袖の露 ―泣かない陰陽師と、腹ペコ泣き女―

 弔いの帰り道は、いつも少しだけ道が広い。
 鈍色の衣を着た女たちが十人も連れだって歩けば、都の人たちはさっと左右に分かれて道をあける。礼儀ではない。穢れがうつらないように、だ。物売りは品物に布をかぶせ、子どもは母親の背に隠れ、どこかの家の門が私たちの目の前で音を立てて閉まる。
「ほらご覧、穢れが通るよ」
 辻の向こうで、誰かがささやくのが聞こえた。
 慣れている。七つのときから、ずっとこうだ。人は、死んだ人のために泣いてくれる女を雇いながら、泣き終えた女のことはなるべく見ないようにする。都の人たちにとって、泣き女は雨の日の笠のようなものなのだろう。降れば頭に乗せたがるくせに、晴れればどこかに置き忘れる。
 時雨はそんな声などまるで聞こえないという顔で、背筋を伸ばして歩いていた。
「胸を張りな、露。うちらがいなけりゃ、この都の死人はろくに泣いてももらえないんだから」
 泣き女衆の家は、鴨川の河原に近い板葺きの細長い家だった。十何人もの女たちが寝起きし、ひとつの竈で飯を炊き、ひとつの井戸で喪の衣を洗う。壁は薄く、雨漏りもする。けれど竈の火だけはいつも絶えない。弔いの家からは供え物のお下がりが回ってくるし、ここでは泣くことと食べることが同じくらい大事な仕事だからだ。
 その夜、私はなかなか眠れなかった。
 衣の袖に触れた指先が、まだ冷たい気がする。暗闇を流れていった星の光が、まぶたの裏から消えない。寒い。淋しい。文は、まだ来ない。あれは私の気持ちじゃない。わかっているのに、胸の奥がしくしくと痛んだ。
 叱られる、と思っていた。
 弔いの場で本気で泣き、喪主に向かって妙なことを口走り、あげく陰陽師から餅をもらって頬張った泣き女だ。時雨の雷が落ちないはずがない。私は朝から竈の前でなるべく小さくなって、芋を洗っていた。
 ところが時雨は上機嫌だった。
「露、客だよ。陰陽寮からだ」
 数珠の珠を弾く音がいつもよりずっと軽い。嫌な予感がした。叔母の機嫌がいいときは、たいてい私の身に何かが降りかかる。
 客間――といっても、家のいちばん奥の、床板が少しだけきしまない部屋だ――にいたのは、あの白玉だった。戸の隙間という隙間に、泣き女衆の娘たちの目が並んでいる。陰陽師はそれに気づいているのかいないのか、背筋を伸ばして座ったまま私をまっすぐに見た。
「昴という。陰陽寮の者だ」
 声は低く、静かだった。
「後宮で、亡くなった梅壺の更衣の姿を見たという噂が立っている。祓えと命じられた。だが、祓う前に知りたい。あの方が、何を想い残しているのか」
「それを、なんで私に」
「あなたは昨日、あの方の最期を言い当てた」
 私は黙った。
 言い当てたわけじゃない。流れこんできただけだ。寒さも、暗さも、淋しさも、自分のことみたいに。あれをもう一度味わうのかと思うと、胃の腑のあたりが冷たくなる。
「お断りします。本気で泣くのは、もうごめんです」
「うちの露は、高うございますよ」
 割りこんだのは時雨だった。数珠をじゃらりと鳴らして、ずいと膝を進める。そこからの叔母の手際は、見事というほかなかった。気がつけば私は、銭と米と引きかえに陰陽寮へひと月貸し出されることになっていた。本人の返事は、どこにも挟まっていなかった。
「……条件があります」
 せめてもの抵抗を、私は口にした。
「椿餅。毎日」
「わかった」
 即答だった。早すぎない? と言いかけて、私は口をつぐんだ。昴は表情ひとつ変えていない。変えていないのに、なぜだか少しだけほっとしたように見えた。
 帰っていく昴を、時雨は戸口で見送っていた。その目が妙だった。客を見る目でも、銭を見る目でもない。ずっと前から知っている誰かを、遠くから確かめるような目。叔母があんな目で人を見るのを、私ははじめて見た。
「……叔母さん?」
 時雨はゆっくりとこちらを振り向いた。
「いいかい、露」
 いつになく低い声だった。
「向こうで、自分の涙だけは流すんじゃないよ。流したら、帰ってこられなくなる」
「向こうって、どこ」
