あれから十年。私は十七になり、いっぱしの泣き女になった。
いっぱし、というのは声のことだ。私の声は葬列のいちばん後ろまでよく通る。腹の底から絞り出す嘆きの声も、細く長く尾を引くすすり泣きも、たいていのものは出せる。
ただし、涙は出さない。
声は出す。涙は出さない。それがこの仕事のこつだ。――と、私は勝手に思っている。
「露、支度はできたかい」
戸口から叔母の時雨が顔を出した。
物干し竿のように背筋の伸びた大柄な女で、声は低く、よく響く。この声ひとつで葬列ごと泣かせてしまう、都でいちばんの泣き女だ。そして都でいちばん銭勘定にうるさい泣き女でもある。いまも数珠の珠を、ぱちり、ぱちりと指で弾いていた。お経の数を数えているのではない。今月の稼ぎを数えているのだ。
「近ごろは忙しくて、ありがたいねえ」
時雨はほくほく顔で言った。
東のほうで、また戦があったらしい。人が死ねば弔いが増える。弔いが増えれば、時雨の仕切る泣き女衆の釜に米が入る。ありがたいと言えば罰が当たりそうだし、ありがたくないと言えば腹が減る。泣き女というのは、そういう商売だ。
私は鈍色の衣に袖を通した。墨を水で溶いたような喪の色だ。帯を締め、髪をうしろでひとつにまとめて白い紐でくくる。化粧はしない。泣き女が紅など差していたら、喪主に塩を撒かれる。
「で、今日はどちらです」
「梅壺の更衣さまだよ」
「……梅壺の?」
思わず聞き返した。
梅壺というのは、後宮にある御殿のひとつだ。更衣はお妃さまの位のひとつ。上から数えるより下から数えたほうが早い位だけれど、それでもお妃さまはお妃さまだ。私たちのような下々の泣き女が、めったに呼ばれる相手じゃない。
「病で内裏から下がられて、ご実家の寝床で静かに息を引き取られたそうだよ」
時雨は珠を弾く指を止めずに言った。
「まだお若いのに、気の毒にねえ。……ま、払いはいいはずさ」
最後のひと言さえなければ、いい話だったのに。
更衣さまのご実家は、都の北にある大きな屋敷だった。
門をくぐると、白砂を敷きつめた庭で桜がほころびかけていた。梅はもう終わりの頃だ。私はなんとなく庭を見回した。梅の木が一本でもあれば、夏には実が採れる。梅干しは白い飯にいちばんよく合う。
けれどこの屋敷の庭に、梅の木は一本もなかった。
屋敷の中からは色が消えていた。部屋という部屋に鈍色の几帳が立てまわされ、御簾の縁まで薄墨の色の布に掛けかえられている。喪の家は色を消すのが決まりだ。
「ねえ、聞いた? 今日は陰陽寮の昴さまがいらっしゃるのよ」
支度部屋で、泣き女衆の娘たちがひそひそと色めき立っていた。
「お顔、見たことある? 夜空を溶かしたみたいな瞳なんですって」
「見習いなのに、天文博士さまより先に星の異変を言い当てるんですって」
「この前なんて、見とれた女官が柱にぶつかったそうよ」
柱のほうが気の毒だ。
渡り廊下の向こうに、その陰陽師がいた。
すらりと背が高く、烏帽子の下の顔は月の光を集めたように白い。顔立ちは確かに整っていた。たとえるなら、ゆでたての白玉だ。つるんとしていて、どこにも引っかかるところがない。
……ただ、白玉は食べられるけれど、あの顔は食べられない。顔で腹はふくれない。私はすぐに興味を失った。
陰陽師は誰とも目を合わせず、ただ庭の空ばかり見上げていた。昼の空に星なんか出ていないのに。
奥の間には喪主の姿があった。亡くなった更衣さまの兄君で、頭中将と呼ばれている方だ。
頭中将――帝のそばで政を回す役と、内裏を守る近衛の隊長とを兼ねている人。つまり、都でいちばん忙しくて、いちばん顔色の悪い人だ。実際その顔は、三日ほど水をやり忘れた青菜のようにしなびていた。扇を握る指の節が白い。早くこの弔いが終わってほしいと、顔に書いてあった。
その後ろに大きな男が控えていた。
