みんなの恋人だった僕が先輩だけの恋人になるまで

「言えよ」
 後ずさった僕を追い詰めるように先輩が一歩歩を詰める。とっさにもう一歩下がる。するとさらに一歩。
「あ、の、先輩」
「なに」
「このままだと、プールに落ちちゃうので。もう」
「俺も藤野をプールに落としたいわけじゃない。好きなやつにそんなのしたいわけない」
 好き、なやつ。
 また聞こえてきた、好き、に僕は立ちすくむ。その間に先輩に間合いに入られた。あ、と思う間もなく手首を掴まれる。
「だからちゃんと教えて。藤野は俺を誰と混同してる?」
「そんなの、気にしなくても……」
「はあ?」
 先輩の整った顔面にはっきりと苛立ちが走る。
「気にするだろ。恋人なんだから」
「え! でもあの」
「恋人だろ。藤野もいいって言ったよね」
「言いましたけど。それ、先輩も僕が便利だからじゃ……」
「も」
 繰り返してから先輩はずっと僕に顔を寄せてくる。
「その言い方さ、やっぱりあれ? 前にも恋人になろうって言われた相手がいたってこと?」
 胸の奥がきりっと軋んだ。歪んだ顔を見られたくなくて顔を背ける。けれど先輩に顎を掴まれて俯けなくなった。
 どうしよう……でもちゃんと言わないと許してくれなさそうな顔をしている。
「ちゅ、中学のときに……」
「付き合ってたの?」
「付き合おうとは言われました、けど、付き合っていたかというとよく……呼ばれたときに行くだけだったので……」
「それ、藤野から会いたいとか言わなかったの」
 会いたいって言う? いやいや、そんなことできる雰囲気なんてなかった。
 思わず首を大きく振る。はずみで先輩の手が外れた。
「会いたいなんて言っていい相手じゃなかったので。そもそも僕は……」
 ――いいやつ以外、取柄なくない?
 くっとまた胸が痛くなる。思わず掌で胸を押さえたとたんだった。
「もうわかった」
 呻くように先輩が息を吐く。怒らせちゃっただろうか、と身をすくめた僕の手首を不意に先輩が引っ張った。
 ……先輩は僕に触れることがある。
 それは頭を撫でてきたり、膝に頭を乗せてきたり、箸を渡してきたり。
 でもそれはこんなに荒っぽい仕草じゃない。
 驚いている間に先輩の顔が正面にくる。先輩、と呼ぼうとした。その瞬間。
 先輩の唇によって、唇が塞がれた。
 襲い掛かってきたのは……ふわっとした柔らかい感触。
 これは……なに? え、これもしかして。
 ……僕、先輩、とキス、してる?
 悟ったとたん、くらっと、した。
「藤野、お願いがある」
 おろおろしている間に、さらっと唇が解ける。
「え、え、あの……」
 お願い……お願い?
 直前にされたキスのせいで脳が全然言うことを聞かない。朦朧としながら僕は首を傾ける。
「なん、でしょうか」
「その付き合ってた人のこと、今ここで俺で上書きしてほしい」
 上書きってなんだ……?
 混乱する僕の顎から先輩の手が解ける。けれど手は完全には離れていかず、僕の頬に当てられた。
「藤野はそいつのこと悪く言いたくないんだろうけど、藤野の顔見てればわかる。大事にされなかったんだろうなってのは」
「そんな、ことは」
 ない、と言いたかった。言いかけて口を噤む。勝手に瞼が熱くなる。目を伏せたとき、くいっと頬を包む手によって顔を上げさせられた。
「俺はそいつとは違う。そいつがどんなつもりで藤野に付き合おうって言ったかはしんないけど、藤野を大事にしなかったやつと一緒にされるのはめちゃくちゃ不愉快なんだよ。わかる?」
「あ、えと、でも、僕じゃ、先輩には似合わな……」
「はああ、もうめんどい」
 言ったとたん、先輩の手が僕の頬から離れる。
 さっきまであった温もりが消えて、思わずすがるように見上げてしまう。先輩はそんな僕の視線を受け止めてはくれなかった。見るのも嫌と言いたげにすっと目が逸らされる。
 瞬間、胸がずくり、と痛んだ。
 ごめんなさい、と即座に謝りたくなった。でもこんな状態でも僕はまだ、先輩の言葉を信じられない。
 なんで僕はこんななんだろう。
 ――咲人みたいなのって一番誠意ないって思う。
 ああ、本当にそうだ。
 脳裏に過ぎったひかるからの非難の言葉に僕は頷く。
 さすがの僕にもわかってはいた。先輩は坂本先輩とは違うって。本気で僕のことを考えてくれているんだって。
 そうじゃなきゃ、弁当を作ってくれたり、レジャーシート敷いてくれたり、しない。
 あんなふうに笑顔を見せてくれたり、しない。
 わかっているんだ。すごく。でも……怖い。
 またあんな思いをするかと思ったら……怖くて立っていられない。
 もう、どうしたらいいか、わかんない。
 俯く僕の脇をすっと先輩が抜けていく。その潔いくらいの風圧に目を瞑りかけて僕はふと、違和感を覚えた。
「先輩?」
 声をかけても先輩は止まらない。そのまままっすぐに歩いていく。先輩の進む先にあるのは、水の色が緑色に変色したプール。
「え……」
 なに? なにしてるの?