 時雨は答えなかった。ただ、数珠の珠をひとつだけ、ぱちりと弾いた。

 後宮というところは、匂いからして違った。
 御殿と御殿が屋根のある渡り廊下でつながり、その先々に御簾と几帳が幾重にも垂れている。布の向こうから聞こえるのは、衣擦れと、ひそやかな笑い声と、扇を開く音。そして何より、香の匂いだ。どの御殿からも、競うように焚きしめた香が流れてくる。濃すぎて、腹の虫まで黙りこむ。
 私はここに臨時の女孺として入った。女孺というのは、後宮で雑用をこなす下っ端の女官のことだ。表向きの名目は、主を失った梅壺の片づけ。手配したのは、もちろん昴だった。泣き女だということは伏せてある。弔いの匂いのする女が立后を控えた後宮をうろついていると知れたら、それこそ塩を撒かれる。
 下働きの朝餉は強飯と汁と塩と漬物だけだった。腹の足しにはなるけれど、心の足しにはならない。後宮というのは、見た目ほど満腹な場所ではないらしい。
 梅壺は静かだった。
 主を失った御殿というのは、こんなにも音がしないものなのか。部屋の隅々に、まだ梅の方が使っていた調度が残っている。蒔絵の手箱、螺鈿の鏡台、几帳の帷子に縫いとられた白い梅の枝。そのどれもが、主が帰ってくるのを待っているように、きちんとそこにあった。
 庭には一本の梅の老木が立っていた。花はとうに散って、枝先には若葉がのぞきはじめている。
「その梅、梅の方がとても大事にしておられたんです」
 声をかけてきたのは、私と同じ年ごろの女官だった。小萩という。梅壺に仕えていたひとりで、主を亡くしたあとも片づけのためにここに残っているのだという。丸い頬をした、よく笑いそうな顔の子だった。けれど、いまは目のふちが赤い。
「梅の方は、どんな方だったの」
 床を拭きながら尋ねると、小萩は少し考えてから、ぽつりぽつりと話してくれた。
 身分の低い更衣だったから、ほかのお妃さま方からはずいぶんと意地の悪いことも言われていたらしい。それでも、いつも笑っておられた。下働きの者にも分けへだてなく声をかけてくださった。寒い朝には、自分の火桶を女孺たちの詰所に回してくださったこともある。
「私が熱を出したときなんか、干し柿をくださったんですよ。内緒よ、って。主上からいただいた、大事な干し柿だったのに」
 小萩は泣き笑いの顔になった。
「主上がお渡りになる夜は、ご自分で庭に下りて、梅の枝を一本、手ずから折って待っておられました。梅の香りを袖に焚きしめるのがお好きで……主上は、真っ暗な夜でも梅の方がどこにいらっしゃるかすぐにわかる、なんておっしゃっていたそうです」
 それから小萩は少しだけ声を落とした。
「……でも、亡くなる前のひと月ほどは、お顔の色が透けるように白くて。それでも、いつもと同じように笑っておられました」
 透けるように白い顔。それでも笑っていた人。
 私は、棺の中の眠っているような顔を思い出した。袖口からこぼれた、白い梅の花びらを。
 小萩は最後に、渡り廊下の端に置かれた小さな皿を指さした。
「あれは、かぐやのご飯です。梅の方の猫で……毎晩、あそこで鳴くんです。誰もいないところに向かって」

 梅壺を一歩出れば、後宮は噂でできていた。
「聞いた? また出たんですって、梅壺に」
 渡り廊下の端で、女官たちが額を寄せ合っていた。
「夜ふけの渡り廊下に、梅の方らしい影が立つって」
「季節外れの梅の香がしたって話も」
「夜回りの下働きの子が、朝、渡り廊下で倒れていたそうよ。寒い、寒いって、そればっかり」
「縁起でもない。立后を控えているっていうのに」
 次の朔日の朝、藤壺の女御さま――藤の方が中宮になる。藤の方は、いま都でいちばん勢いのある武家の一門の姫君だという。
 そして後宮には、こんな決まりがある。人が死んだ場所はしばらくのあいだ穢れていて、神さまごとができない。だから病の重い者は、死ぬ前に内裏から下がらされる。
 ――もし梅の方が本当は、内裏で亡くなっていたとしたら。
 穢れの中では立后はできない。儀式が流れれば、藤の方の一門は面目を潰される。面目を潰された武家が黙っているとは思えない。女官たちが本当に怖がっているのは、幽霊ではないのかもしれなかった。