日に焼けた顔に、丸太のような腕。護衛の武士らしい。私の目は自然とその腰に吸い寄せられた。大きな包みが下がっている。あの形は握り飯だ。それも、かなり大きい。
じっと見ていると、男は気づいて慌てて包みを手で隠した。それから、なぜか照れたようにへにゃりと笑った。笑うと、大きな犬みたいな顔になる人だった。
やがて弔いが始まった。
泣き女衆は亡骸の左右に分かれて座る。読経がひと区切りついたところで、時雨が膝の上の数珠をひとつ鳴らす。それが合図だ。
時雨がすうっと息を吸う。次の瞬間、低く深い嘆きの声が広間いっぱいに満ちた。腹の底から湧き上がった声は、天井を這い、柱を伝い、聞く者の胸を内側から揺さぶっていく。参列の人々が、ひとり、またひとりと袖で顔を覆った。泣きたくても泣けずにいる人を、泣かせてやる。悲しみの出口を、声でこじ開けてやる。
私も声を合わせた。声は出す。涙は出さない。嘆きの節を正確になぞりながら、頭の片隅で私は今日の昼飯のことを考えていた。
弔いのあとは納棺だ。喪主と、出棺の方角を見る陰陽師が見守るなかで、亡骸を棺に納める。これも泣き女衆の仕事のうちだった。
「露、お前は衣を」
時雨に言われて、私は一枚の衣を受け取った。更衣さまが亡くなったとき身にまとっていたものだという。棺に一緒に納めるために、きれいに畳むのが私の役目だった。
棺の中の更衣さまはきれいな人だった。
頬は白い磁器のようになめらかで、閉じた瞼には、まだ眠っているだけのようなやわらかさが残っている。帝にいちばん愛されたお妃さまだったと、支度部屋の噂で聞いた。こんなに若くて、こんなにきれいで、それでも人は死ぬのだと、私は当たり前のことを思った。
自分の袖を手にかぶせて、その袖ごしに衣を畳んでいく。薄紅の、梅の花の色をした衣だった。
最後に袖を折りかえそうとした、そのときだ。袖口から何かがこぼれた。
白い、小さな花びらが一枚。
梅だった。
――梅?
この屋敷の庭に、梅の木は一本もないのに。
拾おうとして指を伸ばした。花びらがふわりと舞って、私の指先は、袖ごしではなく素手のまま衣の袖に触れていた。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
寒い。
膝の下の板が、氷のように冷たい。
あたりは真っ暗だ。月がない。
胸が、苦しい。息が、うまく吸えない。
その闇を、ひとすじの光が、すうっと流れていく。
星が流れた。
文は、まだ来ない。
まだ。まだ、来ない。
淋しい。
気がつくと、私の頬を涙が伝っていた。
ぽたり、ぽたりと、薄紅の衣に染みが広がっていく。泣き女衆の娘たちが息をのむ気配がした。時雨の顔色が変わったのが目の端に見えた。
そして私は、言わなくていいことを口に出していた。
「この方、寝床で亡くなったんじゃありません」
広間がしんと静まりかえった。
「寒い外で、星を見ながら、誰かを待って亡くなったんです」
ぱきり、と乾いた音がした。
頭中将の手の中で、扇の骨が折れていた。青菜のようだった顔から、さらに血の気が引いていく。
「申し訳ございません!」
時雨が私の頭を床に押しつけた。
「この子は、たまに寝ぼけるんでございます。ほら、お前も謝りな」
床に額をつけたまま、私は横目で広間をうかがった。誰もが凍りついている。その中でただひとり、あの白玉みたいな顔の陰陽師だけが、目を見開いて私を見ていた。
責める目ではなかった。驚いているのとも少し違う。まるで、なくした何かを思いもよらない場所で見つけたような――。
泣き顔を見られた、と思った、そのときだった。
私の腹が、盛大に鳴った。
静まりかえった広間に、私の腹の音は思いのほかよく響いた。
泣き女衆の娘たちがそろって目をそらした。時雨の眉がぴくりと跳ねた。頭中将はもう青菜を通り越して、干した菜っ葉のような顔をしている。穴があったら入りたい。穴の中に食べ物があるなら、なお入りたい。
そのとき、衣擦れの音がした。
