潮風に髪を揺らしながら、海に向かって立つ。息を吸う気配がひとつ落ち、次の瞬間、澄んだ声が空気を押し広げた。無理に張り上げるでもないのに声は揺れずに伸び、波音に負けていない。
寄せては返す波が伴奏のように重なり、高いところも低いところも滑らかにつながっていく。
優太が選んだのは、ずっと前に俺が教えた曲だった。もう何度も聞いているし、優太が歌っているのも知っている。けれど、こんなところで聞くのは初めてだ。
歌い終えたあとの余韻を、風がゆっくりさらっていく。優太が息を整え、こちらへ向き直ってお辞儀をしたので、俺は拍手をした。
「どう?」
「……上手くなったよなぁ」
「本当? どの辺?」
「圧が強い」
「気になるもん」
もう一回サビのところを歌ってもらいながら、前と変わったところを話す。途中で歌い方を変えて、こっちはどう、と聞かれたので、俺は少し考えてから首を振った。
「さっきの方が好き」
「そっか」
「そっちも悪くはないけど、この曲なら最初の方」
優太は頷き、確かめるようにもう一度歌った。
歌が終わると、優太は砂浜に座っていた俺の隣へ腰を下ろした。もうズボンが汚れるとか言う気もなくなっている。
「録っとけばよかった」
「今からもう一回歌おうか?」
「いや、いい。聞いていたいから」
スマホの画面を見ているのも勿体ない。優太はそう、と笑って、俺の肩へこつんと頭を当てた。
「楽しい?」
「うん」
「よかった」
風で乱れた髪が頬に触れる。いつもだったら邪魔だと言って押し返しているのに、今日はそれができなかった。優太が顔を上げたら、どれくらい近くなるんだろうとか、考えてしまうから余計に動けない。
言うなら、今かもしれない。知らない場所で、ほかに知っている人は誰もいなくて、優太も俺を見ている。
でも、どれを。
好きだと言う? otoは俺だって言う? 今さら?
「……優太」
「ん?」
目が合ったら、やっぱり無理だった。言ったあとの反応次第で、同じ電車で帰れる自信がない。
「腹、減らない?」
「減った。何か食べよう」
優太が先に立ち上がり、俺へ手を差し出した。掴まると勢いよく引っ張られて、足元の砂が崩れる。
「危ないな」
「ごめん」
そう悪づきながら手を離したのは俺の方だった。制服のズボンについた砂を払うからと言い訳をしながら。
「もうちょっと歩く?」
「うん。まだ時間あるし」
波打ち際まで戻り、今度は海の写真を撮ったりした。
「……そろそろ行くか。ランチの時間終わりそう」
「うん。あ、駅行く前にお土産見たい」
「俺も。みこ姉に買って帰らないと」
土産を買ったから思っていたより出費はかさんだ。優太が横から「これも美琴ちゃん好きそう」なんて言うので、それも足したら袋が大きくなったけど、誤魔化してもらった手前文句も言えないし、献上品は多いほうがいい。
家に戻ると、みこ姉は俺の顔を見るなり笑った。
「ちゃんと帰ってきた」
「帰ってくるに決まってるよ。はい、お土産」
「ありがと。楽しかった?」
「うん」
「ならよし。ちゃんと明日は行きなよ」
「分かってる」
部屋に戻り、鞄を置いてパソコンを開く。作りかけの曲を再生すると、途中までは悪くない。
でも優太に言われたところは、やっぱり気になった。
何度も直していた最後の歌詞をいったん別のところへ移した。今も間違ったことを書いたつもりはないから消すのは惜しい。
それから会えなくなってからのことばかり書いていた部分を見直す。まだ目の前にいる相手に随分気の早い話をしている。
いつもみたいに語彙と語感で言葉を組み合わせるのではなく、今日はひとまず、書きたいことをそのまま書いてみる。
海で聞いた歌や、帰りに買った土産のことをメモに書いた。優太が俺の分の菓子まで選んで、結局自分でも食べたこと。電車の中で寝そうになったくせに、着いたら起こせと言うので、俺が寝たらどうするんだと文句を言ったこと。本を読んで考えたこと。何度も教え合った曲を、きっとこの先も忘れないだろうということ。
歌詞には使えそうもないものばかりだったが、書いているうちに、言葉の入らなかったところへ一つ収まった気がする。
コンテストに出すのだからと気負いすぎていたのかもしれない。
そこから続きを打ち込んでいると、スマホが震えた。
『昨日の話なんですけど』
otoの方だった。
『そういう意味では考えたことなかったなって』
まあそりゃあそうだよなと思っていると『でも』と続いた。
『一生付き合っていく相手だって思ってるので』
