フェンスの向こうに先輩はいつも通りにいた。今日もスマホを眺めている。なにを見ているのか実は気になっている。でも訊けてはいない。
僕なんかが先輩に興味を持つなんて図々しいし。
「藤野」
僕に気付いた先輩がスマホから顔を上げる。いつも通りにレジャーシートの上に座って手を振ってくれる。それに僕は笑顔を向けようとする。
けれど、失敗した。
――媚びでもなんでも売って。
僕はこれまでの自分を否定したいわけじゃない。だって僕が頼み事を聞いたらみんな喜んでくれたから。頼りになるって笑いかけてもらえたから。
それがそのまま僕の価値になったから。
だからいいんだ。なのに僕は今、迷い始めちゃってる。
「どした?」
いつまで経っても近寄ってこない僕に違和感を覚えたのか、先輩がレジャーシートから立ち上がってこっちに来る。その先輩から無意識に僕は一歩後ずさった。
「藤野?」
怪訝そうにしながら先輩は近寄ってくる。今度はなんとか下がらずにいられた。
「先輩に、僕、訊きたいことがあって」
「なに?」
柔らかい声が落ちて来る。その声を聞いたとたん、目頭が熱くなった。
「僕は……ちゃんと先輩の役に立ってますか?」
先輩がわずかに唇を開く。その顔を見ていられなくて、僕は目を伏せる。
「ちゃんと先輩のメリットになってますか? 僕といて、先輩楽しいですか? 大事な時間、僕で無駄にしてませんか? 僕はなにをしたらもっと先輩に」
喜んでもらえますか?
全部を言う前に限界がきた。熱い瞼からぽろっと雫が滑り落ちるのを感じ、僕は慌てて顔を深く伏せる。先輩に見えないように。
だって泣いたりしたら、面倒なやつって思われる。
ただでさえ、僕は面白くない人間なんだから。手間をかけちゃったら一緒にいてもらえなくなる。
だから笑わなきゃ。
笑ってコロッケパン、差し出さなきゃ。
「逆に訊いていい?」
必死に笑顔を作ろうとしている僕に声が落ちてくる。作りかけた笑顔を一気に凍らせるような笑みの気配の一切ない声だった。
「藤野にとっての恋人ってどんななの?」
恋人って……?
思いもよらない問いかけに硬直する。そろそろと顔を上げると、先輩は険しい顔でこちらを見下ろしていた。
「メリットないと意味ないっていうのが藤野の中の恋人の定義?」
「え、と、それ、あの……」
「藤野は俺がメリットを求めて恋人になってって言ったと思ってるってことだよな。その言い方」
――あいつっていい人だってこと以外、取柄ないじゃん。
蘇ってきた声に心臓を押され、僕は息を整える。
「僕、面白くない人間ですから。メリットなきゃ恋人になってほしいって思ってくれる人なんているわけない」
「いるわけない」
先輩が僕の言葉の尻尾を繰り返す。冷たい響きに身を震わせる僕の肩を先輩が掴んだ。
「俺は藤野に恋人になってほしいって言ったよな。なんでそれ、信じてくんないの」
「え、あの、だって、先輩がそう言ったのは、僕がみんなの恋人だからですよね? 便利だから……」
「俺の、恋人に、なってほしいって言ったと思うけど」
言葉を一言一言区切るようにして先輩に言われて、僕は必死で記憶を掘り起こす。
――俺の恋人になってほしい。
確かに言われた。でも。
「先輩みたいな人が僕にそんなこと言うわけないし」
「俺みたいな人ってなに」
目がすっと細くなる。いつもの先輩と違ってすごく怖い。でも黙っていたらずっとこの顔をされる。それも、怖い。
「頭がよくて……ビジュよくて、みんなの憧れで。ひとりでも堂々として、いられる、人」
僕の肩を掴んでいた先輩の手が震える。そろそろと目を上げた僕を見たのは、冷たさを纏った瞳だった。
まるでぽかりと開いた穴みたいな目だ、とふと思った。
「俺はそんなんじゃねえよ」
はっと見上げた僕を、先輩は険しい目で見据えてから吐き捨てるように言った。
「全部勝手なイメージだろ。ってかさ、それを言ったら藤野だって同じだよな」
「え、僕……?」
「みんなの恋人なんて呼ばれたいの? 本当のお前ってそれでいいって本気で思ってる?」
「思ってますよ。だってそれしか僕の価値なんて」
「だったらなんでここで毎日熱唱してたの?」
ずばっと問われ、僕は目を見開く。
この人には確かに僕の歌を聞かれた。でも毎日だなんて。なんでそんなこと、知ってる?
