午前の授業が終わった後、購買でパンを買ってプールサイドへ向かう。
それはいつもと変わらない。ただあの奇妙な打診の後、プールサイドへと出るフェンスを開けた瞬間に見える光景は様変わりした。
「藤野」
先輩はたいてい僕より早くプールサイドにいる。こちらに手を振る先輩のお尻の下には、赤と白のチェック柄のレジャーシートまであった。
なんというか、僕よりよほどプールサイド生活を楽しんでいるようだ。
「すみません、お待たせしました」
「いいよ」
軽やかに言われてどぎまぎする。そろそろとレジャーシートの脇に座ろうとすると、なにそれ、と先ほどとは打って変わって重い声が飛んできた。
「なんでそっち座んの?」
「いや、勝手に座るのはどうかなと」
「そこじゃ汚れるだろうに」
言いながら先輩が腕を伸ばす。ついと引っ張られてシートに腰を落ち着けると同時に低い声が耳を掠めた。
「座ってくんなきゃシート持ってきた意味ないし」
え、と顔を上げたけれど、先輩はもうこちらを見ていなかった。
流れる沈黙に緊張しながら僕は視線を彷徨わせる。
レジャーシートの上には弁当箱があった。結構大きい。重箱サイズだと思う。先輩はいつも弁当だけれど、今日はいつもの二倍はある。僕より体が大きいし、こういう日もあるのかな、と思っていたらいきなり箸を握らされて驚いた。
「はい?」
「一緒に食べよ」
「は? え? でもあの僕、パン……」
「じゃあそれは俺と半分こしよう。いい?」
言いざま、先輩の手が伸びる。ちょうだい、というように目で促され、そろそろと僕はパンの入った袋を先輩に渡した。ありがと、と短い礼の後、がさがさと袋が開けられる。
「藤野、たまごサンド好きだよね」
「あ、はい。なんか落ち着くというか」
僕は昔からそうだ。同じメニューを延々と食べる。音楽もそう。ホリスナが好きって思ったらホリスナばっかり。面白みがない人間だと思う。
だからこそ、嫌われないようにしないとって思う。
この人にも。
「俺、あんまたまごサンド食べたことなくて」
「え、そうなんですか?」
「うち、和食こそ正義って家だから。だから購買もあんま、使ったことないんだよ」
言いながら先輩はたまごサンドの包みを破く。
「先、食べていい?」
「あ、どうぞ」
「藤野はそっち食べな」
指し示された弁当箱の中にはぎゅうぎゅうにおかずが詰め込まれていた。からあげ、卵焼き、筑前煮、きんぴらごぼう……白米の上にはおかかのふりかけ。
こんなの僕が先に食べていいやつだろうか?
「どした? 食べな」
「これ、先輩のお母さんが先輩用に作ったやつだと思うので、僕が食べるのは……」
そう言うと先輩が動きを止めた。またもあの射貫くみたいなまっすぐな目が来る。たじたじとなる僕を数秒見つめてから先輩は小さく笑った。
「藤野って、やっぱりいい子」
「はっ……? あ、いや、そういうんじゃ……」
「でも大丈夫。これ、作ったの、俺」
「え」
思わず弁当と先輩の顔を見比べると、先輩は軽い仕草で頷いた。
「うち弟四人いんの。だから母さんひとりじゃ手回らなくて。学校で弁当いるようになってからはずっと自分で作ってる」
「すごいですね……」
僕は一人っ子だ。両親は共働きで、忙しいからお昼は適当にして、と言われているけれど、自分で弁当を作ろうという発想なんてなかった。しかもこの人、弁当作りをしながら勉強もしっかりやってる。
僕とはもともとのスペックが違う。
がっくりしながら弁当に箸を伸ばす。卵焼きをつまんで口に運ぶ。
そこで目を見張った。
甘くて……めちゃくちゃふわふわだ。
「美味しいです……」
「よかった」
ほっとしたような声がすぐ隣から響く。ふっと顔を上げると、先輩と目が合った。けれどそれは一瞬で、すっと目は逸らされ、たまごサンドへと向く。ぱくり、と一口食べた先輩の口から、美味い、と声が漏れた。