「頭中将さまから、陰陽寮にお達しがあった。立后の前夜までに、静かに祓え、と」
 その日の夕方、御簾ごしに昴が教えてくれた。昼の後宮では、女孺と陰陽師が顔を突き合わせて話すわけにはいかない。だから私たちのあいだには、いつも一枚、御簾がある。
「祓えばいいじゃない。陰陽師なんでしょ」
「想いを残した魂を力ずくで祓えば、怨霊になる」
 御簾の向こうの声は静かだった。
「それに、私はまだ見習いだ。天文生――星読みを学ぶ身にすぎない」
「見習い? 偉い陰陽師さまたちは?」
「皆、戦の占いで手一杯だ。それに、静かに、というのが頭中将さまのご注文だからな。見習いひとりなら、目立たない」
 なるほど。偉い人の都合は、どこまでいっても偉い人の都合だ。
 その偉い人の都合に、もうひとつ面倒な都合が加わった。

「あなたが、昴さまに呼ばれたという女孺?」
 翌朝、梅壺の床を拭いていた私の前に、ひとりの女房が立った。
 白粉が厚い。顔の白さがお面のようにつるりとしている。焚きしめた香は、近づかれただけで目に沁みるほど濃い。たとえるなら、砂糖をまぶしすぎた唐菓子だ。甘いものは好きだけれど、ものには限度がある。
 女房は扇で口元を隠し、目だけで笑った。
「藤壺の女御さまにお仕えする、右近と申します。わからないことがあれば、何でもお聞きなさいな。――もっとも、どこの馬の骨とも知れない女孺に、わかることがあればですけれど」
 これは、先が思いやられる。
 右近さまの嫌がらせは、その日のうちに始まった。拭いたばかりの床に墨がこぼれ、片づけた几帳がいつのまにか倒され、誰もやりたがらない用事が、なぜかすべて私に回ってくる。
「その香、焚きすぎじゃありません? 鼻が詰まりそう」
 すれちがいざまに言ってやると、右近さまの白粉にぴしりとひびが入った気がした。
 ただ、ひとつだけ許せないことがあった。
 昴が約束どおり届けてくれた椿餅を、私は布に包んで仕事のあとの楽しみにとっておいた。それが消えていた。包みの布だけが、からっぽで残っている。
 私の中で、何かがぷつりと切れた。
「……食べ物の恨みは、末代まで祟りますよ」
 ゆっくりと振り返ると、柱の陰で、右近さまの取り巻きの女官たちがさっと顔を伏せた。
「祟りには、ちょっと詳しいんです。私」
 女官たちの顔から血の気が引いた。ちょうど、あの葬儀の日の頭中将みたいに。
「――その者は、私が呼んだ者だ」
 背後から冷えた声がした。いつのまにか渡り廊下の端に昴が立っていた。彼は女官たちをひと渡り見回して、それ以上は何も言わなかった。
 言わなかったのが、かえって効いたらしい。女官たちは蜘蛛の子を散らすように逃げていき、残った右近さまの頬が、白粉の下でもわかるほど赤く染まった。扇を握る指が震えている。
 まずい、と思った。いま火に油を注いだのは、私ではなく、この白玉だ。
「右近さまには、逆らわないほうがいいわ」
 その夜、灯りの油を足していると、小萩がそっと耳打ちしてくれた。
「藤壺の女房頭で、夜の取り次ぎ――主上からのお文やお使いを受けるお役目も任されているの。梅壺はお隣だから、清涼殿からのお使いは、こちらあてのものも右近さまが先に受けるのよ。目をつけられたら、後宮では暮らしていけないわよ」
 渡り廊下の向こうで、右近さまがこちらを見ていた。白粉の奥の目が暗がりで光っている。見覚えのある目だ。腹を空かせた猫が、干物を狙うときの目。
 あいにく私は干物ではない。けれど、狙われる覚えだけは山ほどできてしまった。

 その夜、私は腹が減って眠れなかった。
 椿餅を盗られた恨みは胃袋にも響く。私は寝床を抜け出して、夜の後宮をふらふらと歩いた。
 どこからか、炊きたての飯の匂いがした。それも、塩の効いた握り飯の。鼻を頼りに渡り廊下をたどっていくと、帝のお住まいである清涼殿の北東の隅に小さな詰所があった。そばで、さらさらと水の音がしている。
 戸口からのぞくと、大きな背中が握り飯をほおばっていた。
「あ」