「あ、の、それ、なんで」
「見てたから。ずっと。ここにいるお前のこと」
先輩は深く息を吐く。肩がきゅっと強く握り締められるのを感じた。
「藤野が黒木達にパン買いに行かされてたりしてんのは前から知ってた。でもお前いつも笑ってたし、そもそも俺とは関係ないって思ってた。けど」
言葉を探すように視線を彷徨わせてから、先輩は僕の肩をくいっと引く。
そのままプールサイドを歩かされる。辿り着いたのは、先輩が敷いたレジャーシートの前だった。
「見える? あそこ」
レジャーシートに乱暴に腰を下ろした先輩が僕を引っ張る。たまらず先輩の隣に腰を落とした僕に向かって先輩が言う。先輩の指はフェンスの向こうにある旧校舎を指していた。
「踊り場あるだろ。非常階段のとこ。あそこに俺いたの。昼休みはいつも」
「え!」
なんでそんなとこに……と驚く僕を先輩はちらっと流し見てから気だるげに息を吐く。
「藤野と一緒。人のいないとこにいたかったから」
「え……」
先輩は凪いだ目で僕を見つめ、言う。
「あそこから見てた。藤野がここでのびのびしてるとこ。歌ったり、昼寝したり。その顔見てたら表で見せる顔と全然違うって気付いてさ。だんだん気になるようになった。俺と似てるからさ。そういうの」
「似てなんてないです。先輩は人気者だから疲れるんだろうけど、僕はそういうんじゃ……」
言いかけた口が不意に手で押さえられる。
「俺の感覚まで否定するな」
乾いた手に口を押さえられてなんだかどきどきする。顔を赤くすると、悪い、と言って先輩はあっさり手を離した。
「俺ね、藤野がここで熱唱するとこ見て、元気、出たんだよね」
元気……?
「それは……ホリスナの歌詞が、よかったから、じゃないですか?」
そうだ。僕だってそうなんだから。ホリスナの歌詞には孤独を癒す力がある。だから僕もついつい歌ってしまう。先輩が元気が出たって言うなら、それは僕の力じゃない。
僕なんかになにかができるわけがない。
「歌ってるのが僕じゃなくても、先輩は絶対元気に……」
「違うよ」
硬い声に遮られ、僕は言葉を呑み込む。
「表であんな親切キャラ演じてるやつが、裏であんな剥き出しの顔で歌ってんのかって思ったら、めちゃくちゃ刺さったって言ってんの。俺と同じだって思ったから。俺もやってるからさ、秀才キャラ」
「それは……僕と同じじゃないですよね」
「同じだよ」
きっぱりと先輩は言う。いつもみたいに僕を凝視しながら。
「好き勝手に周りから噂されて、本当の俺なんて誰も見ない。お前と同じだよ」
さらっと先輩の前髪が風に揺れ、綺麗な顔が僕の網膜を焼く。それを見ていたら……どんどん苦しくなってきた。
たまらず首を振る。それを先輩がじっと見つめる。澄み切った目で。
嘘なんてついていなさそうな真剣なその目を見れば見るほど、怖くなった。
だって、そんなの見たら、信じたくなってしまう。
自分に価値があるって。でも、そんなの……信じられない。
「あの、ありがとうございます。でも先輩と僕が同じなんてことありません。僕にはなにも……」
「あるって言ってんだろうが!」
不意に先輩が声を荒らげる。思わず身を震わせると、先輩は、あ、というような顔をしてから低い声で言った。
「あるからお前のこと、俺、好きになったんだけど」
好き……?
その一言に体が強張る。
好き? 僕を、先輩が、好き?
