袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 昴が詰所に顔を出したのは、それからしばらくしてのことだった。
 私たち三人は詰所の縁に並んで腰をおろした。空に月はなく、そのかわりに星が、手を伸ばせば届きそうなほどたくさん出ていた。
「文を届けるには、主上ご自身が、あの夜と同じ刻に、同じ場所に立っていただくしかない」
 昴が言った。
「月のない夜は、境が薄くなる。丑の刻には、夜の後宮がこちら側に重なる。そのときなら、生きている人も、橋を渡らずに死者のすぐそばに立てる」
「月のない夜って……」
「明日の夜だ。月が一晩じゅう昇らない、あの夜と同じ夜。梅の方が亡くなってから、ちょうどひと月。立后の前夜でもある」
 明日。それが、最後の機会だった。
「でも、帝を真夜中の渡り廊下に呼び出すなんて、どうやって」
「星読みには、空の異変を密かに主上へお報せする務めがある。本来は、上役の天文博士の仕事だ。見習いが勝手に申し上げれば、ただではすまない」
「ただではすまないって……」
「職を失う。悪くすれば、それ以上だ」
 私は昴の横顔を見つめた。
「……そこまでする?」
「する」
 迷いのない声だった。どうしてこの白玉は、そこまでするのだろう。会ったこともない更衣さまのために。それとも、陰陽師というのは、みんなこうなのだろうか。
「頭中将さまにも、手を貸していただく。猛は、主上の護衛だ」
「おう」
 猛が口いっぱいに飯をほおばったまま、胸を叩いた。
「こいつは、昔からこうなんだ。泣き虫のくせに、一度決めたら、絶対に逃げない。……そういや、昴って名前、星から取ったんだってな。母上がつけたんだろ」
 昴がわずかに眉をひそめた。猛は気にせず、西の空の低いところを指さした。
「ほら、あそこに、ちっこい星がかたまってるだろ。あれが、すばるだ」
 猛の指の先に、小さな星が身を寄せ合うようにして光っていた。ひとつひとつは頼りないほど小さいのに、かたまっていると、ふしぎとよく目に入る。
「六つの星が、寄り添って光ってる。ひとりぼっちにならない星だからって、母上がつけてくれたんだと。な、昴」
 昴は何も答えなかった。ただ、夜空のその一点を長いあいだ見上げていた。
 ひとりぼっちにならない星。
 私は、その名前をつけた人のことを少しだけ考えた。もう、この世にはいないのだろうか。けれど、聞かなかった。聞いてはいけない気がしたからだ。
 そのかわりに、私は言った。
「……いい名前ね。なんか、おいしそう」
「どこがだ」
 昴と猛の声が、きれいにそろった。

 翌日の夕方、私は一度、泣き女衆の家に戻った。時雨の顔を見ておきたかった。
 竈の前に時雨が立っていた。
 鍋から湯気が立っている。台の上には、炊きたての白い飯と、焼いた鯛と、芋の煮物と、蜜をからめた揚げ菓子までが並んでいた。どれも泣き女衆の家では、正月にしかお目にかかれないものばかりだ。
「……誰か、死んだの?」
「縁起でもないことを言うんじゃないよ」
 時雨は鍋をかき回しながら言った。
「腹いっぱい食べていきな。腹が減ってると、向こうに持っていかれやすいからね」
 私は黙って箸を取った。
 時雨は、私が食べるのを向かいに座ってじっと見ていた。いつもなら、ぱちり、ぱちりと鳴っている数珠の音が、今日は一度も聞こえない。今月の稼ぎを数えるかわりに、叔母は私の箸の動きを数えているようだった。
 縁側の向こうで、日が暮れていく。月の出る気配のない、薄墨色の空だった。
「月のない夜は、ろくなことがないよ」
 ぽつりと言って、時雨は私の顔をじっと見た。数珠を握る手が、いつになく白い。
「いいかい、露。何度でも言うよ。自分の涙だけは、流すんじゃない」