 振り返ったのは、あの弔いの日の握り飯の男だった。口いっぱいの飯をもごもごさせながら、目を丸くしている。それから、腰の包みと私の顔を何度か見比べた。
「……食うか?」
「食べる」
 差し出された握り飯は、私の顔ほどもあった。屯食という。一口かじると、塩と米の甘みが胃の腑の底まで沁みわたった。
「俺は猛。滝口の武士だ」
 滝口の武士というのは、帝のお住まいのすぐそばを守る見張り番のことで、武家の出の者が多い。
 猛はまさにそういう顔をしていた。日に焼けて、肩が分厚くて、歌を詠めと言われたら真っ先に逃げ出しそうな顔だ。
「実際、逃げる」と、猛は言った。「歌を詠めと言われると、腹が痛くなるんだ」
 正直な人だった。
「田舎じゃ、腹いっぱい食えるのは祭りの日だけでな。都の武士は毎日飯が食えると聞いて、それだけで滝口を志した」
「立派な志ね」
「だろう?」
 皮肉のつもりだったのに、猛は胸を張った。この人に皮肉は効かない。打っても打っても跳ね返ってくる、つきたての餅みたいな人だ。
「昴とは、ガキの頃からの付き合いでな。俺のおふくろが、あいつの乳母だったんだ。あいつが女に菓子をやるの、はじめて見た」
「仕事の前払いでしょ」
「そうかぁ?」
 猛は首をかしげ、私の食べっぷりをまじまじと見た。見られていても、私の手は止まらない。
 猛がふいに胸のあたりを押さえた。
「……お前さん、今日は飯が足りなかったのか?」
「あとひとつくらいなら、入るけど」
「やらん」
 猛は慌てて次の屯食を抱えこんだ。それから、思い出したように言った。
「そういや、梅壺の渡り廊下に毎晩、猫がいるんだ。夜回りのたびに同じところで鳴いてる。主がいなくなったのが、わからないんだろうな」
「小萩から聞いた。……その子、ご飯はもらってるの?」
 猛はきょとんとした顔で私を見た。それから、少しばつが悪そうに頭をかいた。
「……俺の屯食の、端っこをな。ときどき」
 この人は、たぶん、いい人だ。
 詰所からの帰り道、猛は夜回りのついでに、梅壺まで送ってくれることになった。
 清涼殿の脇を通りかかったときだった。簀子のはしに誰かが立っていた。
 灯りもともさず、供もつけず、ひとりきりで闇に沈んだ庭のほうを向いている。若い男の人だった。装いは質素なのに、その立ち姿には、どこか触れてはいけないもののような静けさがあった。
 猛がぴたりと足を止めた。そして私の袖を引いて、柱の陰に押しこんだ。
「……主上だ」
 息だけの声だった。
 私は柱の陰からそっとうかがった。帝は梅壺の方角を見ていた。夜風が吹くたびに、わずかに顔を上げる。何かの匂いを探しているように。
 やがて、かすかな声が闇の中にこぼれた。
「春の夜の……闇はあやなし……」
 歌の続きは聞こえなかった。帝はそこで言葉を切り、長いあいだ黙りこんでいた。それから、自分の袖を顔に寄せて目を閉じた。
 泣いているのかと思った。けれど、肩は少しも揺れていなかった。
「毎晩、ああしておられる」
 梅壺へ向かう道すがら、猛がぼそりと言った。
「梅の方が亡くなってから、ずっとだ。……偉い人ってのは、泣くこともできないのかね」
 私は答えなかった。あの歌の続きが何なのか、私は知らない。ただ、闇の中で何かを探していた横顔だけが、いつまでも目の奥に残った。
 梅壺の手前で猛と別れると、渡り廊下の端にもうひとつ人影があった。
 昴だった。欄干に寄りかかり、夜空を見上げている。手には、紙を綴じた帳面と筆。
「何してるの、こんな夜ふけに」
「星を見ている」
 見ればわかる。
「星なんか見て、腹がふくれるの?」
 昴は空から目を離さずに答えた。
「腹はふくれない。だが、嘘は暴ける」
 意味がわからない。わからないので、聞き流した。
 昴がちらりとこちらを見て、少しだけ眉を寄せた。
「頬に、飯粒がついている」
 私は指で頬をぬぐい、取れた飯粒をそのまま口に入れた。もったいないので。
 昴の口の端が、ほんのわずかに動いた。笑ったのかと思ったが、暗くてよく見えなかった。たぶん気のせいだ。この白玉は、泣きもしなけりゃ笑いもしない。