袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 頭中将は内裏の一室で、山のような書きつけに埋もれていた。
 私たちは通された。私と、昴と、猛。
「上官に、本当のことを聞きたい」
 猛はそう言って、どうしてもついてくると言ってきかなかった。屯食を落とした夜から、猛はほとんど何も食べていない。
 頭中将は書きつけから顔を上げると、私を見てはっきりと眉をひそめた。
「葬儀で寝言を言った、泣き女か」
 冷えきった声だった。
「陰陽寮の見習いが、泣き女を後宮に引き入れて、何をこそこそ嗅ぎ回っているかと思えば。……泣いて死人の声を聞くなどという、いかさま師の口上を、内裏にまで持ちこむつもりか」
「いかさまでは、ありません」
「黙れ」
 扇がぴしりと机を打った。
「昴。そなたに命じたのは、梅壺を静かに祓うことだけだ。死んだ者の身の上を詮索せよとは言っておらぬ。これ以上、出過ぎた真似をするなら、陰陽寮にはいられぬと思え。――猛、そなたもだ。滝口の分際で、上官に何を問うつもりだ」
 猛の肩がびくりと揺れた。昴は表情ひとつ変えずに頭を下げたままだった。
 ここで引き下がるのが、下々の利口なやり方なのだろう。泣き女として十年生きてきた私は、そのことをよく知っている。偉い人の前では、声だけ出して、涙は出さない。
 けれど今日は、出さなくていい声を出すことにした。
「では、なぜ、隠されたんです」
 頭中将の目が私をとらえた。
 私はふところから小さな紙包みを出した。中には、白い花びらが一枚。
「梅の方が亡くなったときに着ていた衣の、袖口に入っていたものです。お屋敷の庭には、梅の木が一本もありませんね」
 頭中将の手が止まった。
「それから、これは陰陽寮の星の記録です。梅の方が亡くなった夜の丑の刻に、大きな流れ星がひとつ。葬儀の日、私が口走ったのを覚えておいでですか。星を見ながら、誰かを待って亡くなった、と」
 昴が帳面を差し出した。頭中将は、それを見なかった。
「そして、あの夜の明け方に、病人の車を護衛した者がいます」
 猛が一歩前に出た。その顔を見たとたん、頭中将の顔から色が抜けていった。
 それでも頭中将は、まだ首を縦に振らなかった。
「……花びらなど、どこからでも舞いこむ。星など、毎晩のように流れる。何の証にもならぬ」
「それなら、もうひとつ」
 私は頭中将の目をまっすぐに見た。
「梅の方は、梅の枝を抱いて亡くなりましたね。ご自分で庭に下りて、手ずから折った枝を」
 部屋の空気が止まった。
 それは、梅の方を見つけた女房たちと、頭中将しか知らないはずのことだった。
「それから、あの方は最期に、胸が苦しかった。息が、うまく吸えなかった。……あの方は、殺されたんじゃないんですか。だから、隠さなきゃいけなかったんじゃないんですか」
「――違う!」
 頭中将が叫ぶように言った。
「妹を、殺す者などおらぬ! あれは……あれは、病だ!」
 声が、裂けていた。
 長い沈黙のあと、頭中将は扇を置き、深く息を吐いた。肩がひとまわり小さくなったように見えた。
「……妹は、病を隠していた」
 こぼれるような声だった。
「胸の病だった。薬師には、もう長くはないと言われていた。重い病と知れれば、内裏を下がらねばならぬ。下がれば、もう二度と、主上のおそばには戻れぬかもしれぬ。だから隠した。誰にも言わず、笑って、おそばにいつづけた」
 胸の病。息が苦しかったのは、毒のせいではなかった。私の胸に流れこんできたあの苦しさは、ひと月もふた月も、たったひとりで隠しつづけてきた痛みだったのだ。
「あの夜は、主上とのお約束があった。月のない夜、梅の下で――と。闇の中で、梅の香りだけを楽しもう、と。明け方、女房たちが見つけたときには、妹は渡り廊下で冷たくなっていた。梅の枝を、抱いたまま」
 私の膝の下に、あの板の冷たさがよみがえった。
「内裏で人が死んだと知れれば、穢れで立后が流れる。藤壺の一門は黙ってはおらぬ。都が、戦に巻きこまれるかもしれぬ。……だから運び出した。猛に車を守らせ、記録も、日暮れに下がったと書き換えさせた」
 頭中将は猛を見た。
「すまぬ」
 猛の拳がぎゅっと握られた。何か言おうとして口を開き、また閉じた。人殺しの片棒ではなかった。けれど、亡骸を運んだことに変わりはない。
「だが、わからぬことがある」
 頭中将はうつむいたまま続けた。
「あの夜、主上は戦の評定で、どうしてもお出ましになれなかった。だから、詫びの文を出された。今宵は行けぬ、と。妹は、その文を受け取ったはずなのだ。なのに、なぜ――」
 声が震えた。
「なぜ、あんな寒いところで、ひとりで待ちつづけたのだ」
 ぽたり、と書きつけの上にしずくが落ちた。
 頭中将が泣いていた。本物の涙だった。泣き女を十年やっていれば、それくらいはわかる。
 この人は、本当に妹を悼んでいる。
 ――けれど、本物の涙を流す人が、嘘をつかないとは限らない。
 この人は、本当に悲しみながら、妹の死に場所を書き換えた。それがきっと、偉い人の背負う重さというものなのだろう。

