みんなの恋人だった僕が先輩だけの恋人になるまで

「先輩!」
 フェンスを開けて声をかけると、スマホを眺めていた高宮先輩がつっと目を上げた。
「ああ、藤野。遅かったね」
 そう言ってスマホを仕舞う。先輩のお尻の下には見慣れた赤と白のチェック柄のレジャーシートがあった。
 大きすぎる弁当箱も。
 いつも通りの光景に胸をさざめかせながら、僕は全速力で駆け寄る。
「すみません、購買行ってて!」
「ああ、たまごサンド? 好きだな、藤野は」
「たまごサンドではなくて、今日は焼きそばパンです」
「あー、好きなの?」
 先輩が首を傾げる。長めの前髪がさらっと流れて、切れ長の目に少しかかる。前髪の陰からこちらを見るその目が大人っぽい。どきどきしながら僕はそうっと焼きそばパンの包みを先輩に差し出す。
「ん?」
「先輩に食べて、ほしくて」
「なんで?」
「いや、あの」
 どうしよう。やっぱり変だったかな。でも。
「先輩、購買、あんまり使わないって言ってたから。焼きそばパンも初めてかな、と……」
 ふうっと先輩の目が見張られる。しなやかな指が伸びて包みを僕の手から取った。
「俺のため?」
「あ、えと、はい」
「そっか」
 頷いた先輩の指がさらっと焼きそばパンの包みを撫でる。優しいその手つきを見ていたら、自分が撫でられたみたいでくすぐったくなった。
「ありがと」
 そう言って、先輩は焼きそばパンを大事そうに頬張ってくれた。

 ……よかった、喜んでくれた。

 先輩が焼きそばパンを喜んでくれた翌日から、僕は購買であらゆるパンを買うようになった。
 ある日はクリームパン。
 またある日はメロンパン。
 またまたある日は揚げパン。
 イチゴミルクを買っていったこともある。
 先輩は購買のイチゴミルクも初めてだったみたいで、美味しそうに飲んでくれた。
 ……おかしなものだと思う。いつも嫌われたくなくて動いていたはずなのに、先輩が喜んでくれると思うだけで心が浮き立って仕方ない。
 なんで先輩にはこうなんだろう。
 わからないけれど、購買に行くのが楽しくて仕方ないなんて初めてで、僕は浮かれていた。
 初めてをもらった気がして、すごくうれしかった。
 だから忘れていたんだ。自分の価値を。

 その日も僕は購買に向かっていた。無事にコロッケパンを買ってプールサイドへと向かおうとしていた。
「ちょい待ち」
 わくわくしながら歩いていた僕の前にたちはだかったのはひかるだった。
「咲人、最近、おかしくない?」
「な、な、なにが?」
「毎日毎日そわそわしながら購買にすっ飛んでってる。それ、どうして?」
「いや、あの、それは」
「もしかして誰かに命令されてるの?」
「めっ……」
 命令じゃない。でも確かにそう見えてしまうかもしれない。
「そういうんじゃないって。あの、ええと」
「あんたさあ、頑張ったっていいように使われるだけだってば! みんなの恋人なんてそんなの全然いい意味で言われてないからね? わかってんの?」
「わかってるよ。でも今回のはそういうんじゃなくて……」
「そういうんじゃないってどういうのよ」
「だから……ええと、他の人のお願い事は聞かないでほしいとも言われたし……」
「はああ?!」
 ひかるの目が尖る。僕より背の高い彼女にそんな顔をされて詰め寄られるとさすがにちょっと戦いてしまう。男として情けないって思うけれど。
「なにそれ! 専用の子分が欲しいって意味?!」
「違うよ。これは僕が勝手にやってんの。だから先輩は悪くなくて」
「勝手に? なんで?」
「なんでって」
 ……先輩に、喜んでほしいから。
 くっきりと聞こえてきた声になぜかかっと頬が熱くなった。
 僕はなにを赤くなっているんだろう。
 先輩は確かに、恋人になってほしい、とは言った。
 でもそれはみんなの恋人って呼ばれている僕のその、使い勝手の良さを自分のものにしたいって意味なんだと思う。
 だってそうじゃないか? こんないいところなんてない僕を本当の意味で恋人にしたい人なんているわけがない。しかもあんなハイスペックな人が。
 にもかかわらず、僕はなんで、先輩のことを思い出して赤くなっちゃってるんだろう。
「正直、あたしには咲人が利用されているようにしか見えない」
 声に僕は顔を上げる。苦い顔をしたひかるが腕組みして僕を睨み下ろしていた。
「だって今の話だとその人、先輩なんでしょ? それ立場利用して後輩いじめしてるってことじゃん」
 違う。
 ――もう、してもらってるよ。
 聞こえてきたのは、僕の口にそっとおかずを差し出しながら言った先輩の声だ。
 お願いごとを聞いて、とは言われた。だから頷いた。いつも通りに。
 でも先輩は違う。ほかの頼み事をしてきた人達とは根本的に違う。
 僕の頭をさらっと撫でた手、レジャーシートの上に座るように促す声。
 僕の膝の上に頭を乗せ、心地よさそうに瞼を閉じた顔。
 あれが、いじめるための、もの?
「ほんと誰よ、咲人、吐きなさい。あたしががつんと言ってきてやるから。ねえ、誰?」
「先輩はそんな人じゃない!」
 飛び出した大声に自分でも驚く。でもそれは僕だけではなくて、目の前のひかるも、購買や中庭、ぞれぞれの場所へと向かおうとしていた人達ものようで、一瞬周りがしんとする。
 ちらちらと注がれる視線にかっかしていた頭がすっと冷えた。
「ごめん、ひかる。心配してくれるのうれしいけど、あの」
「もう、知らない」
 ざわざわと再び声が戻ってきた廊下の片隅でひかるに向かって手を合わせる。その僕に落ちてきたのは素っ気ない声だった。
「あんたが嫌な思いしたら可哀想って思って言ってあげたのに。ほんと最低」
「あ、の、ひかる」
「もう好きにしなよ。媚びでもなんでも売って好かれたらいいじゃん」
 声に打たれ、呆然と立ちすくむ僕を置き去りに、ひかるは走り去る。背の高いその姿が消えたところで僕は手の中のコロッケパンの存在を思い出した。
「先輩に……渡さなきゃ」
 なんだか目の前が曇って仕方ない。でも行かなきゃ。
 喜んでもらいたいから。
 笑ってもらいたいから。
 先輩に。
 この気持ちはなんなんだろう。わけがわからないままに僕はプールサイドへと急いだ。