あの陰陽師がこちらへ歩いてくる。誰も何も言えないまま、彼は私の前で膝をつき、無言で自分の袖に手を入れた。
出てきたのは、つやつやとした椿の葉にくるまれた餅だった。
「……くれるんですか」
陰陽師は答えなかった。ただ、差し出した手を引っこめもしなかった。
背後で、娘たちが悲鳴をのみこむ気配がした。けれど私の手は、考えるより先に動いていた。腹の虫というのは礼儀作法を知らない。
ひと口かじる。
「……うまっ」
声に出てしまった。葉の青い香りとほのかな甘さが、泣いたあとの口にじんわりと沁みていく。
それから、ふと思った。
「……なんか、懐かしい味」
人生でいちばんおいしかった、あの日の椿餅に似ている。けれど、あれをくれたのは鼻をすすっていた泣き虫で、目の前にいるのは女官を柱にぶつけさせる白玉だ。同じ袖から出てくるはずがない。
陰陽師がわずかに目を伏せた。笑ったのでも、呆れたのでもない。どう読めばいいのかわからない、変な顔だった。彼はそれきり何も言わずに立ち上がり、何事もなかったように元の場所へ戻っていった。
頭中将の後ろで、握り飯の男が自分の腹を押さえていた。
「……腹、減ったな」
ぼそりとつぶやく声が聞こえた。
「わかる」
思わず返してしまって、私はもう一度、時雨に額を床へ押しつけられた。
◆
袖が、軽くなっていた。
弔いを終えた屋敷の裏手で、昴は空になった自分の袖にそっと手を当てた。十年、絶えずそこに入れつづけてきたものが、今日ようやく行くべきところへ行った。
――泣き虫。あんたのぶんは、私が泣く。
あの日の声が、まだ耳の奥に残っている。棺の前で、自分のかわりに声が嗄れるまで泣いてくれた小さな女の子。泣き終えて腹を鳴らし、椿餅を頬張って、涙でぐしゃぐしゃのまま笑った顔。
「――変わっていない」
覚えていないなら、それでいい。
泣き虫だった子どもは、もうどこにもいない。いるのは、泣かないと決めた陰陽師だけだ。
昴はまだ明るい空を見上げた。星は見えない。それでも、そこにあることを彼は知っていた。
いっぱし、というのは声のことだ。私の声は葬列のいちばん後ろまでよく通る。腹の底から絞り出す嘆きの声も、細く長く尾を引くすすり泣きも、たいていのものは出せる。
ただし、涙は出さない。
声は出す。涙は出さない。それがこの仕事のこつだ。――と、私は勝手に思っている。
「露、支度はできたかい」
戸口から叔母の時雨が顔を出した。
物干し竿のように背筋の伸びた大柄な女で、声は低く、よく響く。この声ひとつで葬列ごと泣かせてしまう、都でいちばんの泣き女だ。そして都でいちばん銭勘定にうるさい泣き女でもある。いまも数珠の珠を、ぱちり、ぱちりと指で弾いていた。お経の数を数えているのではない。今月の稼ぎを数えているのだ。
「近ごろは忙しくて、ありがたいねえ」
時雨はほくほく顔で言った。
東のほうで、また戦があったらしい。人が死ねば弔いが増える。弔いが増えれば、時雨の仕切る泣き女衆の釜に米が入る。ありがたいと言えば罰が当たりそうだし、ありがたくないと言えば腹が減る。泣き女というのは、そういう商売だ。
私は鈍色の衣に袖を通した。墨を水で溶いたような喪の色だ。帯を締め、髪をうしろでひとつにまとめて白い紐でくくる。化粧はしない。泣き女が紅など差していたら、喪主に塩を撒かれる。
「で、今日はどちらです」
「梅壺の更衣さまだよ」
「……梅壺の?」
思わず聞き返した。
梅壺というのは、後宮にある御殿のひとつだ。更衣はお妃さまの位のひとつ。上から数えるより下から数えたほうが早い位だけれど、それでもお妃さまはお妃さまだ。私たちのような下々の泣き女が、めったに呼ばれる相手じゃない。
「病で内裏から下がられて、ご実家の寝床で静かに息を引き取られたそうだよ」
時雨は珠を弾く指を止めずに言った。
「まだお若いのに、気の毒にねえ。……ま、払いはいいはずさ」