「えぇ……」
こっちの気も知らないで。隠しているから、優太が知る由もないけれど。
「……つみぶか」
今日、俺と一日遊んできて、それを俺に送ってくるのか。
『大事な人なんですね』
それだけ返すと、すぐに『はい』と返ってきて、俺はスマホを机に伏せ、パソコンの歌詞の画面へ戻る。
一生付き合っていく相手。そりゃ、俺だってそうなりたい。でも、たまに会って昔話をするのと、今日みたいに隣にいるのとでは全然違う。
優太も今は俺と一緒に音楽をやっているけれど、また次のステージへ行く日も来るのだろう。俺も一緒に行くのかもしれないし、優太のステップの一つになるのかもしれない。
そのとき、俺はちゃんと背中を押せるだろうか。
そんな風に思いながら、最後の一行は、やっぱり残した。
翌日、直した音源を送ると、優太からは前より好きだと返ってきた。続けて、最後はまだ迷っているのかと聞かれる。
『そこは残したいです』
今回は、言い訳をつけずに送った。
『分かりました。歌ってみます』
届いた録音を聞くまで、また何か言われるだろうかと気になっていた。
優太は、最初に送ってきたときほど引き留めるようには歌わなかった。でも、俺が仮の声で作ったものより、ずっと名残惜しそうだった。これなら、その前の歌詞からも繋がる。
『最後、もう一回聞いてもいいですか?』
何を聞くのかと思って待っていると、すぐに続きが来た。
『忘れてもいい、とは思ってないですよね』
俺は歌詞を見たまま、少し笑ってしまった。
『思ってないです』
『よかった。そこは変えないで歌います』
伴奏の終わりを伸ばしてみたが、今度は長すぎたので、半分戻した。
届いた歌を聞きながら、伴奏を最後まで直していく。未練がましいところは、少しくらい残っていてもいい。俺の作る歌なんだから。
『伴奏を直しました』
返事を待つ間に一度自分でも聞き直そうとしたら、再生ボタンを押すより先にメッセージが来た。
『今から聞きます』
今度は、聞き終わった頃になっても返事が来なかった。
今までなら好きなところや気になったところをすぐに送ってくるのに、何もない。風呂にでも呼ばれたのかもしれないと思いながら、自分でも最初から再生してみる。
もう歌ってもらったあとだけど、改めて聞くと少し歌詞が重かっただろうか。小説のことを書いているはずなのに、俺の気持ちが剥き出しすぎた気もする。
もう一度聞き終えたところで、スマホが震えた。
『これで、いきたいです』
よかったのかどうなのか、もう少し何か言ってくれ。だけど自分から感想を催促するのも変な気がして、送った画面を眺めていると、続きが届いた。
『でも、最初をどう歌うか考えてたんですけど、なかなか決められなくて』
いつもは音源を聞いてすぐに歌ったものを送ってくるのに珍しい。
『もっと寂しい歌だと思ってたんですけど、伴奏が変わると結構明るいですね』
『変ですか?』
『いや、もう少し歌ってみます』
翌日、学校から帰ると、優太から短い音源が届いていた。
最初の部分だけだったが、聞いてすぐ、いつもの歌い方と違うのが分かった。綺麗に伸ばせるところを伸ばさず、言葉を置くように歌っている。
少し声を張ればもっと華やかになるのに、そうしない。その分、次の言葉を聞きたくなって、俺は作業する手を止めてしまった。
『こんな感じで合ってますか?』
『好きです』
考えるより先に送ってから、慌てて続きを打つ。
『この感じで、サビまで聞いてみたいです』
そのあとも録音を送ってもらいながら直していると、どうしても言葉が入りきらないところがあった。俺が歌詞を削ろうとすると、優太から待ってほしいと返ってきた。
『ここ、残したいです』
指されていたのは、「君の明日に、僕がいなくても」というところだった。
青年はそう思っていても、少年はそんな明日を欲しがっていない。言葉が入りきらないので、もっと短い言い方に直すつもりだったのだが。
『歌いづらくないですか?』
『ちょっと。でも、ここが好きなので』
しばらくして届いた音源では、前の言葉を少し早く切り上げ、俺が削ろうとした一節を歌っていた。
無理に詰め込んだ感じもしない。続けて伴奏と合わせてみても、こっちの方がよかった。
『これでいきましょう』
『よかった』
『何でそこが好きなんですか?』
送ってから、また余計なことを聞いていると思った。
『いなくなりたいわけじゃないのが、分かるので』
俺は返信欄を開いたまま止まった。優太はさらに、少年には伝わってほしいですね、と送ってくる。