「なあ、なに言ったら信じてくれんの?」
先輩の声が遠い。深く息を吸って、吐く。その僕を、藤野? と先輩が覗き込んでくる。
その顔に”彼”が重なって僕は息を止める。
次いで襲ってきた胸の苦しさを解消しようと肩を上下する。それでもだめだった。
胸に過去がつかえて、苦しい。
「藤野……どうし」
「先輩だってからかってるくせに!」
怒鳴ったとたん、驚いたような目がこちらを見た。
なんてことを口走ったんだろうと口を押さえ、僕は数歩後ずさる。
先輩は無言でこちらを見下ろす。その目がすうっと細くなった。
「藤野は俺を誰と混同してんの?」
――あいつっていい人だってこと以外、取柄ないじゃん。
先輩の声に胸の奥にずっと沈んでいた声が反応する。
それは……みんなの恋人の始まりとなった、僕の初めての恋人の声だった。
僕なんかが先輩に興味を持つなんて図々しいし。
「藤野」
僕に気付いた先輩がスマホから顔を上げる。いつも通りにレジャーシートの上に座って手を振ってくれる。それに僕は笑顔を向けようとする。
けれど、失敗した。
――媚びでもなんでも売って。
僕はこれまでの自分を否定したいわけじゃない。だって僕が頼み事を聞いたらみんな喜んでくれたから。頼りになるって笑いかけてもらえたから。
それがそのまま僕の価値になったから。
だからいいんだ。なのに僕は今、迷い始めちゃってる。
「どした?」
いつまで経っても近寄ってこない僕に違和感を覚えたのか、先輩がレジャーシートから立ち上がってこっちに来る。その先輩から無意識に僕は一歩後ずさった。
「藤野?」
怪訝そうにしながら先輩は近寄ってくる。今度はなんとか下がらずにいられた。
「先輩に、僕、訊きたいことがあって」
「なに?」
柔らかい声が落ちて来る。その声を聞いたとたん、目頭が熱くなった。
「僕は……ちゃんと先輩の役に立ってますか?」
先輩がわずかに唇を開く。その顔を見ていられなくて、僕は目を伏せる。
「ちゃんと先輩のメリットになってますか? 僕といて、先輩楽しいですか? 大事な時間、僕で無駄にしてませんか? 僕はなにをしたらもっと先輩に」
喜んでもらえますか?
全部を言う前に限界がきた。熱い瞼からぽろっと雫が滑り落ちるのを感じ、僕は慌てて顔を深く伏せる。先輩に見えないように。
だって泣いたりしたら、面倒なやつって思われる。
ただでさえ、僕は面白くない人間なんだから。手間をかけちゃったら一緒にいてもらえなくなる。
だから笑わなきゃ。
笑ってコロッケパン、差し出さなきゃ。
「逆に訊いていい?」
必死に笑顔を作ろうとしている僕に声が落ちてくる。作りかけた笑顔を一気に凍らせるような笑みの気配の一切ない声だった。
「藤野にとっての恋人ってどんななの?」
恋人って……?
思いもよらない問いかけに硬直する。そろそろと顔を上げると、先輩は険しい顔でこちらを見下ろしていた。
「メリットないと意味ないっていうのが藤野の中の恋人の定義?」
「え、と、それ、あの……」
「藤野は俺がメリットを求めて恋人になってって言ったと思ってるってことだよな。その言い方」
――あいつっていい人だってこと以外、取柄ないじゃん。
蘇ってきた声に心臓を押され、僕は息を整える。
「僕、面白くない人間ですから。メリットなきゃ恋人になってほしいって思ってくれる人なんているわけない」
「いるわけない」
先輩が僕の言葉の尻尾を繰り返す。冷たい響きに身を震わせる僕の肩を先輩が掴んだ。
「俺は藤野に恋人になってほしいって言ったよな。なんでそれ、信じてくんないの」
「え、あの、だって、先輩がそう言ったのは、僕がみんなの恋人だからですよね? 便利だから……」
「俺の、恋人に、なってほしいって言ったと思うけど」
言葉を一言一言区切るようにして先輩に言われて、僕は必死で記憶を掘り起こす。
――俺の恋人になってほしい。
確かに言われた。でも。
「先輩みたいな人が僕にそんなこと言うわけないし」
「俺みたいな人ってなに」
目がすっと細くなる。いつもの先輩と違ってすごく怖い。でも黙っていたらずっとこの顔をされる。それも、怖い。
「頭がよくて……ビジュよくて、みんなの憧れで。ひとりでも堂々として、いられる、人」
僕の肩を掴んでいた先輩の手が震える。そろそろと目を上げた僕を見たのは、冷たさを纏った瞳だった。
まるでぽかりと開いた穴みたいな目だ、とふと思った。
「俺はそんなんじゃねえよ」
はっと見上げた僕を、先輩は険しい目で見据えてから吐き捨てるように言った。
「全部勝手なイメージだろ。ってかさ、それを言ったら藤野だって同じだよな」
「え、僕……?」
「みんなの恋人なんて呼ばれたいの? 本当のお前ってそれでいいって本気で思ってる?」
「思ってますよ。だってそれしか僕の価値なんて」
「だったらなんでここで毎日熱唱してたの?」
ずばっと問われ、僕は目を見開く。
この人には確かに僕の歌を聞かれた。でも毎日だなんて。なんでそんなこと、知ってる?