「ちょっと感動」
「そ、ですか?」
購買のたまごサンドは確かに美味い。でも感動するほどだろうか。
これって先輩に気を使わせちゃってるのかも……。
「なんかごめんなさい」
「なんで謝ってんの?」
不思議そうにしながら先輩はたまごサンドをさらにかじる。調子に乗って全部食べちゃうとこだったごめんね、と言いながら残ったそれを僕の手に戻す先輩を見ないようにしながら、僕はぼそぼそと言う。
「僕はこんな美味しいの食べさせてもらってるのに、こっちたまごサンドしかなくて」
「しか、ね」
低い声に思わず目を上げる。組んだ膝の上に片肘で頬杖を突いた先輩が、僕を斜めに見やっていた。
「藤野、そういうの失礼」
「あ、えと、そうですよね。購買の店員さんに怒られちゃ……」
「そこもそうだけど、これに満足してる俺に失礼」
「え……」
固まる僕の手の中にあるたまごサンドの包みが、先輩の指先によってつん、と突かれる。
「これは俺にとって初めてのたまごサンド。藤野と出会っていなきゃ食べてないもの。つまり藤野は俺に初めてをくれたってこと。わかる?」
「あ……」
考えてもみなかった。目を見張る僕の耳に、藤野、と僕を呼ぶ声がするりと滑り込んでくる。僕は先輩に握らされた箸を僕は知らずきゅっと強く握り締める。
なんだろう、じわっと胸が熱い。なんで……?
「もっと教えてよ。お前が好きなものとか、いいなって思ってるものとか。俺はそれ全部知りたい。初めてをたくさん、ほしい」
真剣すぎる目に……どきっと心臓が鳴る音が聞こえた。
思わず胸を押さえる僕から目を逸らし、先輩は自分の弁当をつまみ始める。うん味付け悪くない、とぶつぶつ言っている横顔を僕はそおっと窺う。
この人と過ごすようになって一週間くらい。その間、ずっと違和感がある。
お願い事をされているっていう意味では、高宮先輩も黒木先輩や僕の周りにいた人達と変わらない。
購買でパンを買ってきてとか、譜面台用意しておいてみたいに、なにかをしてほしいってことだから。
でも高宮先輩は一緒に弁当を食べるのも、おしゃべりも、僕じゃなきゃできないことみたいに言う。
それだけじゃない。
僕はお尻の下のレジャーシートを撫でる。次いで目の前に広げられた弁当を見回す。
ただお願いを聞いてほしいだけの相手にこんなに親切にする理由があるだろうか。というか……よりわかんないのは……。
「藤野、味付け大丈夫?」
不意に顔を覗き込まれて僕は慌てる。焦りながら弁当箱の中から唐揚げをつまみだして食べる。
生姜が利いていてめちゃくちゃ……美味しかった。
「すごく、美味しい」
お世辞なく声が漏れてしまう。しかも敬語まですっ飛んでしまった。はっと口を片手で覆うと同時だった。
ふわっと先輩の目元が解けた。
「いい」
「なにがですか?」
「うれしそうな藤野」
そう言って自分も唐揚げを頬張る。すごく幸せそうに噛みしめるその横顔を眺めながら僕は混乱する。
ここでこうしているのは先輩がそうしたいって言ったから。だから先輩が喜んでくれるのが一番なんだ。なのに。
「藤野、こっちも食べな」
筑前煮を出され、僕はこくん、と頷く。
つやつや光る里芋。すごくこれ、好きだ。
でも僕は箸使いがうまくない。美味しいけれど憎らしい里芋は僕の箸を嫌って全然捕まってくれない。
「藤野、刺しちゃっていいよ」
見かねた先輩が声をかけてくれる。お言葉に甘えて突き刺そうとするけれど、刺そうとする箸さえかわしてくる。
おいこら里芋!
「よし、わかった」
すっと先輩の手が僕の手にある箸を抜き取る。そのまま美しすぎる手つきで里芋をつまむ。
「ほら、口開けて」
「あ、はい」
頷いて口を開けかけて僕は我に返る。
……いやいやいや! これはさすがに変かも!