 昴の願い出は、主上に届いたらしい。
 丑の刻。月のない夜。
 そのかわり、星がこぼれ落ちてきそうなほど近い。ひと月前の今夜、梅の方もこの空を見上げていたのだ。
 梅壺の庭は深い闇の底に沈んでいた。老木の梅は、若葉ばかりの枝を黒々と夜空に広げている。かぐやが渡り廊下のあの場所に座りこんで、じっと空を見上げていた。
 衣擦れの音がして、ひとりの若い男の人が渡り廊下に立った。
 目立たない、地味な装いだった。あの夜、清涼殿の簀子で闇を見つめていた人だ。整った顔立ちの、その目の下に濃い影が落ちていた。眠れない夜を、いくつも数えてきた人の顔だった。
 主上――帝だ。
 御簾も几帳もない場所で、私は生まれてはじめて帝のお顔を正面から見た。思っていたより、ずっと普通の人だった。大事な人をなくして、それでも朝が来れば政をしなければならない、ひとりの若い男の人。
 その斜め後ろに頭中将が控え、さらにその後ろで猛が打橋の前に陣取っていた。
「始めます」
 昴が低く言った。
 何かを唱える声が闇に溶けていく。その声が続くにつれて、世界から少しずつ色が抜けていった。御殿の朱が灰色に沈み、風の音が遠のき、虫の声がぷつりと途切れる。冷や飯の匂いが、あたりに満ちる。
 夜の後宮が、こちら側に重なってきたのだ。
 帝が小さく身を震わせた。見えてはいないのだろう。それでも、寒さは伝わるらしい。
 庭の老木に、ひとつ、またひとつと白い花が灯った。若葉の枝が見る間に満開の梅に変わっていく。灰色の世界の中で、梅だけがほの白く光っていた。
 そして、梅の香りが渡り廊下を吹き抜けた。
 帝がはっと顔を上げた。
「……この香だ」
 かすれた声だった。
 けれど、その香りはすぐに重く濁っていった。庭の梅から、白い花びらがいっせいに舞い上がる。季節外れの花びらが嵐のように渦を巻き、渡り廊下を埋めつくしていく。今度は私にも見えた。帝にも見えているらしい。花びらの向こうに、黒い靄のようなものがゆらりと立ちのぼるのも。
「怨霊に、なりかけております」
 昴の声が硬くなった。
 ばきり、と背後で嫌な音がした。
 振り返ると、打橋のあたりの空気が裂けるように歪んでいた。境がほころびかけているのだ。ありもしない板が、ぎしぎしと軋みながらこちらへ倒れかかってくる。その裂け目の奥から、無数の衣擦れの音が潮のように押し寄せてくる。
「させるかっ!」
 猛が背の弓をつかんだ。矢はつがえない。弦だけを力まかせに引いて、放つ。
 びぃん、と夜気が震えた。
 滝口の弦打ち――魔を払う音だ。見えない相手に向かって、猛は見えないまま、何度も弦を鳴らした。そのたびに軋む板が押し戻され、押し寄せる衣擦れの音がひるんだように引いていく。頭より先に体が動く人というのは、こういうときに本当に強い。
「昴、早くしろ! 長くはもたん!」
 昴が一歩、黒い靄の真正面に出た。花びらの嵐がその袖を激しくはためかせる。
「梅壺の更衣」
 よく通る声だった。
「この渡り廊下にて、月のない夜、丑の刻に、身まかられた」
 偽りの記録で奪われた、本当の死に場所と本当の刻。日暮れに下がったことにされ、実家の寝床で死んだことにされた人に、昴は本当の最期を返したのだ。
 黒い靄が、ほんの少しだけ薄くなった。
 帝が懐から文を取り出した。
 乾いた梅の枝に結ばれた、あの文だ。帝は震える指でそれを開き、ゆっくりと声に出して詠んだ。

「春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる」

 ひと月前に届くはずだった声が、ようやくこの渡り廊下に響いた。
 梅の香りが、ひときわ強くなった。重く濁っていた香りが、すこしずつ澄んでいく。
 私は渡り廊下の床に膝をついた。かぐやが鳴いていた場所。梅の方が梅の枝を抱いて、冷たくなっていた場所。
 両手の袖を、まくり上げた。
 叔母の声が聞こえる。自分の涙だけは、流すんじゃない。わかってる。わかってるけど、鎧を着たままでは、この人の想いの端っこしか受け取れない。最後の最後まで受け取るには、心ごと泣くしかない。
 私は素手のまま、床に両の手のひらを押しあてた。
 冷たい。板の木目のひとすじひとすじに、あの夜の冷たさがまだ眠っていた。
 そして、流れこんできた。
 寒い。膝の下の板が、氷のように冷たい。月がない。来ない。まだ来ない。淋しい。胸が苦しい。息が、うまく吸えない。ひと月もふた月も隠しつづけてきた痛みが、いまになって、胸の内側から爪を立ててくる。
 ――それでも。
 ひとすじの光が、夜空を流れていく。
 その光に向かって、胸の中でひとつの歌を詠んでいる。あの人が来たら、渡そうと思っていた歌。抱いた梅の枝に結ぶつもりだった歌。
 気がつくと、私はその歌を口にしていた。