「あ、の、それ、なんで」
「見てたから。ずっと。ここにいるお前のこと」
先輩は深く息を吐く。肩がきゅっと強く握り締められるのを感じた。
「藤野が黒木達にパン買いに行かされてたりしてんのは前から知ってた。でもお前いつも笑ってたし、そもそも俺とは関係ないって思ってた。けど」
言葉を探すように視線を彷徨わせてから、先輩は僕の肩をくいっと引く。
そのままプールサイドを歩かされる。辿り着いたのは、先輩が敷いたレジャーシートの前だった。
「見える? あそこ」
レジャーシートに乱暴に腰を下ろした先輩が僕を引っ張る。たまらず先輩の隣に腰を落とした僕に向かって先輩が言う。先輩の指はフェンスの向こうにある旧校舎を指していた。
「踊り場あるだろ。非常階段のとこ。あそこに俺いたの。昼休みはいつも」
「え!」
なんでそんなとこに……と驚く僕を先輩はちらっと流し見てから気だるげに息を吐く。
「藤野と一緒。人のいないとこにいたかったから」
「え……」
先輩は凪いだ目で僕を見つめ、言う。
「あそこから見てた。藤野がここでのびのびしてるとこ。歌ったり、昼寝したり。その顔見てたら表で見せる顔と全然違うって気付いてさ。だんだん気になるようになった。俺と似てるからさ。そういうの」
「似てなんてないです。先輩は人気者だから疲れるんだろうけど、僕はそういうんじゃ……」
言いかけた口が不意に手で押さえられる。
「俺の感覚まで否定するな」
乾いた手に口を押さえられてなんだかどきどきする。顔を赤くすると、悪い、と言って先輩はあっさり手を離した。
「俺ね、藤野がここで熱唱するとこ見て、元気、出たんだよね」
元気……?
「それは……ホリスナの歌詞が、よかったから、じゃないですか?」
そうだ。僕だってそうなんだから。ホリスナの歌詞には孤独を癒す力がある。だから僕もついつい歌ってしまう。先輩が元気が出たって言うなら、それは僕の力じゃない。
僕なんかになにかができるわけがない。
「歌ってるのが僕じゃなくても、先輩は絶対元気に……」
「違うよ」
硬い声に遮られ、僕は言葉を呑み込む。
「表であんな親切キャラ演じてるやつが、裏であんな剥き出しの顔で歌ってんのかって思ったら、めちゃくちゃ刺さったって言ってんの。俺と同じだって思ったから。俺もやってるからさ、秀才キャラ」
「それは……僕と同じじゃないですよね」
「同じだよ」
きっぱりと先輩は言う。いつもみたいに僕を凝視しながら。
「好き勝手に周りから噂されて、本当の俺なんて誰も見ない。お前と同じだよ」
さらっと先輩の前髪が風に揺れ、綺麗な顔が僕の網膜を焼く。それを見ていたら……どんどん苦しくなってきた。
たまらず首を振る。それを先輩がじっと見つめる。澄み切った目で。
嘘なんてついていなさそうな真剣なその目を見れば見るほど、怖くなった。
だって、そんなの見たら、信じたくなってしまう。
自分に価値があるって。でも、そんなの……信じられない。
「あの、ありがとうございます。でも先輩と僕が同じなんてことありません。僕にはなにも……」
「あるって言ってんだろうが!」
不意に先輩が声を荒らげる。思わず身を震わせると、先輩は、あ、というような顔をしてから低い声で言った。
「あるからお前のこと、俺、好きになったんだけど」
好き……?
その一言に体が強張る。
好き? 僕を、先輩が、好き?
「なあ、なに言ったら信じてくれんの?」
先輩の声が遠い。深く息を吸って、吐く。その僕を、藤野? と先輩が覗き込んでくる。
その顔に”彼”が重なって僕は息を止める。
次いで襲ってきた胸の苦しさを解消しようと肩を上下する。それでもだめだった。
胸に過去がつかえて、苦しい。
「藤野……どうし」
「先輩だってからかってるくせに!」
怒鳴ったとたん、驚いたような目がこちらを見た。
なんてことを口走ったんだろうと口を押さえ、僕は数歩後ずさる。
先輩は無言でこちらを見下ろす。その目がすうっと細くなった。
「藤野は俺を誰と混同してんの?」
――あいつっていい人だってこと以外、取柄ないじゃん。
先輩の声に胸の奥にずっと沈んでいた声が反応する。
それは……みんなの恋人の始まりとなった、僕の初めての恋人の声だった。



