袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 数日後、私は内裏の一室に呼び出された。
 頭中将を通じて、主上からのお言葉が伝えられた。こたびの働きに、褒美をつかわす。望みを申せ、と。
 部屋の隅で、付き添いの時雨の目が、銭の形に光った。気がした。
 私は少しだけ考えて、正直に答えた。
「芋粥を、飽きるほど」
 頭中将の顔が固まった。昴がこめかみを押さえた。時雨が天を仰いだ。猛だけが目を輝かせた。
 芋粥というのは、山芋を薄く切って甘葛で煮こんだ粥のことだ。甘葛は蔦の汁を煮つめた、とても高価な甘味で、ちょっとやそっとでは口に入らない。
 昔話にも、夢にまで見た芋粥を山ほど出されたとたん、すっかり食べる気が失せてしまった偉くない役人の話がある。
「……本当に、それでよいのか」
 頭中将が念を押した。しなびた青菜のようだった顔に、ほんの少しだけ色が戻っていた。妹の本当の命日に喪に服すと決めてから、この人は少しだけよく眠れるようになったのかもしれない。
「はい。それがいいんです」
 その日の昼過ぎ、内裏の厨の脇に本当に山のような芋粥が並んだ。
 大鍋が、ひとつ、ふたつ、みっつ。立ちのぼる湯気が甘く香って、厨の下働きの者たちまでが何事かとのぞきにくる。猛はいつのまにか私の隣に陣取って、自分の椀を差し出していた。小萩も目を丸くしながら、ちゃっかり椀を持っている。
「一杯だけよ」
「けちくさいことを言うな。山ほどあるだろう」
 ひと匙すくって、口に運ぶ。
 とろりとした粥の中で、薄く切った山芋がほろりと崩れ、甘葛のやさしい甘さが舌の上でゆっくりとほどけていく。泣いたあとの口に椿餅の甘さが沁みたのとは、また違う。これは、生きている人のための甘さだ。腹の底に、ぽっと灯がともる。
 昴は少し離れたところで、腕を組んで私たちを眺めていた。呆れているような、それでいて、どこかほっとしているような顔で。
「昴も食べる?」
「……いい。見ているほうが、腹がふくれる」
 意味がわからない。わからないので、二杯目をよそった。
 私は、平らげた。
 大鍋みっつ。猛と小萩と、厨の下働きの子たちにも少しずつ分けたけれど、それでも大半は私の胃の腑に消えた。
 昔話の役人とは、胃袋の出来が違うのだ。
 帰り道は夕暮れだった。
 芋粥でふくれたお腹を抱えて、私は内裏の門を出た。昴と猛が両脇を歩いている。時雨は褒美の残りの話をつけてくると言って、まだ内裏に残っていた。たぶん、芋粥のかわりに何かもらえないか、ねばっているのだ。
 足もとには白い猫が一匹ついてきていた。かぐやだ。梅壺には、もう主はいない。どうやら私のことを、飯をくれる人だと思っているらしい。間違ってはいない。
 西の空が茜色に染まりはじめていた。内裏の甍が夕日を受けて、ほんのりと金色に光っている。大路を吹き抜ける風が、少しだけ夏の匂いを運んでくる。
 ぐう、と腹が鳴った。あれだけ食べたのに。
 隣で、昴が無言で袖に手を入れた。出てきたのは、葉にくるまれた餅だった。それも、ふたつ。
 椿餅。
 泣いて、泣いて、泣き終えて、腹が鳴って、隣の男の子が、袖から椿餅を出す。
 ――あれ?
 ひと口かじった。葉の青い香りとほのかな甘さが、じんわりと沁みていく。
 懐かしい味。
 泣くな、と言った、あの声。
 そして、まったく同じ流れで、いま私の手の中にある椿餅。
 記憶の底で、何かがぱちりと音を立ててはまった。
 棺にすがって泣きじゃくる男の子。涙でぐしゃぐしゃの顔。おずおずと袖に手を入れて、差し出された、ひとつの椿餅。
 私はゆっくりと、隣の白玉を見上げた。
「……あの泣き虫、あんた?」
 昴は前を向いたまま答えなかった。
「え、待って。ってことは何。私に泣き虫って言われたのを根に持って、泣かなくなったわけ?」
 昴の足が、ほんの少しだけ乱れた。
「執念深っ」
 昴は長い、長い息をついた。
「……そういうことにしておけ」
 その横顔が、夕日の中でなぜだか少し赤く見えた。たぶん、夕焼けのせいだ。
 おかしいのは、私のほうも同じだった。大鍋みっつを平らげても平気だった胃袋が、いまになって胸のあたりまでいっぱいになっている。きっと、食べすぎだ。
 後ろで、猛が胸を押さえていた。
「やっぱり腹が減ってるのか、俺は」
 さっき、芋粥の鍋の底を指でぬぐってなめていたくせに。
 その夜、私は泣き女衆の家の寝床で、ひさしぶりに深い眠りに落ちかけていた。
 かぐやが足もとで丸くなっている。腹はいっぱいで、体はくたくたで、まぶたが重い。
 戸口の開く音がして、時雨が帰ってきた。ずいぶん遅くまでねばっていたらしい。土間で草鞋を脱ぐ音、竈の火を確かめる音、それから、寝床の私をのぞきこむ気配。
 叔母の大きな手が、私の額にかかった髪をそっと払った。ふだんは数珠ばかり弾いている、かさついた指だった。
「……よく、帰ってきたね」
 聞いたことのないような、やわらかな声だった。
 うとうとしていると、縁側のほうからまた時雨の声が聞こえた。誰に聞かせるでもない、ひとりごとだった。
「――十年前の、あの葬儀も」
 数珠の珠が、ひとつ、ぱちりと鳴った。
「月のない夜だったねえ」
 ……どういう意味だろう。
 考えようとしたけれど、まぶたの重さには勝てなかった。
 私は芋粥の夢に落ちていった。