「せ、先輩! 大丈夫です! 僕自分で……」
「藤野に任せてたら、いつまで経っても里芋は食べてもらえない」
う……確かに。
「ほら、藤野。口、いい?」
やんわり急かされて僕は口を開ける。
放り込まれた里芋はほくほくしていて、冷めているのにめちゃくちゃ沁みた。
美味いが顔に出たのか、先輩の顔もふわっと綻ぶ。
……なんだろう。先輩が笑うとめちゃくちゃ、うれしい。
喜ばせたいっていうか喜ばせてもらっている気になる。
こんなんでいいんだろうか。こんなんで、僕に価値、ある?
――あいつっていい人ってことしか取り柄ないじゃん。
聞こえてきた声に首を振り、僕は身を乗り出す。
「あ、あの! 先輩!」
「ん?」
「そ、その、僕にしてほしいことないですか!」
「え」
先輩の切れ長の目が見張られる。しばらくじいっと僕を見つめてから先輩は弁当箱に視線を落とす。
「藤野はほうれん草、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫ですけど」
「じゃあ、はい」
声とともにほうれん草の海苔巻が口元に差し出された。反射的に口を開けると、するっと優しい手つきで口の中へ入れられる。
ごま油がきいていてこれまたすごく美味かった。
……ってそうじゃなくて。
「あの! そうではなくて!」
「次、どれが食べたい? エビフライいく?」
「はい、そうですね……じゃなくて! あの! 僕も先輩になにかしたいんです!」
なんとか言えた。ふうふうと肩を上下させると、先輩は思案するように目を細めてからエビフライをつまむ。
「もうしてもらってるよ。一緒に弁当食べてるし、話、してる」
「でもこんなすごい弁当食べさせてもらって、俺全然役に立ってないですし。なにかしたいです。先輩が喜んでくれること、俺も」
「喜ぶこと……」
呟きながら先輩は僕の口許にエビフライを差し出す。
「じゃあ、食べて」
「は……」
「ほら」
凝視されて僕はこくんと小さく唾を飲む。
そろそろと口を開けるとエビフライが唇の前に差し出された。絶対美味しい顔をしたそれをかじる。やっぱりかりっとした歯ごたえが癖になる味わいだった。
先輩はこんなんで本当にいいんだろうか。ぐるぐるしながら昼食は続く。先輩のしたいことがこうやって弁当を食べることだって言うならごちゃごちゃ言うべきじゃないんだろうけれど……なんか心もとない。
「藤野?」
だってやっぱりこんなの先輩にメリットなさそうな。押し黙っている僕になにか感じるところがあったのか、先輩も黙っている。
無言の僕達の間を、湿った風が通り抜けていった数秒後。
「わっ」
思わず声を漏らしてしまったのは……膝にいきなり重みがかかったから。
もっと正確に言うと、先輩が僕の膝に頭を乗っけていた、から。
「せ、先輩?」
「いい」
僕の膝に頭を乗せたまま先輩がぽつりと言う。え、と目を瞬く僕を見上げ、先輩が太陽の光が眩しかったのか目を細めた。とっさに僕は先輩の顔に落ちる陽光に向かって手をかざす。
僕の掌の下でふっと先輩が目を見張ったのがわかった。
もしかして邪魔、だったろうか。
そろそろと手を下ろそうとした僕の手に先輩が手を伸ばす。相変わらず僕の膝に頭を乗せたまま。
「こういうのがいい」
「こういう、の」
「膝、貸してもらったりとか。あと」
言いながら先輩が僕の手をきゅっと握る。
「こういうこと、してくれるのがいい」
そう言ってふわっと笑う。
瞬間、どくん、と心臓が大きく身じろぎした。
まだこの人と会話するようになってそれほど時間は経っていない。だからこの人の全部なんて知らないけれど、どちらかというと表情はあまりないタイプだと思っていた。
その先輩が笑っている。すごく柔らかく、幸せそうに。
なんで……?