「梅が香に われを偲ばば 君が袖 露な置きそと 呼ばふ星かな」

 涙が、止まらなかった。
「……梅の香りで、私を思い出してくださるなら。どうか、その袖を涙で濡らさないで。――そう呼びかけながら、星が流れていく」
 帝が息をのむ気配がした。
 主上の文の歌と、梅の方の歌。香りは隠れない、と詠んだ人と、香りで私を思い出して、と詠んだ人。届かなかった文と渡せなかった歌が、ひと月遅れで、いまようやく出会ったのだ。
「主上」
 昴が静かに言った。
「いま、あの方が、主上の袖に手を伸ばしておられます」
 帝が自分の袖を見た。見えるはずのないものを、見ようとするように。
 その目に涙がにじんだ。けれど、帝はそれをこぼさなかった。唇をかみしめて、それから、ゆっくりと笑ってみせた。
 袖に、露を置くな。あの人が、最期に願ったことだったから。
 花びらの嵐が、ふいにやんだ。
 黒い靄が、ほどけるように消えていく。そのとき、私にもほんの一瞬だけ見えた気がした。梅の枝を抱いた薄紅の衣の人が、帝を見上げてほほえむのを。
 その頬を、ひとすじの涙が伝っていった。この人がはじめて流した涙だった。
 夜空を、光が流れた。
 呼ばひ星だった。
 光が消えるのと同時に、その人も梅の香りといっしょに、静かに消えていった。帝の袖に、白い花びらを一枚だけ残して。
 終わった。そう思ったのに、涙が止まらなかった。
 心ごと泣いた涙は、栓が抜けたようにあとからあとからあふれてくる。それがもう梅の方の涙なのか、私の涙なのか、わからない。
 足もとの板が、ふっと遠くなった。渡り廊下の灰色が、じわじわと体にしみこんでくる。冷たい。重い。自分の輪郭が薄くなっていく。昴の声も、猛の声も、かぐやの鳴き声も、水の底から聞くように遠い。
 向こう側へ、引かれている。
 ――流したら、帰ってこられなくなるよ。
 叔母の声が、ずっと遠くで聞こえた。
 そのとき、袖を強く引かれた。
「泣くな」
 すぐ耳もとで、声がした。
 昴だった。私の袖をつかんで、灰色の向こうから力ずくで引き戻そうとしている。その手が震えていた。
 泣くな。
 その言葉が、胸の奥で妙な響き方をした。どこかで聞いたことがある。いや、聞いたのではない。どこかで、私が誰かに言ったことがある――そんな気がした。
 けれど、それが何だったのか思い出す前に、私の体は昴の腕の中に転がりこんでいた。
 足もとに板の感触が戻ってきた。灰色が引いていく。御殿の朱が、几帳の錦が、ゆっくりと色を取り戻していく。風の音。虫の声。どこか遠くで、かぐやがにゃあと鳴いた。
 夜の後宮が、閉じたのだ。
「……昴?」
 見上げると、昴の顔がすぐそこにあった。
 その目が、濡れていた。
 今にもこぼれそうなくらいに。唇をかみしめて、まばたきもせずに私を見下ろしている。どう見ても、泣く寸前の顔だった。
 それなのに、昴は泣かなかった。一滴も。
 ……変な人だ。泣きたいなら、泣けばいいのに。
 昴は私の袖をつかんだまま、しばらく放さなかった。指先が白くなるほど、強く。それから、ほとんど息だけの声で何かをつぶやいた。
「……二度と、あなたに」
「え?」
 聞き返すと、昴ははっとしたように手を放した。
「何でもない」
 そう言って、ふいと顔をそむけた。その横顔が、なぜだかひどく幼く見えた。転んで泣くのをこらえている、小さな男の子みたいに。
 その顔を見ていたら、わけもなく、ほっとした。
 背後で、どさりと重い音がした。猛が打橋の前で大の字にひっくり返っていた。
「……腹、減った……」
 それが、この夜いちばん正直な言葉だった。
 そして私の腹も、それに応えるように盛大に鳴った。死者の最期から、生きている側へ戻ってきた音だった。
 夜明け前の渡り廊下で、帝は長いこと梅の木を見上げていた。
 花はもう一輪も残っていなかった。季節どおりの、若葉ばかりの梅だった。東の空がうっすらと白みはじめて、葉の一枚一枚にほんのりと朝の色が差していく。
 帝の手の中には、白い花びらが一枚、そっと包まれていた。
「記録は、正さぬ」
 やがて帝が言った。
「梅壺の更衣は、日暮れに内裏を下がり、翌朝、里で亡くなった。……それでよい。戦の火種を、これ以上増やすわけにはいかぬ」
 頭中将が深く頭を下げた。
「そのかわり、そなたは、妹の本当の命日に喪に服せ。あの夜を、忘れるな」
「……かしこまりました」
 あとで聞いた話では、その朝、立后の儀は何事もなかったように執り行われたという。藤の方は中宮になり、都に戦の火の手は上がらなかった。右近さまは立后のあと、病を理由にひっそりと里へ下がった。偉い人の都合は、どこまでいっても偉い人の都合だった。
 帝は最後に、手の中の文と花びらを見つめ、それを大事そうに懐にしまった。
「あれの最期は、もう、私に届いた」
 その声は、少しだけ震えていた。
 私は黙って梅の木を見上げた。
 死に場所まで書き換えられるなんて、たまったもんじゃない。本当の命日は、どこの記録にも残らない。
 ――でも。
 あの人の最期の想いは、ちゃんと届いた。
 それだけは、どんな記録にも書き換えられない。
 足もとで、かぐやはもう鳴かなかった。ただ、朝の光の中でゆっくりと顔を洗っていた。