里下がりと記されます。病により里下がり。親の喪により里下がり。そう記された者は、内裏で死んだことにはなりません。死んでいない者から、穢れは生じません」
里下がり。その言葉を、私は知っていた。
春の梅壺で聞いた。それより前にも、一度。
十二年前、母について聞かされた言葉だ。――里下がりの後、行方知れず。
「へえ」
と、私は言った。
「便利な言葉ですね」
典侍は何も答えなかった。車輪が石を噛んで、ごとりと鳴った。
「では、この内裏では、どなたも死なないと」
「この内裏で死ぬことを許されている方は、どなたもいらっしゃいません」
典侍は物見の窓の外へ目をやった。築地の向こうに大内裏の屋根が黒々と連なっている。
「主上も、例外ではなく」
その横顔からは何も読み取れなかった。
「梅壺の件は、頭中将さまから伺いました。陰陽寮の見習いと泣き女が、更衣さまを鎮めたと」
「鎮めたんじゃありません。届けただけです。届かなかった文を」
典侍は、はじめて私の顔をまっすぐに見た。
「それができる者を、私どもは長く待っておりました」
表向き、私は樋洗として勤めることになるという。
「ひすまし」
「樋箱を洗うお役です」
樋箱。つまり、御まるである。米三石の中身が少しずつ見えてきた。
「お務めは夜です。喪屋で、死んでいない者たちのそばにいていただきます」
「死んでいない者たち」
「遊部は本来、生涯ほかの務めを免じられた家筋です。幽顕の境を隔て、荒ぶる魂を鎮める。そのほかには何もしない。ゆえに、遊部と申します。樋洗は隠れ蓑です。後宮で、樋洗の顔を見る者はおりませんから」
春には女孺として、藤壺の女房に顔を覚えられて往生した。今度は樋洗。出世の階段を、下りるほうへ一段ずつ下りている。
一生遊んで暮らせるはずの家筋の末裔が、昼は御まる洗い、夜は死人の添い寝。ご先祖さまに合わせる顔がない。
牛車は内裏の北の門の外でとまり、そこから先は歩いた。
夜の後宮は春に来たときよりもずっと静かだった。渡殿の釣灯籠がところどころに灯っているだけで、檜皮葺の屋根はみな月の出を待つ闇の中で黙りこくっている。何百という女たちが眠っているはずなのに、寝息ひとつ聞こえてこない。清らかというより、息を殺している、という感じがした。
影のようについてきていたかぐやが、ふと足を止めた。金色の目を南へ向けて、ひげを震わせている。
「南は、清涼殿です」
典侍が低く言った。
「その猫を、決してあちらへやらぬように」
主上のお住まいに猫がうろついては畏れ多い、ということだろう。それとも梅の方の猫だから、主上のおそばが懐かしいのか。台盤所で夜食の鮎でも焼いているのかもしれない。
喪屋は後宮の北の外れに、築地塀に背を預けるようにして建っていた。
板を張り合わせただけの粗末な小屋だ。灯籠の明かりもここだけは避けて通るのか、小屋のまわりだけがひときわ暗い。
「今宵から、ここがあなたのお務めの場です」
典侍は紙燭を私に手渡すと、衣擦れの音だけを残して闇の中へ戻っていった。
猛は戸口の三歩手前でぴたりと足を止めた。
「俺はここで番をする。中には入らんぞ」
「怖いの?」
「穢れたら三十日、内裏に上がれん。上がれなきゃ、詰所の屯食が食えん」
「そっち?」
「そっちだ」
猛は大真面目な顔でうなずいた。かぐやはいつのまにか姿を消していた。
戸を引くと、冷えた空気が頬を撫でた。
土間の四隅に盛り塩の皿が置かれている。灯台の火がひとつ。その明かりが届くぎりぎりのところに、白い布をかけられたものが横たわっていた。
丁子の香りがした。何か別の匂いを、上から塗り隠すような香りだった。
私は戸を閉め、紙燭を置いて、布のそばに膝をついた。
「失礼いたします」
死人に挨拶をするのは、叔母に叩きこまれた作法だ。生きている客にはいくら盛った声を聞かせてもいい。けれど死人にだけは、礼を欠くな。嘘をつくな。
袖を手にかぶせて、袖ごしに布をめくる。
娘だった。十五か、十六か。私とそう変わらない。頬はこけ、唇の色はとうに抜けていたが、眠っているようにも見えた。胸の上で組まされた手に、目が行った。指の節という節が赤くひび割れ、爪のまわりがささくれ立っている。まだ冬でもないのに、水仕事で荒れきった手だった。
働き者の手だ、と思った。
襟もとに茶色い染みが散っていた。何かが点々と飛んで、そのまま乾いたような染みだった。
「悪いけど」
声は思ったより小屋の中に響いた。
「あんたのためには、泣いてあげられないの。声なら十文でいくらでも出してあげるけど、それは嘘の泣き方だから。……死んだ人には、嘘をつかないって決めてるの」
素手で触れれば、本物の涙も出せる。この子の最後の気持ちごと。けれどそれは、この子のものだ。断りもなく借りていいものじゃない。