なんでこの人は僕になんて笑ってくれるんだろう。
全然、わからない。わからないけど、思ってしまった。
この人にもっと、もっと喜んでほしいって。
それはいつもと変わらない。ただあの奇妙な打診の後、プールサイドへと出るフェンスを開けた瞬間に見える光景は様変わりした。
「藤野」
先輩はたいてい僕より早くプールサイドにいる。こちらに手を振る先輩のお尻の下には、赤と白のチェック柄のレジャーシートまであった。
なんというか、僕よりよほどプールサイド生活を楽しんでいるようだ。
「すみません、お待たせしました」
「いいよ」
軽やかに言われてどぎまぎする。そろそろとレジャーシートの脇に座ろうとすると、なにそれ、と先ほどとは打って変わって重い声が飛んできた。
「なんでそっち座んの?」
「いや、勝手に座るのはどうかなと」
「そこじゃ汚れるだろうに」
言いながら先輩が腕を伸ばす。ついと引っ張られてシートに腰を落ち着けると同時に低い声が耳を掠めた。
「座ってくんなきゃシート持ってきた意味ないし」
え、と顔を上げたけれど、先輩はもうこちらを見ていなかった。
流れる沈黙に緊張しながら僕は視線を彷徨わせる。
レジャーシートの上には弁当箱があった。結構大きい。重箱サイズだと思う。先輩はいつも弁当だけれど、今日はいつもの二倍はある。僕より体が大きいし、こういう日もあるのかな、と思っていたらいきなり箸を握らされて驚いた。
「はい?」
「一緒に食べよ」
「は? え? でもあの僕、パン……」
「じゃあそれは俺と半分こしよう。いい?」
言いざま、先輩の手が伸びる。ちょうだい、というように目で促され、そろそろと僕はパンの入った袋を先輩に渡した。ありがと、と短い礼の後、がさがさと袋が開けられる。
「藤野、たまごサンド好きだよね」
「あ、はい。なんか落ち着くというか」
僕は昔からそうだ。同じメニューを延々と食べる。音楽もそう。ホリスナが好きって思ったらホリスナばっかり。面白みがない人間だと思う。
だからこそ、嫌われないようにしないとって思う。
この人にも。
「俺、あんまたまごサンド食べたことなくて」
「え、そうなんですか?」
「うち、和食こそ正義って家だから。だから購買もあんま、使ったことないんだよ」
言いながら先輩はたまごサンドの包みを破く。
「先、食べていい?」
「あ、どうぞ」
「藤野はそっち食べな」
指し示された弁当箱の中にはぎゅうぎゅうにおかずが詰め込まれていた。からあげ、卵焼き、筑前煮、きんぴらごぼう……白米の上にはおかかのふりかけ。
こんなの僕が先に食べていいやつだろうか?
「どした? 食べな」
「これ、先輩のお母さんが先輩用に作ったやつだと思うので、僕が食べるのは……」
そう言うと先輩が動きを止めた。またもあの射貫くみたいなまっすぐな目が来る。たじたじとなる僕を数秒見つめてから先輩は小さく笑った。
「藤野って、やっぱりいい子」
「はっ……? あ、いや、そういうんじゃ……」
「でも大丈夫。これ、作ったの、俺」
「え」
思わず弁当と先輩の顔を見比べると、先輩は軽い仕草で頷いた。
「うち弟四人いんの。だから母さんひとりじゃ手回らなくて。学校で弁当いるようになってからはずっと自分で作ってる」
「すごいですね……」
僕は一人っ子だ。両親は共働きで、忙しいからお昼は適当にして、と言われているけれど、自分で弁当を作ろうという発想なんてなかった。しかもこの人、弁当作りをしながら勉強もしっかりやってる。
僕とはもともとのスペックが違う。
がっくりしながら弁当に箸を伸ばす。卵焼きをつまんで口に運ぶ。
そこで目を見張った。
甘くて……めちゃくちゃふわふわだ。
「美味しいです……」
「よかった」
ほっとしたような声がすぐ隣から響く。ふっと顔を上げると、先輩と目が合った。けれどそれは一瞬で、すっと目は逸らされ、たまごサンドへと向く。ぱくり、と一口食べた先輩の口から、美味い、と声が漏れた。