 立后を前に、梅の方を偲ぶ集まりが、後宮の一角でひっそりと開かれた。
 女官たちが集まり、思い出を語りあう。あちらこちらで、袖が目元に当てられた。私は部屋の隅で灯りの番をしながら、その涙を見ていた。
 泣き女というのは泣くのが仕事だ。だから、他人の涙を見る目だけは肥えている。
 本物の涙は、まず喉が詰まる。息がうまく吸えなくなって、肩が揺れる。鼻が赤くなり、口元が崩れ、顔じゅうがこらえきれずにぐしゃりとゆがむ。目より先に、顔のいちばん弱いところから決壊するのだ。
 嘘の涙は、目元だけで完結している。ほかのところは、すまして動かない。袖で拭う手つきが妙にきれいでゆっくりだ。誰かに見せるための泣き方だからだ。
 小萩は本物だった。干し柿の話をしながら、途中で言葉が続かなくなって、袖に顔を埋めてしまった。
 そして、右近さまは。
 白粉の頬に、ひとすじの涙が伝っていた。美しい泣き方だった。目元だけが濡れて、鼻も口元も少しもゆがんでいない。涙を押さえる手つきは、舞のようにゆっくりだった。
 誰かが梅の方の名を口にした。
 その瞬間、右近さまの扇を握る指に、ぎゅっと力がこもった。
 ――夜の取り次ぎは、右近さまのお役目だから。
 小萩の言葉が耳の奥でよみがえった。
 毒ではなかった。けれど、文は届かなかった。届かなかった文は、どこへ消えたのか。
 あの人は、泣いてなんかいない。泣くふりをしている。
 私と同じ、商売の泣き方だ。