 唖然とする僕の前で先輩はプールの縁にひょい、と上がる。先輩の目がこちらをついと見た。
「藤野はさ、自分に価値がないって思ってるわけだろ」
「まあ……あの! 先輩、一体なにを……」
「俺みたいな人、ええと、なんだっけ? ビジュがよくて? 堂々としてて? 頭がいい人だっけ。そういうのと自分じゃつり合いが取れないとか言ってたよね」
「あ……」
 どう答えていいかわからない。でも……嘘は、つけない。
「よくわかった」
 こくんと頷くと、先輩がくっと薄い唇を歪めた。
「藤野がそこまで言うなら、イケメンなんて呼ばれないようにしてやる」
「はっ?!」
 ちょっと、と声を上げかけた。その僕に向かって先輩がふっと、笑った。
 ……先輩?
 涼しげなその笑顔に見惚れた次の瞬間。
 先輩の長い足がひょい、っとプールの縁を蹴っていた。
 聞こえてきたのは……盛大な水音。
「ちょっ……!」
 嘘だろ! なにやってんのこの人!
 ぎょっとしてプールを覗き込むが、先輩の姿はない。
「先輩!」
 うそっ……! なんで上がってこないの? もしかして溺れて、る?
 矢も楯もたまらなかった。制服の上着を脱ぎ捨て、プールへ足を入れる。
 ぬるっとした感触が制服越しに一気に押し寄せてきてめちゃくちゃ気持ち悪い。しかも水草だか藻だかが盛大に生えてて絡みついてくるし!
 でも、黙ってプールサイドでおろおろとなんてしてられない。
 ぷくぷくと水面に浮かぶ水泡。その水泡が弾ける音に混じって声が聞こえる。
 ――俺の恋人になってほしい。
 ――よかった。
 ――藤野、ありがとな。
 僕はわからなかった。先輩の気持ちがずっと。でももっとわからないのは自分の気持ちだった。
 なんでこんなに喜んでほしいって思うのか。
 なんでこんなに笑顔が見たいって思うのか。
 なんで。
 でも、今ならわかる。今なら。
「先輩!」
 足がほんのりつくかつかないかのプールでじたばたしながら叫ぶ。返事はない。嘘……と水面をばしゃばしゃしながら見回したとき。
 僕の傍らで水面がぶわっと大きく波打った。
「やっばっ……水めっちゃキモっ!」
 ざばっと水面に顔を出したのは、先輩。
 頭に張り付いた藻を乱暴に剥がして捨てながら叫んだ先輩は、同じくプールにいる僕をいつもみたいにじいっと凝視した後、照れたように微笑んだ。
「なに飛び込んでんの、馬鹿」
「ばっ……」
 馬鹿? え、馬鹿って言った? この人。
 ってか馬鹿は……。
「馬鹿はあんただ! 馬鹿!」
 我を忘れて怒鳴ると先輩がぽかんとする。ぽたぽたと前髪から水滴を垂らすその先輩の胸倉を僕は水の中で引っ掴む。
「なにやってんの! こんなとこ飛び込んで! 汚いし、臭いし! 頭いい人のやることじゃないでしょうが!」
「あー……」
 ぎゃんぎゃん言う僕を呆気に取られた顔で先輩が見つめてくる。漂ってきた沈黙に僕はふっと口を閉じた。