「ちょっと感動」
「そ、ですか?」
購買のたまごサンドは確かに美味い。でも感動するほどだろうか。
これって先輩に気を使わせちゃってるのかも……。
「なんかごめんなさい」
「なんで謝ってんの?」
不思議そうにしながら先輩はたまごサンドをさらにかじる。調子に乗って全部食べちゃうとこだったごめんね、と言いながら残ったそれを僕の手に戻す先輩を見ないようにしながら、僕はぼそぼそと言う。
「僕はこんな美味しいの食べさせてもらってるのに、こっちたまごサンドしかなくて」
「しか、ね」
低い声に思わず目を上げる。組んだ膝の上に片肘で頬杖を突いた先輩が、僕を斜めに見やっていた。
「藤野、そういうの失礼」
「あ、えと、そうですよね。購買の店員さんに怒られちゃ……」
「そこもそうだけど、これに満足してる俺に失礼」
「え……」
固まる僕の手の中にあるたまごサンドの包みが、先輩の指先によってつん、と突かれる。
「これは俺にとって初めてのたまごサンド。藤野と出会っていなきゃ食べてないもの。つまり藤野は俺に初めてをくれたってこと。わかる?」
「あ……」
考えてもみなかった。目を見張る僕の耳に、藤野、と僕を呼ぶ声がするりと滑り込んでくる。僕は先輩に握らされた箸を僕は知らずきゅっと強く握り締める。
なんだろう、じわっと胸が熱い。なんで……?
「もっと教えてよ。お前が好きなものとか、いいなって思ってるものとか。俺はそれ全部知りたい。初めてをたくさん、ほしい」
真剣すぎる目に……どきっと心臓が鳴る音が聞こえた。
思わず胸を押さえる僕から目を逸らし、先輩は自分の弁当をつまみ始める。うん味付け悪くない、とぶつぶつ言っている横顔を僕はそおっと窺う。
この人と過ごすようになって一週間くらい。その間、ずっと違和感がある。
お願い事をされているっていう意味では、高宮先輩も黒木先輩や僕の周りにいた人達と変わらない。
購買でパンを買ってきてとか、譜面台用意しておいてみたいに、なにかをしてほしいってことだから。
でも高宮先輩は一緒に弁当を食べるのも、おしゃべりも、僕じゃなきゃできないことみたいに言う。
それだけじゃない。
僕はお尻の下のレジャーシートを撫でる。次いで目の前に広げられた弁当を見回す。
ただお願いを聞いてほしいだけの相手にこんなに親切にする理由があるだろうか。というか……よりわかんないのは……。
「藤野、味付け大丈夫?」
不意に顔を覗き込まれて僕は慌てる。焦りながら弁当箱の中から唐揚げをつまみだして食べる。
生姜が利いていてめちゃくちゃ……美味しかった。
「すごく、美味しい」
お世辞なく声が漏れてしまう。しかも敬語まですっ飛んでしまった。はっと口を片手で覆うと同時だった。
ふわっと先輩の目元が解けた。
「いい」
「なにがですか?」
「うれしそうな藤野」
そう言って自分も唐揚げを頬張る。すごく幸せそうに噛みしめるその横顔を眺めながら僕は混乱する。
ここでこうしているのは先輩がそうしたいって言ったから。だから先輩が喜んでくれるのが一番なんだ。なのに。
「藤野、こっちも食べな」
筑前煮を出され、僕はこくん、と頷く。
つやつや光る里芋。すごくこれ、好きだ。
でも僕は箸使いがうまくない。美味しいけれど憎らしい里芋は僕の箸を嫌って全然捕まってくれない。
「藤野、刺しちゃっていいよ」
見かねた先輩が声をかけてくれる。お言葉に甘えて突き刺そうとするけれど、刺そうとする箸さえかわしてくる。
おいこら里芋!
「よし、わかった」
すっと先輩の手が僕の手にある箸を抜き取る。そのまま美しすぎる手つきで里芋をつまむ。
「ほら、口開けて」
「あ、はい」
頷いて口を開けかけて僕は我に返る。
……いやいやいや! これはさすがに変かも!