 次の日、私は女官たちの溜まり場に布包みを抱えて乗りこんだ。
 中身は椿餅だ。昴が毎日欠かさず届けてくれるのを、この数日、食べずにためておいたものだった。
「昴さまからの、差し入れです」
 その一言で、溜まり場の空気が変わった。女官たちの目がいっせいに光る。白玉の名前は、後宮ではどんなお札よりもよく効くらしい。
 私は椿餅をひとつずつ配って回った。
 ひとつ配るたびに、胃の腑がきしりと鳴いた。私の椿餅。毎晩、寝床で楽しみに眺めていた椿餅。それが、ほかの人の口に消えていく。泣き女をやっていて、こんなに泣きたくなったのははじめてかもしれない。
「それでね、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 椿餅で口が軽くなったところで、私は切り出した。梅の方が亡くなった夜、誰か、夜ふけに何か見ていないか。
 女官たちは顔を見合わせた。やがて、小萩がおずおずと口を開いた。
「……私、見たんです。あの夜、右近さまが、清涼殿からのお使いから何かを受け取って、すぐに袖の中に隠されるのを。梅の枝に結んだ、お文のようでした。主上からのお文なら、すぐに梅壺へお届けするはずなのに、変だなって。でも、右近さまに、そんなこと聞けなくて」
 小萩は椿餅を握りしめたまま、うつむいた。
「……ずっと、言えなかったんです。あのとき、私が何か言っていれば」
 私は小萩の肩に手を置いた。袖ごしではなく、そのままの手で。生きている人の肩は、あたたかかった。
 ふと気配を感じて振り返ると、溜まり場の外の渡り廊下に昴が立っていた。
 昴は女官たちの手の中の椿餅を見て、それから、空っぽになった私の布包みを見た。何も言わなかった。ただ、自分の袖をそっと押さえた。
 私はなんだか悪いことをした気になった。もらったものを、勝手に配ってしまったのだから。
 けれど昴は、怒ってはいなかった。私の顔をしばらく見て、それから、ふいと視線をそらして歩いていった。

◆

 あの子が、椿餅を手放した。
 渡り廊下を歩きながら、昴は空の袖を握りしめた。
 腹の虫のためなら、弔いの場でも菓子を頬張る子だ。その子が、毎日楽しみにためていた椿餅を、ひとつ残らず配ってしまった。死んだ人のために。
 十年前と、何も変わっていない。
 あの子は今も、誰かのぶんを泣いている。
 明日からは、椿餅を倍にしよう。昴は誰にも聞こえない声で、そう決めた。

◆

 文を取り戻さなければならない。
 右近さまが焼いてしまっていたら、それまでだ。けれど、もしまだどこかに残っているなら。
 その夜、私は灯りの油壺を抱えて、藤壺の渡り廊下を歩いていた。女孺は夜でも灯りの番で、どの御殿にも出入りできる。誰も下っ端の顔など見ていない。
 足もとで、にゃあ、と声がした。
 かぐやだった。梅壺からついてきてしまったらしい。
「だめよ、戻って」
 小声で言っても、かぐやは聞かなかった。ふんふんと鼻をひくつかせながら、迷いのない足取りで藤壺の奥へと入っていく。几帳のあいだをすり抜け、廊下を曲がり、やがてひとつの部屋の前で足を止めた。
 右近さまの局だ。
 かぐやは部屋の隅に置かれた唐櫃の前に座りこみ、その蓋にかりかりと爪を立てた。
 梅の香りがした。
 ほんのかすかに、けれど確かに。濃い香の匂いに埋もれて、それでも消えずに、細い糸のように漂ってくる。
 主上は、真っ暗な夜でも梅の方がどこにいらっしゃるかすぐにわかる――小萩の言葉を思い出した。かぐやにとっても、梅の香りは主の匂いだったのだ。
 私はそっと唐櫃に手を伸ばした。
「――何をしているの」
 背後で声がした。
 振り返ると、右近さまが立っていた。手燭の灯りが、白粉の顔を下から不気味に照らしている。
 私は唐櫃の前から動かなかった。
「あの夜、清涼殿のお使いから受け取ったものは、何ですか。どうしてそれを、梅壺に届けなかったんですか」
 右近さまは扇で口元を隠して笑った。
「まあ、何のことかしら。下っ端の女孺が、夢でもご覧になったの?」
 それから、白粉の頬にひとすじの涙を浮かべてみせた。
「それとも、梅の方を偲ぶ私の気持ちまで、疑うおつもり? ひどい人」
 見事な涙だった。目元だけが濡れて、ほかは少しも崩れない。
 私はため息をついた。
「右近さま。私、本当は泣き女なんです」
 右近さまの手が止まった。
「嘘泣きなら、私のほうがうまい」
 白粉の頬の上で、嘘の涙が乾いていく。
「それに、梅の方は泣きもしませんでした。あの夜、寒い渡り廊下で、最期までこう思っていただけです。――文は、まだ来ない。まだ、来ない」
 扇の陰で、唇がわなないた。それから、その顔がぐしゃりとゆがんだ。
 喉が詰まり、肩が揺れ、白粉の下で鼻が赤くなる。今度の涙は、目より先に、顔のいちばん弱いところから崩れていった。本物の涙だった。怯えと、悔いの涙だ。
「……まさか亡くなるなんて、思わなかったの」
 右近さまはその場に座りこんだ。手燭が床に落ちて、灯りが大きく揺れた。
「女御さまが中宮になられるためには、主上のお心が梅の方にあっては困る。だから、ほんの少し遠ざけたかっただけ。文が届かなければ、主上に忘れられたと思って、あきらめてくださると……まさか、あんな寒い夜に、ひと晩じゅう待ちつづけるなんて」
 人を殺すのは、毒だけじゃない。届かなかったひと言が、人を凍えさせることもある。
 右近さまは震える手で、唐櫃の蓋を開けた。
「焼こうと、したのよ。何度も。でも、できなかった。主上の御手を、火にくべるなんて……」
 唐櫃の底から出てきたのは、薄紅の紙をひと枝の梅に結んだ文だった。
 枝はすっかり乾いて、花はとうに散っている。それなのに、かすかに梅の香が立った。ひと月近くも唐櫃の底に閉じこめられていたのに、紙はまだ、あの夜の香りを覚えていた。
 開くと、短い言葉が書かれていた。