最後のひと言さえなければ、いい話だったのに。
更衣さまのご実家は、都の北にある大きな屋敷だった。
門をくぐると、白砂を敷きつめた庭で桜がほころびかけていた。梅はもう終わりの頃だ。私はなんとなく庭を見回した。梅の木が一本でもあれば、夏には実が採れる。梅干しは白い飯にいちばんよく合う。
けれどこの屋敷の庭に、梅の木は一本もなかった。
屋敷の中からは色が消えていた。部屋という部屋に鈍色の几帳が立てまわされ、御簾の縁まで薄墨の色の布に掛けかえられている。喪の家は色を消すのが決まりだ。
「ねえ、聞いた? 今日は陰陽寮の昴さまがいらっしゃるのよ」
支度部屋で、泣き女衆の娘たちがひそひそと色めき立っていた。
「お顔、見たことある? 夜空を溶かしたみたいな瞳なんですって」
「見習いなのに、天文博士さまより先に星の異変を言い当てるんですって」
「この前なんて、見とれた女官が柱にぶつかったそうよ」
柱のほうが気の毒だ。
渡り廊下の向こうに、その陰陽師がいた。
すらりと背が高く、烏帽子の下の顔は月の光を集めたように白い。顔立ちは確かに整っていた。たとえるなら、ゆでたての白玉だ。つるんとしていて、どこにも引っかかるところがない。
……ただ、白玉は食べられるけれど、あの顔は食べられない。顔で腹はふくれない。私はすぐに興味を失った。
陰陽師は誰とも目を合わせず、ただ庭の空ばかり見上げていた。昼の空に星なんか出ていないのに。
奥の間には喪主の姿があった。亡くなった更衣さまの兄君で、頭中将と呼ばれている方だ。
頭中将――帝のそばで政を回す役と、内裏を守る近衛の隊長とを兼ねている人。つまり、都でいちばん忙しくて、いちばん顔色の悪い人だ。実際その顔は、三日ほど水をやり忘れた青菜のようにしなびていた。扇を握る指の節が白い。早くこの弔いが終わってほしいと、顔に書いてあった。
その後ろに大きな男が控えていた。
日に焼けた顔に、丸太のような腕。護衛の武士らしい。私の目は自然とその腰に吸い寄せられた。大きな包みが下がっている。あの形は握り飯だ。それも、かなり大きい。
じっと見ていると、男は気づいて慌てて包みを手で隠した。それから、なぜか照れたようにへにゃりと笑った。笑うと、大きな犬みたいな顔になる人だった。
やがて弔いが始まった。
泣き女衆は亡骸の左右に分かれて座る。読経がひと区切りついたところで、時雨が膝の上の数珠をひとつ鳴らす。それが合図だ。
時雨がすうっと息を吸う。次の瞬間、低く深い嘆きの声が広間いっぱいに満ちた。腹の底から湧き上がった声は、天井を這い、柱を伝い、聞く者の胸を内側から揺さぶっていく。参列の人々が、ひとり、またひとりと袖で顔を覆った。泣きたくても泣けずにいる人を、泣かせてやる。悲しみの出口を、声でこじ開けてやる。
私も声を合わせた。声は出す。涙は出さない。嘆きの節を正確になぞりながら、頭の片隅で私は今日の昼飯のことを考えていた。
弔いのあとは納棺だ。喪主と、出棺の方角を見る陰陽師が見守るなかで、亡骸を棺に納める。これも泣き女衆の仕事のうちだった。
「露、お前は衣を」
時雨に言われて、私は一枚の衣を受け取った。更衣さまが亡くなったとき身にまとっていたものだという。棺に一緒に納めるために、きれいに畳むのが私の役目だった。
棺の中の更衣さまはきれいな人だった。
頬は白い磁器のようになめらかで、閉じた瞼には、まだ眠っているだけのようなやわらかさが残っている。帝にいちばん愛されたお妃さまだったと、支度部屋の噂で聞いた。こんなに若くて、こんなにきれいで、それでも人は死ぬのだと、私は当たり前のことを思った。
自分の袖を手にかぶせて、その袖ごしに衣を畳んでいく。薄紅の、梅の花の色をした衣だった。
最後に袖を折りかえそうとした、そのときだ。袖口から何かがこぼれた。
白い、小さな花びらが一枚。
梅だった。
――梅?
