みんなの恋人だった僕が先輩だけの恋人になるまで

 みんなの恋人。
 僕がそう呼ばれるようになったのは中学二年からだ。
 最初にこのあだ名が定着したのは吹奏楽部だった。
 僕は吹奏楽部でトランペット担当だったが、まったくの初心者だった。でも音楽が好きで音楽に関われる部活に入りたくて入部した。
 まったく楽器が弾けない素人の入部者はうちの中学にはあんまりいなくて、僕は確実に足手まといだった。だからせめて練習以外で役に立ちたくて、譜面台を準備とか、音楽室の掃除とか、楽器置き場の清掃とかを引き受けるようになった。
 力仕事も多くて大変だったけれど、つらいとは思わなかった。みんなが喜んでくれるとほっとしたから。
 ただ、やがてしんどさも覚えるようになった。最初のうちはみんなお礼を言ってくれたけれど、僕がやることが当たり前になって誰も労ってくれなくなったから。
 勝手にやっていることだし、見返りをもらおうなんてどうかと思ったけれど、心はしくしく痛んだ。
 そんな中で唯一、ずっと僕を褒めてくれた人がいた。
 それが、指揮者を務めていた坂本先輩だった。
「藤野、いつもありがとうな」
 坂本先輩は部員みんなから慕われていた。僕も先輩を慕うひとりで、先輩に褒められるとそれだけでうれしくて、一層頑張って部の仕事をするようになった。
 声をかけてくれる先輩のことを、好きだな、と思うようになるのにそれほど時間はかからなかったけれど、僕は打ち明けることなく、黙々と仕事をこなし続けていた。
 先輩と僕の関係が変わったのは夏休み。全体練習のあった日だった。
 その日、いつも通り、僕は誰よりも早く音楽室へ向かった。まだ午前中だったけれど、音楽室はねっとりと暑くて、僕は汗をかきながら譜面台を準備していた。そこに坂本先輩がやってきた。
「もう来てたの」
 坂本先輩はいつもの爽やかな顔で僕に声をかけてくれた。
「はい! こうしておけばみんなすぐ練習に入れるから」
「そっかあ。藤野はほんと気が利くな」
 先輩はにこやかに笑って僕に近づいてくる。そのたびに先輩がまとう柔軟剤のような柔らかい匂いが濃くなる気がした。
 照れながら譜面台を広げる。その僕の手に先輩の手がつと、重なった。
「藤野、俺ね」
 合奏のとき、皆に指示を飛ばす先輩の声。聞きなれているはずのそれが深く沈み、僕の耳をなぞる。気が付くと先輩は僕のすぐ脇に立っていた。
「お前のこと、好き。付き合わない?」
「え……」
 すごく、驚いた。
 喜ぶより先に、なんで? と思った。
「すみません、あの、なんで僕……」
 戸惑いながら問う僕に、先輩はうっすら微笑んで言ってくれた。
「誰にでも優しいから」
 ――優しい。
 そう言われて、うれしさが驚きに勝った。優しいは僕にとっての長所だってずっと思っていたから。
 それを見つけてくれて、好き、と言ってもらえた。好きな人に。
 心の底からほっと、した。
 けれど、先輩の、好き、の意味は、僕が考える好きとは違うと、やがて僕は知ることとなった。
「藤野、ジュース買ってきて。あ、今日、小銭ない。立て替えておいてくれる?」
「ああ、悪い。俺、急ぎで帰らないといけないからお前の自転車貸して。ほら、鍵出して」
 付き合い始めてしばらくして、坂本先輩に吹奏楽部以外のことでも頼まれ事をされることが増えた。
 おかしいな、と思わなくもなかった。でも先輩は折に触れて言ってくれた。
 優しい藤野が好き、と。
 だから深く考えないようにしていた。考えちゃだめだって思ってもいた。
 でもあの日。
「坂本、藤野使いすぎじゃね?」
 いつも通り部活に向かった僕は自分の名前が聞こえてきて、ドアの前で立ちすくむ。
 聞きたくない。そう思いながらも耳を澄ます僕の耳に飛び込んできたのは、
「え、そんなことないだろ。藤野、喜んでるよ?」
 坂本先輩の爽やかな声だった。
「だってあいつさ、頼み事するとめっちゃ笑うし」
「それは藤野がいいやつだからだろ」
「あー、まあね。でもさ、そもそもあいつ、いいやつってとこ以外、取柄ないじゃん」
 笑い交じりに坂本先輩が言う。同調するようにその場にいる人達がどっと笑った。
「おまっ、ひどっ」
「だって思わない? 面白くないし、暗いし。楽器できないし。いいやつじゃなかったら、あいつの価値ってなによ?」
「んー、たしかに」
「なんかさ、あいつ見てるとめちゃくちゃ尽くしてくれる恋人って感じしね?」
「あー、わかるー。ついついいろいろ頼みたくなんの」
「さしずめ、みんなの恋人ってとこかー」
 誰かが言ったその“みんなの恋人”にまた場が沸いた。
 楽し気な声の中には、坂本先輩の笑い声も混ざっていた。
 足から、力が、抜けた。
「……やっぱり、そっかあ」
 好き、と先輩は言ったけれど、それが恋愛感情によるものではなかったことはさしもの僕にもわかった。
 でも僕は先輩を責めなかった。
 だって、もともと自分でもそう思っていたから。
 僕は面白くない。楽器もうまくない。暗いし、そのままだったら価値なんてない。
 その僕に先輩は価値を与えてくれたのだ。優しいっていう絶対的な価値を。
 だから……喜ばなきゃ。
 先輩が僕を好きじゃなくても僕は。
「好きだった、んだけどな」
 声が滲んだ気がした。でもそれを必死に笑顔に押し込めて、話題が変わったタイミングを見計らって僕は音楽室のドアを開けた。
 その後、“みんなの恋人”というあだ名はあっという間に吹奏楽部全員に広まった。それどころか、気が付くとクラスの中でもそう呼ばれるようになっていた。
 先輩からの「好き」はうやむやのうちになかったことになった。
 あれ以来、僕はずっと優しい僕でいようとしている。
 そうすれば、誰かが僕の価値を見つけてくれるから。
 これでいいって思える、から。
 でも……。
 優しさじゃない部分を褒められたら、どうしたらいいの?