 今宵は行けぬ。

 その横に、古い名歌が一首、添えてあった。

 春の夜の 闇はあやなし 梅の花 色こそ見えね 香やは隠るる

 私は息をのんだ。
 清涼殿の簀子で、帝が闇に向かってつぶやいていた、あの歌だった。
 月のない春の夜の闇は、むだなことをする。梅の花の色は隠せても、香りまでは隠せないのだから。――今夜は会いに行けなくても、あなたのことは、ちゃんと感じている。そういう、詫びの歌だった。
 帝は毎晩、届いたはずの自分の歌を、ひとりでつぶやいていたのだ。返事の来ない闇に向かって。
 私は文を胸に抱いた。
 この文が、届いていれば。
 あの人は、冷たい渡り廊下で、来ない人を待ちつづけることはなかった。

 その夜、詰所の猛は屯食に手をつけていなかった。
 膝の上に握り飯を置いたまま、ぼんやりと土間の一点を見ている。あの猛が、飯を前にして食べない。それだけで、私には大事件だった。
「食べないなら、もらうけど」
 いつもの調子で言ってみた。猛は力なく首を振った。
「……俺は、亡骸を運んだんだな。何も知らずに、上官の言うとおりに」
 大きな背中が、ひどく小さく見えた。
「人殺しじゃなかったのは、よかった。でも、頭中将は嘘をついていた。都を守りたかったのも、たぶん本当なんだ。俺は、怒ればいいのか何なのか、わからん」
 私は少し考えて、自分の屯食を半分に割った。
 大きいほうを、猛の手に押しつける。猛が目を丸くした。私が飯を人に分けるのを、はじめて見たという顔だった。
「あんたは悪くない。悪いのは、黙って運ばせたほう」
 猛は手の中の屯食を見つめた。
「……でも、都を守りたかったのも本当なんでしょ。だったら、怒るのは、ぜんぶ終わってからでいいじゃない」
 猛はしばらく黙っていた。それから、屯食にかぶりついた。噛むたびに、肩の力が抜けていく。
 そして、ふいに胸のあたりを押さえた。
「……食いすぎたか?」
「まだ半分しか食べてないでしょ」
 猛は首をかしげながら、残りをほおばった。胸が痛いのに、食べるのはやめないらしい。