この屋敷の庭に、梅の木は一本もないのに。
拾おうとして指を伸ばした。花びらがふわりと舞って、私の指先は、袖ごしではなく素手のまま衣の袖に触れていた。
しまった、と思ったときには、もう遅かった。
寒い。
膝の下の板が、氷のように冷たい。
あたりは真っ暗だ。月がない。
胸が、苦しい。息が、うまく吸えない。
その闇を、ひとすじの光が、すうっと流れていく。
星が流れた。
文は、まだ来ない。
まだ。まだ、来ない。
淋しい。
気がつくと、私の頬を涙が伝っていた。
ぽたり、ぽたりと、薄紅の衣に染みが広がっていく。泣き女衆の娘たちが息をのむ気配がした。時雨の顔色が変わったのが目の端に見えた。
そして私は、言わなくていいことを口に出していた。
「この方、寝床で亡くなったんじゃありません」
広間がしんと静まりかえった。
「寒い外で、星を見ながら、誰かを待って亡くなったんです」
ぱきり、と乾いた音がした。
頭中将の手の中で、扇の骨が折れていた。青菜のようだった顔から、さらに血の気が引いていく。
「申し訳ございません!」
時雨が私の頭を床に押しつけた。
「この子は、たまに寝ぼけるんでございます。ほら、お前も謝りな」
床に額をつけたまま、私は横目で広間をうかがった。誰もが凍りついている。その中でただひとり、あの白玉みたいな顔の陰陽師だけが、目を見開いて私を見ていた。
責める目ではなかった。驚いているのとも少し違う。まるで、なくした何かを思いもよらない場所で見つけたような――。
泣き顔を見られた、と思った、そのときだった。
私の腹が、盛大に鳴った。
静まりかえった広間に、私の腹の音は思いのほかよく響いた。
泣き女衆の娘たちがそろって目をそらした。時雨の眉がぴくりと跳ねた。頭中将はもう青菜を通り越して、干した菜っ葉のような顔をしている。穴があったら入りたい。穴の中に食べ物があるなら、なお入りたい。
そのとき、衣擦れの音がした。
あの陰陽師がこちらへ歩いてくる。誰も何も言えないまま、彼は私の前で膝をつき、無言で自分の袖に手を入れた。
出てきたのは、つやつやとした椿の葉にくるまれた餅だった。
「……くれるんですか」
陰陽師は答えなかった。ただ、差し出した手を引っこめもしなかった。
背後で、娘たちが悲鳴をのみこむ気配がした。けれど私の手は、考えるより先に動いていた。腹の虫というのは礼儀作法を知らない。
ひと口かじる。
「……うまっ」
声に出てしまった。葉の青い香りとほのかな甘さが、泣いたあとの口にじんわりと沁みていく。
それから、ふと思った。
「……なんか、懐かしい味」
人生でいちばんおいしかった、あの日の椿餅に似ている。けれど、あれをくれたのは鼻をすすっていた泣き虫で、目の前にいるのは女官を柱にぶつけさせる白玉だ。同じ袖から出てくるはずがない。
陰陽師がわずかに目を伏せた。笑ったのでも、呆れたのでもない。どう読めばいいのかわからない、変な顔だった。彼はそれきり何も言わずに立ち上がり、何事もなかったように元の場所へ戻っていった。
頭中将の後ろで、握り飯の男が自分の腹を押さえていた。
「……腹、減ったな」
ぼそりとつぶやく声が聞こえた。
「わかる」
思わず返してしまって、私はもう一度、時雨に額を床へ押しつけられた。
◆
袖が、軽くなっていた。
弔いを終えた屋敷の裏手で、昴は空になった自分の袖にそっと手を当てた。十年、絶えずそこに入れつづけてきたものが、今日ようやく行くべきところへ行った。
――泣き虫。あんたのぶんは、私が泣く。
あの日の声が、まだ耳の奥に残っている。棺の前で、自分のかわりに声が嗄れるまで泣いてくれた小さな女の子。泣き終えて腹を鳴らし、椿餅を頬張って、涙でぐしゃぐしゃのまま笑った顔。
「――変わっていない」
覚えていないなら、それでいい。
泣き虫だった子どもは、もうどこにもいない。いるのは、泣かないと決めた陰陽師だけだ。
昴はまだ明るい空を見上げた。星は見えない。それでも、そこにあることを彼は知っていた。

