袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 更衣さまのご実家は、都の北にある、大きな屋敷だった。
 門をくぐると、白砂を敷きつめた庭で、桜がほころびかけていた。梅はもう、終わりの頃だ。私はなんとなく、庭を見回した。梅の木が一本でもあれば、夏には実が採れる。梅干しは、白い飯にいちばんよく合う。
 けれどこの屋敷の庭に、梅の木は一本もなかった。
 屋敷の中からは、色が消えていた。部屋という部屋に鈍色の几帳が立てまわされ、御簾の縁まで、薄墨の色の布に掛けかえられている。喪の家は、色を消すのが決まりだ。
「ねえ、聞いた? 今日は陰陽寮の昴さまがいらっしゃるのよ」
 支度部屋で、泣き女衆の娘たちが、ひそひそと色めき立っていた。
「お顔、見たことある? 夜空を溶かしたみたいな瞳なんですって」
「この前なんて、見とれた女官が柱にぶつかったそうよ」
 柱のほうが気の毒だ。
 渡り廊下の向こうに、その陰陽師がいた。
 すらりと背が高く、烏帽子の下の顔は、月の光を集めたように白い。顔立ちは、確かに整っていた。たとえるなら、ゆでたての白玉だ。つるんとしていて、どこにも引っかかるところがない。
 ……ただ、白玉は食べられるけれど、あの顔は食べられない。顔で腹はふくれない。私はすぐに、興味を失った。
 陰陽師は誰とも目を合わせず、ただ庭の空ばかり見上げていた。昼の空に、星なんか出ていないのに。
 奥の間には、喪主の姿があった。亡くなった更衣さまの兄君で、頭中将と呼ばれている方だ。
 頭中将――帝のそばで政を回す役と、内裏を守る近衛の隊長とを兼ねている人。つまり、都でいちばん忙しくて、いちばん顔色の悪い人だ。実際その顔は、三日ほど水をやり忘れた青菜のように、しなびていた。扇を握る指の節が白い。早くこの弔いが終わってほしいと、顔に書いてあった。
 その後ろに、大きな男が控えていた。
 日に焼けた顔に、丸太のような腕。護衛の武士らしい。私の目は、自然とその腰に吸い寄せられた。大きな包みが下がっている。あの形は、握り飯だ。それも、かなり大きい。
 じっと見ていると、男は気づいて、慌てて包みを手で隠した。それから、なぜか照れたように、へにゃりと笑った。笑うと、大きな犬みたいな顔になる人だった。
 やがて、弔いが始まった。
 泣き女衆は、亡骸の左右に分かれて座る。読経がひと区切りついたところで、時雨が膝の上の数珠を、ひとつ鳴らす。それが合図だ。
 時雨が、すうっと息を吸う。次の瞬間、低く深い嘆きの声が、広間いっぱいに満ちた。腹の底から湧き上がった声は、天井を這い、柱を伝い、聞く者の胸を内側から揺さぶっていく。参列の人々が、ひとり、またひとりと、袖で顔を覆った。泣きたくても泣けずにいる人を、泣かせてやる。悲しみの出口を、声でこじ開けてやる。
 私も、声を合わせた。声は出す。涙は出さない。嘆きの節を正確になぞりながら、頭の片隅で、私は今日の昼飯のことを考えていた。