ごめんね、と付け足した。娘はもちろん、何も答えなかった。
背後で、戸が鳴った。
振り向いた顔に、何かがばらばらとぶつかってきた。目に入る。しみる。唇の端がしょっぱい。
塩だった。
「すまん。清めだ」
戸の隙間から、猛の太い腕が引っこんでいくところだった。
「……中には入らないんじゃなかったの」
「腕しか入れとらん」
腕は穢れないのか。聞こうとしてやめた。猛の理屈はいつも腹の都合で決まっている。
その猛の肩越しに、白い顔がのぞいていた。
灯台の明かりを受けた顔は、ゆでたての白玉のように白く、整っている。その白玉が、半月見ないうちに少しだけ痩せたように見えた。
昴は猛の脇をすり抜けて、ためらいもなく喪屋に入ってきた。
「……来たのか」
「来たわよ。米三石で」
「典侍さまには、やめてほしいと申し上げた」
思いがけない言葉だった。
「なんで」
昴は少しだけ目をそらした。
「あなたは、すぐ素手で触るから」
「触ってない。ほら」
私は手にかぶせた袖をひらひらと振ってみせた。昴はほんのわずかに息をついた。安心したのか、呆れたのか。白玉の顔は相変わらず読みにくい。
昴は懐から綴じた紙を取り出し、一枚めくった。典侍から預かった写しだという。読み上げる声にはなんの抑揚もなかった。
「樋洗、いと。年十五。長月二十日、病により里下がり」
「里下がりした子が、どうして喪屋で寝てるの」
「表の帳面には、そう書かれている。帳面の上では、この者は里へ下がった」
「じゃあ、ここにいるのは」
昴は布の下の娘に目をやった。ほんの一瞬、何かを言いかけて、呑みこんだように見えた。
「……帳面にない、誰かだ」
それから昴は、三日前から起きているという妙なことを話した。
夜明けになると、後宮じゅうの樋箱が洗われている。樋洗たちが起き出すより先にだ。丑の刻ごろ、井戸で水を汲む音を聞いた者がいる。歌を聞いたという者もいる。女房たちは怯えきって、ゆうべは祈祷の僧まで呼んだが、止まらなかった。
「つまり」
「死んだ樋洗が、まだ働いている」
私は娘のひび割れた手を見た。
「……死んでまで、御まる洗いとは」
我知らず、ため息がもれた。
「同業として、頭が下がります」
「あなたは、まだひとつも洗っていない」
「明日から洗うの」
そのときだった。
戸の隙間から、白いものがするりと入ってきた。
かぐやだ。どこをほっつき歩いていたのか、口のまわりの毛がしっとりと濡れている。
「猫!」
昴の声が裏返った。白玉が声を裏返すのを、私ははじめて聞いた。
「死人に猫を近づけるな、またがせるな!」
遅かった。
かぐやは私の膝を踏み台にして、ひらりと跳んだ。娘の亡骸の上を白い影が弧を描いて越えていく。
娘が、起き上がった。
白い布が胸から滑り落ちる。
灯台の炎が横ざまに倒れた。風など、どこからも吹いていないのに。
半ば開いた目は白く濁って、何も映していない。その喉の奥で、ごぼ、と湿った音がした。娘は背を丸めて咳きこみ、袖で口を覆った。二度、三度。咳がおさまると、口から離した袖をじっと見つめた。
それから、その袖を急いで膝の下へ押しこんだ。
誰にも見られまいとするように。
次に、娘の手が動きはじめた。何もない宙で、布を絞る。こする。すすぐ。また絞る。ひび割れた指が慣れきった手つきで、そこにはない樋箱を洗っている。速い。無駄がない。一刻でも早く、ひとつでも多く終わらせようとする手だった。
やがて、その手がぴたりと止まった。
娘はゆっくりと首をめぐらせ、戸口のほうを――その向こうの、どこかを見た。
色のない唇がかすかに動いた。
「……まつ」
糸が切れたように、娘の体が板の上に倒れた。
灯台の炎が何事もなかったように、すっと真っ直ぐに立ち直った。
しばらく、誰も口をきかなかった。
かぐやが何食わぬ顔で私の膝に戻ってきて、前足を舐めはじめた。私の指先は小さく震えていた。
「まつ……」
私は娘が見ていた戸口の先へ目をやった。
「待つ、ってこと? 何を待てっていうの」
春の梅壺にも、待っている人がいた。月のない夜に来ない人を待ちつづけて、そのまま冷たくなった人。この後宮には、待ったまま死ぬ人しかいないのだろうか。
昴は答えなかった。
かわりに、戸の外で妙な音がした。ずっ、と洟をすする音だった。
戸の隙間から、猛の大きな背中が見えた。肩が小刻みに揺れている。
「……何してるの」
「なんでもない」
くぐもった声だった。
「塩が、目に入っただけだ」
「自分で撒いた塩でしょ」
「風で戻ってきたんだ」
風は、少しも吹いていなかった。
私は隣の昴を見た。白い横顔は、いつもどおりに乾いていた。
泣ける男は、塩のせいにして泣く。泣かない男は、何のせいにもしないで泣かない。どちらが厄介なのか、私にはまだわからなかった。