俺は『そうですね』としか返せなかった。
寄せては返す波が伴奏のように重なり、高いところも低いところも滑らかにつながっていく。
優太が選んだのは、ずっと前に俺が教えた曲だった。もう何度も聞いているし、優太が歌っているのも知っている。けれど、こんなところで聞くのは初めてだ。
歌い終えたあとの余韻を、風がゆっくりさらっていく。優太が息を整え、こちらへ向き直ってお辞儀をしたので、俺は拍手をした。
「どう?」
「……上手くなったよなぁ」
「本当? どの辺?」
「圧が強い」
「気になるもん」
もう一回サビのところを歌ってもらいながら、前と変わったところを話す。途中で歌い方を変えて、こっちはどう、と聞かれたので、俺は少し考えてから首を振った。
「さっきの方が好き」
「そっか」
「そっちも悪くはないけど、この曲なら最初の方」
優太は頷き、確かめるようにもう一度歌った。
歌が終わると、優太は砂浜に座っていた俺の隣へ腰を下ろした。もうズボンが汚れるとか言う気もなくなっている。
「録っとけばよかった」
「今からもう一回歌おうか?」
「いや、いい。聞いていたいから」
スマホの画面を見ているのも勿体ない。優太はそう、と笑って、俺の肩へこつんと頭を当てた。
「楽しい?」
「うん」
「よかった」
風で乱れた髪が頬に触れる。いつもだったら邪魔だと言って押し返しているのに、今日はそれができなかった。優太が顔を上げたら、どれくらい近くなるんだろうとか、考えてしまうから余計に動けない。
言うなら、今かもしれない。知らない場所で、ほかに知っている人は誰もいなくて、優太も俺を見ている。
でも、どれを。
好きだと言う? otoは俺だって言う? 今さら?
「……優太」
「ん?」
目が合ったら、やっぱり無理だった。言ったあとの反応次第で、同じ電車で帰れる自信がない。
「腹、減らない?」
「減った。何か食べよう」
優太が先に立ち上がり、俺へ手を差し出した。掴まると勢いよく引っ張られて、足元の砂が崩れる。
「危ないな」
「ごめん」
そう悪づきながら手を離したのは俺の方だった。制服のズボンについた砂を払うからと言い訳をしながら。
「もうちょっと歩く?」
「うん。まだ時間あるし」
波打ち際まで戻り、今度は海の写真を撮ったりした。
「……そろそろ行くか。ランチの時間終わりそう」
「うん。あ、駅行く前にお土産見たい」
「俺も。みこ姉に買って帰らないと」
土産を買ったから思っていたより出費はかさんだ。優太が横から「これも美琴ちゃん好きそう」なんて言うので、それも足したら袋が大きくなったけど、誤魔化してもらった手前文句も言えないし、献上品は多いほうがいい。
家に戻ると、みこ姉は俺の顔を見るなり笑った。
「ちゃんと帰ってきた」
「帰ってくるに決まってるよ。はい、お土産」
「ありがと。楽しかった?」
「うん」
「ならよし。ちゃんと明日は行きなよ」
「分かってる」
部屋に戻り、鞄を置いてパソコンを開く。作りかけの曲を再生すると、途中までは悪くない。
でも優太に言われたところは、やっぱり気になった。
何度も直していた最後の歌詞をいったん別のところへ移した。今も間違ったことを書いたつもりはないから消すのは惜しい。
それから会えなくなってからのことばかり書いていた部分を見直す。まだ目の前にいる相手に随分気の早い話をしている。
いつもみたいに語彙と語感で言葉を組み合わせるのではなく、今日はひとまず、書きたいことをそのまま書いてみる。
海で聞いた歌や、帰りに買った土産のことをメモに書いた。優太が俺の分の菓子まで選んで、結局自分でも食べたこと。電車の中で寝そうになったくせに、着いたら起こせと言うので、俺が寝たらどうするんだと文句を言ったこと。本を読んで考えたこと。何度も教え合った曲を、きっとこの先も忘れないだろうということ。
歌詞には使えそうもないものばかりだったが、書いているうちに、言葉の入らなかったところへ一つ収まった気がする。
コンテストに出すのだからと気負いすぎていたのかもしれない。
そこから続きを打ち込んでいると、スマホが震えた。
『昨日の話なんですけど』
otoの方だった。
『そういう意味では考えたことなかったなって』
まあそりゃあそうだよなと思っていると『でも』と続いた。
『一生付き合っていく相手だって思ってるので』
「えぇ……」
こっちの気も知らないで。隠しているから、優太が知る由もないけれど。