「せ、先輩! 大丈夫です! 僕自分で……」
「藤野に任せてたら、いつまで経っても里芋は食べてもらえない」
う……確かに。
「ほら、藤野。口、いい?」
やんわり急かされて僕は口を開ける。
放り込まれた里芋はほくほくしていて、冷めているのにめちゃくちゃ沁みた。
美味いが顔に出たのか、先輩の顔もふわっと綻ぶ。
……なんだろう。先輩が笑うとめちゃくちゃ、うれしい。
喜ばせたいっていうか喜ばせてもらっている気になる。
こんなんでいいんだろうか。こんなんで、僕に価値、ある?
――あいつっていい人ってことしか取り柄ないじゃん。
聞こえてきた声に首を振り、僕は身を乗り出す。
「あ、あの! 先輩!」
「ん?」
「そ、その、僕にしてほしいことないですか!」
「え」
先輩の切れ長の目が見張られる。しばらくじいっと僕を見つめてから先輩は弁当箱に視線を落とす。
「藤野はほうれん草、大丈夫?」
「あ、はい。大丈夫ですけど」
「じゃあ、はい」
声とともにほうれん草の海苔巻が口元に差し出された。反射的に口を開けると、するっと優しい手つきで口の中へ入れられる。
ごま油がきいていてこれまたすごく美味かった。
……ってそうじゃなくて。
「あの! そうではなくて!」
「次、どれが食べたい? エビフライいく?」
「はい、そうですね……じゃなくて! あの! 僕も先輩になにかしたいんです!」
なんとか言えた。ふうふうと肩を上下させると、先輩は思案するように目を細めてからエビフライをつまむ。
「もうしてもらってるよ。一緒に弁当食べてるし、話、してる」
「でもこんなすごい弁当食べさせてもらって、俺全然役に立ってないですし。なにかしたいです。先輩が喜んでくれること、俺も」
「喜ぶこと……」
呟きながら先輩は僕の口許にエビフライを差し出す。
「じゃあ、食べて」
「は……」
「ほら」
凝視されて僕はこくんと小さく唾を飲む。
そろそろと口を開けるとエビフライが唇の前に差し出された。絶対美味しい顔をしたそれをかじる。やっぱりかりっとした歯ごたえが癖になる味わいだった。
先輩はこんなんで本当にいいんだろうか。ぐるぐるしながら昼食は続く。先輩のしたいことがこうやって弁当を食べることだって言うならごちゃごちゃ言うべきじゃないんだろうけれど……なんか心もとない。
「藤野?」
だってやっぱりこんなの先輩にメリットなさそうな。押し黙っている僕になにか感じるところがあったのか、先輩も黙っている。
無言の僕達の間を、湿った風が通り抜けていった数秒後。
「わっ」
思わず声を漏らしてしまったのは……膝にいきなり重みがかかったから。
もっと正確に言うと、先輩が僕の膝に頭を乗っけていた、から。
「せ、先輩?」
「いい」
僕の膝に頭を乗せたまま先輩がぽつりと言う。え、と目を瞬く僕を見上げ、先輩が太陽の光が眩しかったのか目を細めた。とっさに僕は先輩の顔に落ちる陽光に向かって手をかざす。
僕の掌の下でふっと先輩が目を見張ったのがわかった。
もしかして邪魔、だったろうか。
そろそろと手を下ろそうとした僕の手に先輩が手を伸ばす。相変わらず僕の膝に頭を乗せたまま。
「こういうのがいい」
「こういう、の」
「膝、貸してもらったりとか。あと」
言いながら先輩が僕の手をきゅっと握る。
「こういうこと、してくれるのがいい」
そう言ってふわっと笑う。
瞬間、どくん、と心臓が大きく身じろぎした。
まだこの人と会話するようになってそれほど時間は経っていない。だからこの人の全部なんて知らないけれど、どちらかというと表情はあまりないタイプだと思っていた。
その先輩が笑っている。すごく柔らかく、幸せそうに。
なんで……?
なんでこの人は僕になんて笑ってくれるんだろう。
全然、わからない。わからないけど、思ってしまった。
この人にもっと、もっと喜んでほしいって。