 うわ……僕、先輩になんてこと……。
「よかった、成功だ」
 ぼそりと声が耳に飛び込んできて顔を上げる。と、水の中、いきなりくいっと腰が抱かれた。
「は、え?!」
「上がろう。風邪引くよ」
「それ先輩が言うことですか!」
「確かに。こんなん頭のいいやつのやることじゃないよな、ほんと」
 言いながら、先輩は僕の腰に腕を回したままプールサイドまでたどり着く。水からざばりと体を引き抜きプールから上がると、先輩は僕に向かって片手を差し出した。
「ほら」
 目の前にある手を僕は声もなく見つめる。そろそろと手を伸ばしかけて躊躇う。その僕に手を差し出したまま、先輩が低い声で囁いた。
「頭悪くて汚くて臭い俺は触るのも嫌?」
「そんなわけないだろ!」
 かっとなって先輩の手を取る。先輩はちょっと目を見開いてから、うっすらと笑った。
「ほんとよかった。飛び込んでみて」
「はあ?! なに言っ、てるんですか。こんなになってなにがよかったって……」
「だってこうなったおかげで藤野がやっと本音で話、してくれてるから」
 僕を水の中から引っ張り上げた先輩が呟く。そうして、握った手をそのままに、反対の手で僕の額に張り付いた髪をそうっと搔き上げてくる。
「けど、藤野まで飛び込むと思わなくて。ごめん。ちょっと待っててな。保健室行けばタオルとかあると思うから」
 そう言って立ち上がる。するっと解けた先輩の手を僕はとっさに引き留めた。
 驚いたように先輩がこちらを見る。
 ずぶ濡れで、制服だって泥水のせいで変色してしまっている。水草特有の生臭さを漂わせてしまってもいる。
 そんななのに、先輩はすごくかっこよかった。やっぱり……僕が手を繋いでいい相手じゃない気もした。
 けれど、手を離そうとは思わなかった。
 だってこの人は、本気で僕のことを好きでいてくれる。
 本気で話してくれてうれしい、って言ってくれる。
 ううん、それだけじゃない。
「浮かんでこなかったら、どうしようかって、思った」
 漏れた声が滲んでいる。はっとしたように先輩が僕の脇に膝を突いた。
「いや。だって藤野が頭いいのが嫌とかイケメンが嫌とか言うから」
「嫌なんて言ってない!」
 一度怒鳴ってしまったらたがが外れちゃったのかもしれない。大声に怯んだのか、先輩が背中を反らせる。そうされて照れ臭くなったけれど、もう止められなかった。
「僕は……好きだから。かっこいい先輩も。頭いい先輩も。泥水でどろどろの先輩も! 全部……!」
 あ、というように先輩の唇が開く。そうされて今更ながらかっと頬が熱くなる。
「ええと、あの」
「それは……みんなの恋人として、ではなく?」
 問われて、恥ずかしさが怒りに変わった。
 そりゃあ、ここまで先輩の、恋人になってほしい、をまっすぐに受け止められなかった僕が全面的に悪い。でもこの状況でその言い方はなくないか?