「……つみぶか」
今日、俺と一日遊んできて、それを俺に送ってくるのか。
『大事な人なんですね』
それだけ返すと、すぐに『はい』と返ってきて、俺はスマホを机に伏せ、パソコンの歌詞の画面へ戻る。
一生付き合っていく相手。そりゃ、俺だってそうなりたい。でも、たまに会って昔話をするのと、今日みたいに隣にいるのとでは全然違う。
優太も今は俺と一緒に音楽をやっているけれど、また次のステージへ行く日も来るのだろう。俺も一緒に行くのかもしれないし、優太のステップの一つになるのかもしれない。
そのとき、俺はちゃんと背中を押せるだろうか。
そんな風に思いながら、最後の一行は、やっぱり残した。
翌日、直した音源を送ると、優太からは前より好きだと返ってきた。続けて、最後はまだ迷っているのかと聞かれる。
『そこは残したいです』
今回は、言い訳をつけずに送った。
『分かりました。歌ってみます』
届いた録音を聞くまで、また何か言われるだろうかと気になっていた。
優太は、最初に送ってきたときほど引き留めるようには歌わなかった。でも、俺が仮の声で作ったものより、ずっと名残惜しそうだった。これなら、その前の歌詞からも繋がる。
『最後、もう一回聞いてもいいですか?』
何を聞くのかと思って待っていると、すぐに続きが来た。
『忘れてもいい、とは思ってないですよね』
俺は歌詞を見たまま、少し笑ってしまった。
『思ってないです』
『よかった。そこは変えないで歌います』
伴奏の終わりを伸ばしてみたが、今度は長すぎたので、半分戻した。
届いた歌を聞きながら、伴奏を最後まで直していく。未練がましいところは、少しくらい残っていてもいい。俺の作る歌なんだから。
『伴奏を直しました』
返事を待つ間に一度自分でも聞き直そうとしたら、再生ボタンを押すより先にメッセージが来た。
『今から聞きます』
今度は、聞き終わった頃になっても返事が来なかった。
今までなら好きなところや気になったところをすぐに送ってくるのに、何もない。風呂にでも呼ばれたのかもしれないと思いながら、自分でも最初から再生してみる。
もう歌ってもらったあとだけど、改めて聞くと少し歌詞が重かっただろうか。小説のことを書いているはずなのに、俺の気持ちが剥き出しすぎた気もする。
もう一度聞き終えたところで、スマホが震えた。
『これで、いきたいです』
よかったのかどうなのか、もう少し何か言ってくれ。だけど自分から感想を催促するのも変な気がして、送った画面を眺めていると、続きが届いた。
『でも、最初をどう歌うか考えてたんですけど、なかなか決められなくて』
いつもは音源を聞いてすぐに歌ったものを送ってくるのに珍しい。
『もっと寂しい歌だと思ってたんですけど、伴奏が変わると結構明るいですね』
『変ですか?』
『いや、もう少し歌ってみます』
翌日、学校から帰ると、優太から短い音源が届いていた。
最初の部分だけだったが、聞いてすぐ、いつもの歌い方と違うのが分かった。綺麗に伸ばせるところを伸ばさず、言葉を置くように歌っている。
少し声を張ればもっと華やかになるのに、そうしない。その分、次の言葉を聞きたくなって、俺は作業する手を止めてしまった。
『こんな感じで合ってますか?』
『好きです』
考えるより先に送ってから、慌てて続きを打つ。
『この感じで、サビまで聞いてみたいです』
そのあとも録音を送ってもらいながら直していると、どうしても言葉が入りきらないところがあった。俺が歌詞を削ろうとすると、優太から待ってほしいと返ってきた。
『ここ、残したいです』
指されていたのは、「君の明日に、僕がいなくても」というところだった。
青年はそう思っていても、少年はそんな明日を欲しがっていない。言葉が入りきらないので、もっと短い言い方に直すつもりだったのだが。
『歌いづらくないですか?』
『ちょっと。でも、ここが好きなので』
しばらくして届いた音源では、前の言葉を少し早く切り上げ、俺が削ろうとした一節を歌っていた。
無理に詰め込んだ感じもしない。続けて伴奏と合わせてみても、こっちの方がよかった。
『これでいきましょう』
『よかった』
『何でそこが好きなんですか?』
送ってから、また余計なことを聞いていると思った。
『いなくなりたいわけじゃないのが、分かるので』
俺は返信欄を開いたまま止まった。優太はさらに、少年には伝わってほしいですね、と送ってくる。
俺は『そうですね』としか返せなかった。