 苛立って立ち上がり、プールサイドを後にしようと走り出す。でも入り口のフェンスに辿り着く前に捕まえられた。
 闇雲に暴れようとする僕を先輩が背中から抱きしめた。
「ごめん。嫌なこと言った。ほんと、ごめん」
 僕を胸に収めたまま、先輩が繰り返し謝る。さっき水の中で引き寄せられたときよりも強い力で抱きしめられて、僕はふっと体から力を抜いた。
 抱きしめてくる腕から、行かないで、という先輩の心の声が聞こえた気がした、から。
 本当にこの人は優しくてまっすぐだ。僕なんかより、ずっと。
 それに比べて僕はなんにもわかってなかった。考えれば考えるほど、激しく落ち込みそうになる。でもその自分の声を僕は頭を振って退ける。
 ここで今、思うべきはそういうことじゃない。
「先輩」
「うん」
「好き、です」
 そうっと言ったとたん、抱きしめてくる腕が震えた。
「これからも……一緒にご飯、食べて、くれますか?」
 僕の体を包んでいた腕からふわっと力が抜けた。そのまま、腕の中で体の向きを変えられる。とたん、先輩の髪にまとわりついていた雫がぽたり、と僕の頬に落ち、それを長い指で先輩が拭った。
「うん」
 頷いた先輩の前髪からまたぽたりと雫が落ちる。それをまた、先輩は拭う。
 落ちるたびに何度も。
「食べるから、約束して」
「約、束?」
「もう藤野は俺だけの恋人。それ自覚して。いい?」
 多分少し前だったら躊躇っちゃったかもしれない。
 でも、僕は頷いていた。その僕の仕草に安堵したように先輩はふっと笑うとそのまま身を屈め……僕にもう一度キスをした。
 ……さっきもしたのに。さっきはここまでじゃ、なかったのに。
 立っていられないくらい足元がふらつく。
 慌てる僕を先輩の腕が支える。その腕の力にもどきどきする。そわそわして……いたたまれなくて。
 うれしく、て。
 ただ……。
「僕、臭い、から」
 唇が離れたのと同時に言うと、先輩が顔をしかめた。
「直後にそれ?」
「いや、だって、あの……っ。まさかプールの水がこんな臭いとはっ。先輩、すみません」
「藤野が臭いなら俺もだってば」
 苦笑いした先輩が僕の手を握る。そのまま、くんっと引っ張る。
「仕方ない、保健室行こっか」
 はい、と頷きつつ、そこではたと我に返る。
 こんなずぶ濡れで校内歩いて大丈夫か? しかも先輩は人気者だ。そんな人と手、繋いでていい、んだろうか。
「え! ちょっと! 高宮先輩?!」
「なにあれ! どろどろじゃん……」
「ってか、誰? 手、繋いでるけど、え?!」
 校舎に戻ってくるなり覆いかぶさってきた複数の声に僕は顔を伏せる。
 そりゃあそうなるよなあ、と思う。ごめんなさい先輩、とちらっと先輩を見上げると先輩もこちらを見た。
 いつも通りのごくごく淡々とした顔を間近く見て……肩から力が抜けた。
 しかもなにも言ってないのに、繋いだ手にきゅっと力を込めてくれる。
 こんな人の隣にいて俯いているほうがだめじゃないか?
 顔、上げなきゃ、と濡れた前髪をそっと掻き分けて前を向いたとき、あ! と声が響いた。
「いた! 藤野! 購買でパン買ってきてもらおうと思ってたのになんで最近お前いねえの……って、え?! なんでそんな濡れてんの? ってかなに、高宮も? 一体何事?!」
 頓狂な声をあげたのは黒木先輩だ。目を剥いて叫びながら近づいてくる。
「あ、ええと」
 高宮先輩の手は相変わらず僕の手を掴んでいる。それを僕はそうっと外した。
 恥ずかしいからじゃない。そうじゃなかった。
「黒木先輩」
「ん?」
 友達と一緒にこちらに近づいてこようとしていた先輩が首を傾げる。
 その顔を見ながら小さく深呼吸をする。そして……言った。
「僕、パン買っていったとき、先輩が喜んでくれるの、うれしかったです」
「あ、え?」
 よくわからない、という顔をされる。そうかもしれない。でもこの顔をさせてしまっていたのは僕だ。
 誰のせいとかじゃない。優しさとか価値の意味を読み違えてしまっていた僕の責任だ。
 だから、これで終わりにする。
「でももうやりません。みんなの恋人ってのももうやめます。その時間、ほかの人のために使いたいので」
「ほかの人?」
 黒木先輩が眉間にしわを寄せて尋ねてきたけれどそれには答えず、僕は頭を下げた。そのまま自分から高宮先輩の手を取る。
「失礼します」
 背中で黒木先輩が、え、なにどゆこと? と騒いでいる。けれど足を止めずに僕は進んだ。まっすぐ、前を向いて。
 俯かないで。
 その僕の耳に、咲人、と呼ぶ声が聞こえた。
「あ……」
 見ると、踊り場からひかるが成田さんと一緒にこちらを見ていた。
 ――媚びでもなんでも売って好かれたらいいじゃん。
「ひかる、あの」
 言いかけた僕の視線の先で、ふっとひかるの右手が上がる。その親指がくいっと、立てられた。
「いいぞ、咲人!」
 大声で言ってひかるが笑う。ひかるちゃん、と成田さんがひかるの腕を引っ張る。その成田さんも笑っていた。
 笑うふたりに向かって僕は手を振った。先輩の手を握り締めたまま。